endorphin voice, more better !








 アンジュに話を聞いてみると、やはり全身真っ黒の彼は先日長期依頼から帰ってきたユーリ・ローウェルという若者だという事が分かった。帰ってきたばかりだから今は少し依頼を休ませているらしい、代わりに船内の手伝いをやってもらっている、と。おそらく今も船内のどこかに居るだろう。
 それを聞いてルーク達は、歩き回るのも面倒なので部屋前で待つ事にした。耳栓は今日もしっかりと、前後をガイに任せきり。廊下に出れば見覚えのある壁、そうか確か昨日ここでぶつかったのだ、食堂前かつ彼の部屋前の廊下だったのか。ここで待っていれば昨日のあの声がもう一度聞ける。そう思うとルークの体はそわそわ落ち着かなくなり、昨日自分がぶつかった壁の跡をもじもじと指先で描いてしまう。
 記憶を再生すれば鮮やかに浮かび上がるあの声。あんた邪魔だからどっか行けよ……かなり馬鹿にしたように言っていたのが気に入らないがその分低音になっていたならそれはそれでイイ。高すぎず低すぎず、聴きやすい音域だった。あれを自分にだけ向けて喋られたら一体どうなってしまうだろうか、想像しただけで体が焦れてしまう。腹の奥の方がぐっと熱くなっていき、握り拳の爪痕が痛い。じっとしていられないような叫びたいような、人の思考を奪ってめちゃくちゃにしてしまう声だった。たまらない。
 低音は敬愛するヴァン・グランツがルミナシア最強だと思っていたのに、それを覆されてしまった。いいや最強さではまだまだヴァンが上に決まってる、何しろ強いし渋いし格好良い。ヒゲだし。だがどうしても心を掴んで離さない、あの音に惹かれる。多分きっと、おそらく、もしかしたら、好みやらなんやらを超えて好きになってしまったのかも。そうでなければ説明がつかなかった。

 ガイが居るので周囲を完全に任せルークは自分の思考に浸りきっていた。耳栓をしているので簡単に自分の世界に閉じこもれるので便利だ。廊下で棒立ちになる危険もあるがアドリビトムの人間は6割相手から避けてくれる。そしてブツブツと自問自答して心の整理をしようとするが、自分のプライドが邪魔をして掻き回す。知りたいような知りたくないような、ああどうしたものか。
 部屋の扉前、背中を曲げてあーでもないこーでもないと潜っていると突然……すぽんっと世界からの情報が入り込んでくる。驚いて顔を上げるが見えるのは扉のみ。ああそうか目の前で突っ立っていたんだった。耳に入る衣擦れと空気の感覚に、耳栓が勝手に外された事を気が付きルークは自分の耳を慌てて確認する、やはり無い。背中に居るのはガイだけだ、何すんだよおい! と怒鳴ろうとして後ろを振り向けば……真っ黒い人間がそこに立っていた。その手にはルークがしていた耳栓が。男は昨日と同じように呆れ返った表情で、クリアな音質をルークに向かって放った。

「またあんた、こんなモン付けて出歩いてんじゃねーぞ危ないだろうが」
「……っ!!」

 完全に油断していた状況、音の弾丸は容赦なくルークの心臓を撃ち貫く。ひゅっと息を吸い込み肺が縮んで、脳みそが一瞬にして煮え湯だってしまう。1音でも耳に入れて届けてしまった今、ぞわぞわと体中にその情報を伝達し麻痺させていった。背筋がぴしゃんと伸び鳥肌が立ち、きゅうっと瞳孔が開く。逃げ出したい逃げ出したい、今すぐ彼を捕まえて一生隣に置いておきたい、でもやっぱり逃げ出したい。どうすればいいのか分からなくて、ただルークはぷるぷると震えた。
 そんな姿を訝しんだ彼……ユーリは眉を潜め、どうしたんだよと一歩足を進めてくる。すぐにルークは狼狽えながらも視線は離さず口をパクパク開け放ったまま、反射的に一歩下がった。怯えて震えているのか興味深々に見つめているのか一体どちらなのか、本人ですら説明出来ない状態。何だこいつは、とユーリの表情が語ってもう一度一歩近付いてくるものだから、ルークも一歩下がった。
 ユーリが近付いてルークが下がる。狭い廊下はすぐに距離が終わって後ろの壁にコツンと当たるが、ずるずると横に逸れてまで距離を取った。すぐに馬鹿らしくなったのだろう、ユーリは呆れた溜め息を吐いて軽口を。

「おい何なんだ、耳栓しながら出歩くわ人の顔見て避けるわ……噂の王子様にしたって常識が無さ過ぎるんじゃないの」
「だだだだだだだだ、だだっだまれ馬鹿野郎! お前喋んな! いや喋っていいけど事前にちゃんと申告しろ! いややっぱり言うな無し無し無し!!」
「わっけ分からねーな」
「……成る程彼がユーリか。確かにルーク好みの声だなぁ」
「……っ! ガイ馬鹿黙れっ!」
「は? オレの声がなんだって?」

 ずっと隣に居たくせに助けなかったガイは、ユーリを感心したように見て酷い爆弾を落とした。何も今この場で言わなくてもいいだろうに、ルークは慌てて飛びつきガイの口を両手で塞ぐ。しかし今の言葉をしっかり聞いたユーリは不思議そうな顔でこっちを見てくる。反応せずに誤魔化せば良かったのに、ルークが殊更大袈裟に動いてしまったせいで余計に分かりやすくなってしまった。

「ななななな、なな、なんでもない、全然何でもねーよ! 何でもねーからおおおおおお、おお俺の事は気に、気にせずどっか行ってくれ! ほんとに、ほんとになんでもねーから、これ以上一言も喋らず立ち去りやがれ!」
「いやあんた達が塞いでんのがオレの部屋なんだけどね」
「うわああああああ喋んなっつってんだろうがー!」

 止めてもどんどん入ってくる声の情報にルークの体は勝手に興奮し頬が赤らむ。両手で隠しても首や腹、腕まで全身真っ赤になっていき抑制出来ない興奮が鼻の奥をツンと刺激した。
 そんなルークにユーリは驚き、大丈夫か? と疑わしくも心配そうな声を掛けてくる。心配するくらいならば声を出すな! と言いたいが今叫べば鼻や目から様々な液体が噴射しそうである。背中を向けて猫背に、とにかく必死で息を整えようと試みた。ヒッヒッフーヒッヒッフー、なんか違うなと思いながらもとりあえず深呼吸。数回繰り返してやっと落ち着いてきた、と思った所を何も知らない原因が性懲りもなく発言なんてするものだからまた最初からやり直しだ。

「どっか悪いのか? 頭とか」
「いや、ちょっと体調変化が激しいだけなんだ。悪いんだが少しだけ黙って待ってやってくれないか」
「オレは部屋に戻りたいだけなんだけど」
「ルークが昨日の事を謝りたいそうなんだ、もうちょっとだけ時間をくれるか」
「へえ? あの王子様がオレに謝りたい?」

 一体どんな噂が流れているというのだ、ルークは少しだけ気になった。ユーリは途端に顔を意地悪に笑って口角を上げている。ガイの説得で待つ気になったらしい、両手を組んでどこか偉そうなポーズ。くっそ、この声じゃなければ絶対関わりたくないタイプだ、とルークは鼻を摘む。
 ガイがひそひそと顔を寄せて大丈夫か今度にするか? と聞いてくる。ここまで来て後回しにするなんて逆に面倒だ、パッパと謝って仲良くなってそれからまた後で殴ろう。声の録音さえ出来ればこっちのものである、その機械はまだ手元に無いがとにかく。
 ルークはおそるおそる手を下ろしユーリの前に立つ。キッと見上げれば分かるが少し目線が上に行って身長差を感じさせイラッときた。相手はやたら偉そうに待つポーズで、ルークは途端に謝罪なんてなんで俺がしなくちゃいけないんだという気になる。だってあっちからぶつかってきたんじゃないか、俺は立ち止まってたんだぞ。……扉の真ん前で背中を向けて、耳栓をしていたが。
 ええい真偽はともかく、この場をさっさと終わらせよう。声だけは良いんだ、声だけは。丁度良く低くて落ち着きがあり、どこか色っぽい。アドリビトムメンバーなのだから仲良くなってしまえば毎日声を聞けるようになるだろう、そうしたらルークは毎日がパラダイスでハッピーだ、脳内麻薬がドバドバ止まらないかも。今でさえヴァンの呼び声にうっとり1時間は陶酔出来てしまうのに、この声で名前を呼ばれたりしたら……駄目だ! 死ぬかもしれない!
 考え直したルークはクワッと目を開き叫ぼうとした。テメーからぶつかってきたんだろーがテメーが謝れ! これで良いこれで完璧、こちらの方が自分らしい。麻薬ダメ、ゼッタイ。白衣のジェイドが怪しげな薬を注射し3日後何も体調変化ありませんでしたか? え、無い? それはおかしいですね……いやいや、こちらの話です健康体なら結構ですよ、お邪魔しました! と笑顔で去った時の恐怖は忘れていない。だから、だから……声が好きな自分は結構好きだが、前後不覚になってしまう程好きなのは駄目だ。自分が壊れてしまう。だから離れなければいけないなんとしても。嫌われよう、近付かないようにしよう。またこっそり盗み聞きしたり潜り込めば良いだけじゃないか、そうやって隠れて楽しめばいい。
 決意して口を開く、息を吸い込む。言葉を放出しようとした寸前、決死の形相だったのだろうあまりのルークの様子にユーリが先に言葉を発した。

「テ、テメーの……テメーのほう、からっ……!」
「ルーク……だっけ? マジで調子悪いならもういいから医務室行った方がいいんじゃないのか」
「お前の声が好み過ぎるからもう喋るなっつってんだろうが馬鹿野郎がーーっ!!」
「あ、ぶっちゃけた」
「……は?」
「ああああああもおおおおおおおおっ!!」

 名前なんか呼ぶから、しかも思ったより優しく。皮肉気な態度の裏で心配をちらりと見せる気遣いを感じてしまった。だからついうっかり本音が飛び出してしまい、ルークはコントロール出来ない自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱す。顔中が熱くてカッカ燃えている、こんな風に態度を出してしまうからすぐバレるというのに、自分は学習というものが無いのだろうか。
 おそるおそるユーリを振り向けば意地悪そうな笑みをニヤリと、へえ? と興味深くまるでオモチャを見つけた子供みたいに瞳を輝かせている。駄目だ今すぐ逃げよう。敵前逃亡じゃないこれは戦略的撤退なんだからな、格好悪くないったらない!
 しかし駆け出す前に壁へ突いたユーリの手が前方を塞ぐ。たじろいで後ろ足を引いた瞬間、ドン! と肩を壁に押し付けられた。近くでガイが迷う気配、それよりも先に体をぐっと近付けたユーリがルークの耳元で、色をたっぷり乗せて囁く。

「なぁお坊ちゃん、オレに5千ガルドくれよ」
「……いきなりカツアゲとは、悪い奴だなぁ」
「シーツ洗いなおした慰謝料だ、今ならそれくらいでまけといてやるぜ」

 途端に力を抜いたのはガイだが、ルークはぷるぷると鼻血が出ないよう顔面を必死に押さえて耐えている。間近で、あんなにも密着して、低く艶のある声。この際内容はどうでもいいのだ、あの美声が耳元で囁いたという1点のみ、重要なのである。
 背中を曲げて俯くルークの様子にユーリは少し慌て、おい本当に大丈夫か? と気遣わしげに聞いてくる。本当に心配しているなら今は話しかけないでほしい、ガイもぼーっと見てないで止めろ! ルークは充血して痛い瞳を瞑り脳内では罵詈雑言、しかし自分の手はがさごそと懐を探りゆっくり財布を差し出していた。心と違って体は大変正直である。

「いや、マジで財布出すなよ……。しかも少なっ」
「ルークはお小遣いとか無いからなぁ。欲しい物があると大体俺に買わせるから」
「余計悪いじゃねーか」

 そもそも財布を持ち始めた事すら修行の旅に出た時が初めてで、お小遣いと言えど他人に施しを受けるなんてプライドが許さない。だが吠えると鼻血が出そうなので、ふがふがとしか喋れない。必死でユーリが囲う腕から抜けだそうとしているのに流石剣士というか、塞いでいる腕はびくともしないのが大変にムカつく。それよりも何よりも、距離が近すぎてユーリの声が聞きとりやす過ぎる、一刻も早く距離を開けたいのに!

「ひゃべんあっていっへるはろー!」
「顔真っ赤だぞ、今にも血管が切れるんじゃないの」
「だれのひぇいだだえの! ……はぐぅっ!」
「ルーク、ほらちり紙」

 叫んだ拍子に鼻血が垂れ、ボトボトと白い上着を汚してしまった。これをやると後でリリスに怒られるのに、全く何もかもこいつのせいだ。喋るなと言っているのに近付いて喋る、とりあえずさっさと財布を受け取れ。
 ようやくガイがユーリを引き離し血を拭ってちり紙のこよりを作り手渡す。ルークは鼻を摘みながらふがふが、何時までも受け取らない財布をユーリに向かって投げつけた。

「子供のお小遣いを奪うつもりはねーよ。それよりもお前本当にオレの声にそんな反応してんのか?」
「見ての通り、ユーリの声はルークの好みど真ん中みたいだな」
「ガイおまへだまっへろ!」
「まぁ、人の趣味にケチつける気は無いけど。オレは前にぶつかったのを謝ってくれればそれでいいし」
「わるかったなばかやろー!」
「おお、ルークがヴァン以外に即行で謝るなんて初めて見た!」
「これ謝ってるって言うか?」

 謝れと言われて謝るなんてルークを知る者からすれば天変地異だ、現にガイは慄き震えている。そんなふたりにユーリは呆れ、それからとんでもなく意地悪な事を言い出した。

「船内で噂の我儘お坊ちゃんがオレの一声で大慌てってのも面白いかもな」
「おーまーえー!」
「あんまりからかわないでやってくれよ、ルークには俺から言っておくから」
「それはこのお坊ちゃんの態度次第って所だ、良い子にしてるなら何も文句はねーさ。なぁ?」
「うひっ!? みっみみみみ耳元で囁くな!」
「ここまで効果絶大だと面白いわ」

 それじゃあな、とユーリは笑いながら部屋に入って行く。プシュと閉まった機械音を聞いて、ルークはへなへなと崩れ落ちた。

「こ、腰抜けた……」
「うーん、見事に重症だなこれは」

 ガイが言うように膝が笑ってガクガクと、頭はまだ茹だってぐるぐる混乱しており息切れが。去り際に吹きこまれた低音のせいで体中にふわふわ浮つく感覚が離れない。他の誰の声にもこんな反応が起こった事なんて無いのに、どうしてあいつにだけ。自分でも分からない感情。果たしてこれは趣味嗜好に入るのだろうか。そんな範囲を思いっきり超えているような気がしてしょうがない、だからといってそれがどう呼ぶべきものか、今のルークではますます分からないのだけれど。




 新しいオモチャを見つければそれで遊びたくなるのが人というもの。例に漏れずユーリ・ローウェルという男もそうだったらしく、事あるごとにルークの前に現れては積極的に弄っていくようになった。正確に言うとルークが手伝わない・やらない・我儘を言う現場に鼻を利かせて登場するものだから、周囲としては微笑ましく助かっている、らしい。ルーク本人にとっては地獄だが。

「だー! なんで俺が洗濯しなきゃなんねーんだよめんどくせぇー! こーいうのはブタザル執事の仕事なんだろっ!?」
「すみませんルーク様、お手伝いしてもらって」
「ルーク、アドリビトムでは皆平等に当番を受け持っているのよ。あまり力を入れるとシーツが痛むでしょう」
「うっせーっつーの! こんな大量にやってられっか、俺は飽きたぞもうやめる!」
「しょうのない人ね……」
「まーたお坊ちゃんが我儘言ってんのか? どらオレが見てやるぜ」
「ひいいっ! テメーユーリ耳元で喋んなああああああっ!!」
「オレが親切丁寧にイチから、手取り足取り教えてやるから感謝しろよ」
「ぎゃあああああああっ! ぶふっ……!」
「きゃあ! ルーク鼻血が!」

 ……こんな具合である。わざとらしく体を近付け、耳元で囁くのだ。耳栓もユーリの命令で禁止されてしまい、他人の言う事なんて聞きたくないが着けているとぴたりくっつき耳栓を外され耳に息を吹きこまれる上に一晩中囁かれて寝不足に陥らせてくる。一見双方アレだが、ユーリの教育でルークの我儘という出る杭は打たれているので周囲としては助かっているので傍観姿勢。
 ユーリの声に反応してたまるか、とルークの決意だけは立派だが実際声を聞けばヘロヘロと力は抜け頭がカーッと燃え盛る。あの声から麻薬物質が直接出ているに違いない、と思うようになってきた。最近では毎日こうやって遊ばれているので、毎晩寝る前に悶々としている。辱められているのは確実で遊ばれているのも事実、しかしユーリの美声を盗聴せず毎日聞ける喜びに悶えている自分も存在して悔しいやら嬉しいやら。とりあえずここ最近で血圧が上がり続けているので注意してくださいね、とジェイドに生温い笑顔で言われたのはムカつく。

 そんなある日の事、食堂で昼食を摂っていた時だ。メニューが海鮮丼で通常を考えればかなり豪華なのだが、海鮮が苦手な人間が丁度運良く……いや悪く揃っていた。ルークがこんなモン食えねーよ! と声高らかに主張し、ナタリアの隣に座るアッシュはひとり青い顔をしている。海鮮と言ってもルークは魚が苦手、アッシュはタコが苦手である、だがルークが大騒ぎしているので反面教師なのか意地なのか他の皆は黙々と食べていた。
 ルークの好き嫌いの多さはよく知れ渡っている、リリスが呆れた溜め息を吐きお玉を取り出す寸前その男は面白そうな顔で現れた。

「なんだまた好き嫌いかよ。ホント懲りないねこのお坊ちゃんは、学習能力あるのか?」
「うげぇ!」
「お帰りなさいませユーリ様。今昼食をお持ちしますね」

 ユーリは颯爽とルークの隣に座り、スプーンを奪って海鮮丼を一口ぱくり。うんうめーな、満足気に笑ってからもうひと掬い、それをルークの口元へ運んだ。表情は大変愉快に満ちて、食べないと分かってんだろうな? と言わずとも。

「ほら食えよ」
「ひぃ〜……」

 震え声でひと泣き、ルークは嫌々ながらも口を開け大人しくそのスプーンを受け入れる。ぱくりと口に投入、噛まずに飲み込んでやろうとすれば先読みしたユーリが良く噛めよと笑顔で、顔を近付けて。最早半泣きだ。もぐもぐ噛み締めればマグロ・タコ・ハマチ様々な海鮮の旨味が口の中に広がっていく。脳からぶわっと拡散される快楽物質が、美味しい食事なのかユーリの美声のせいなのか判断が付かない。
 とりあえず本当に、囁くように喋るのは止めてもらいたい。他の人間と話す時はもっと普通に喋るくせに、ルークに対してだけ色艶を含めたような重く低い、痺れる美声を大盤振る舞いしてくるのだ。このままでは死んでしまう色んな意味で。

 泣きながらも他人の言う通り食べているルークに、ナタリアは驚くと同時に微笑んだ。ルークの性格を知っている者は特に、ヴァン以外で簡単に誰かの言う事なんて聞く事は無いと言っていい事を知っている。それをどう取るか、ナタリアは新しい環境、年上の剣士のからかいを微笑ましく思ったらしい。

「ルークはユーリの言う事ならば何でも聞くのですね」
「はん、弱味か何かでも握られてるんじゃないのか」

 双子の弟は片割れの事を嫌という程知っている。そう簡単に変わるものかと馬鹿にしたように笑った。ぎくりと肩を揺らしたのはルークの方だ、自分の性癖の事は一切口外するつもりは無い特に弟には。だからこそ余計に過剰に反応してしまった。

「そ、そそそそそんなわ、わわわわけ、わけないだろ何言ってんだ!」
「うお! 急に立つなって」

 動揺のあまり立ち上がりガチャン! とコップを倒してテーブルの上を水浸しに。ユーリがさっと布巾でそれを拭いて一見何事も無かったかのような空気。しかし隠せないルークはあわあわと自分から何かあります、と自分でバラしている。それを見たアッシュは訝しげに眉を潜めた。

「おい……まさか本当に脅されてるんじゃないだろうな?」
「ん、んな事あるかってーの! ままままさかこの俺が、ひひひひ秘密を握られてお、脅されてるとか、ははは……。ありえねーっつーの、何も隠し事なんか無いぞなんも無いからな!」
「おーい、火に油を注がないでくれるかお坊ちゃんよ」
「ひぃ! 悪かったって!」

 ユーリがふぅ、と耳に息を吹きかけるものだからついルークは反射で謝ってしまった。これにアッシュはクワッと瞳をかっ開く。何度も言うかルークがヴァンや両親以外の人間に、素直にかつすぐ謝ったりする事はまず無い。アッシュからすれば17年も一緒に生きてきたので絶対の自信を持って確信出来るくらいだ。
 何か自分の知らない裏側で自体が動いている。国の跡取りたるルークを支える影となるべく教育を受けたアッシュは、本人の感情の外で……いや無意識で怒りを爆発させた。

「きっさまぁユーリ・ローウェル! この馬鹿を利用してどうするつもりだ表に出ろォ!」
「何か勘違いしてるみたいだけどオレは利用も何もしてないぜ。ただこのお坊ちゃんで遊んでるだけだ」
「そうだぞアッシュ! ユーリは……ユーリは関係ねーんだ、全部俺が勝手にやってるだけなんだよ!」

 ルークの言葉に、付き合いの長いナタリアは驚く。最近知り合った人間はなんとも思わないだろうが、ルーク周辺の人間は違う。決して絶対どうあがいても、ルークから出るとは思っていなかった言葉の数々だ。これはまさか本当に……? そう思わせる。アッシュはそう結論が出たようでブチブチと血管を浮かべてバン! とテーブルを叩き怒鳴った。

「この馬鹿がこんなふざけた事抜かす訳無いだろうが! 貴様の企みを全て吐かせてから打ち首にしてやる今すぐ剣を抜けぇ!」
「ちょ、違うっての! おいルークもう喋らないでくれるか」
「わ、わりぃ……もう喋らないから、だからアッシュにだけはあの事は言わないでくれっ!」
「ユーリ・ローウェル今すぐ死ねっ!!」
「お前わざとかっ!?」

 アッシュの頭はカンカンに沸騰し、殺気を隠さず剣を抜く。それに慌てたのは周囲だ、リリスは手に持つお玉のターゲットを切り替えたりロックスは悲壮な悲鳴を上げて右往左往。アッシュはナタリアが止める前にユーリへと飛びかかり、普段の冷静であろうとしている姿勢を完全に忘れてブチ切れ狭い食堂内で剣を奮った。
 どすんばたんと大立ち回り、ユーリもユーリで躱せばいいものを好戦的なサガがにょっきり顔を出し、自身も剣を抜いて応戦し始める。しまいには魔法も発動させてとんでもない事に。数々の食器と器具、テーブルを破壊し尽くすまで収まらなかった結末をここに記しておく。当然、アッシュとユーリにはアンジュとリリスからきっちりと罰が降ったのだが、その報復としてとばっちりがルークにも飛んだ事は言うまでもない出来事だった。






  


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