endorphin voice, more better !








 過去に剣を握っていた跡が見える、今ではそんな姿を見たことの無い手が濃い紅色の髪をぎこちなく撫でていた。おっかなびっくり、自分の方が歳も身長も上なのに自分の方が怖がっているみたいに。こうすればきっと喜びますよ、と言われた教えに従って不器用に試しているみたいな感じに見えた。普段引き締めた厳しい顔ばかり表に出しているのに、こういった時は弱り切って困っている。しかし対してそれを受けている側も大概なもので、お揃いみたいにぎくしゃくしていた。半分くらいの身長から瞳を見上げている純粋さだが、最近怒りっぽくて増えてきた皺はそっくりだ。ふたり揃ってぶきっちょに、褒める者と褒められる者。傍に控えているメイドと騎士はこの状況を微笑ましそうに肩を少しだけ揺らし、生真面目な執事長に咳で注意されている。
 暖かそうで微笑ましい、外から見ればきっとそんな感想しか出ないだろう。不器用な父親とそれをそっくり受け継いでいる優秀な息子、出来の良さを珍しく褒めようとして、けれど普段のせいで中々上手く言葉に出来ない。よくやったな、だとか自慢だ、とか単純に言えばいいのにその役目は母親に任せきりでいざ自分が褒めるとなると過去の栄光も形無しな具合。けれどそれでも誰かに譲らないのだから、普段を知っている分それだけで父親の努力を垣間見れた。
 結局、硬そうな言葉とやたらめったら緊張した声を咳払いで誤魔化しつつ、小さな深紅色のつむじをそっと撫でるに終わる。もっと大袈裟でも褒めてやればいいのに子供相手では分かり難いのでは、そう思われるが相手も大概硬いので、それだけでいっぱいいっぱいになっている様子が遠目からでも分かった。家庭教師や母親、メイドや執事長から褒められるのは慣れているが、父親からはあまり無い。忙しいという事もあるし、父親自身が優秀であり今その過去をなぞっているに過ぎないのだ。いいやそれでも十分立派だ、と周囲は言うのだが当の本人と該当者はそう思っていないのだから面倒でもあり上手くいっているものでもある。

 ルークは遠目でその光景を羨ましく見た。優秀な父親から産まれた優秀な息子、それを不器用ながらも褒めている姿。滅多に無い事だ、建国祭よりも稀だと言える。当然ルークはあの手で撫でられた事は無いし良くやったな、なんて聞いた事が無い。言われるのは大抵、お前は将来王になるのだから、そんな辺り。
 良いな、と思った。自分もあの父親から褒められたいし頭を撫でられたい、お前は誇りだ、とか言われたらその日を記念日にしてもいい。しかし双子の弟が優秀過ぎてまず先に彼の功績に人々の目は行く。どうしよう、頑張ってもアッシュより頭が良くなったり体をふらつかせず木刀を振れる自信が無い。まだルークは机に座って教科書を相手するよりガイと遊びたいし、アッシュに遊んで欲しい誘惑の方が強かった。
 でも、でも良いなと思った。聞きたい、自分を見て自慢の息子だ、と口にするあの声。ぎこちなくても良い、おだてられてでも良い。低く落ち着いた音域がルークに向けて良くやった、と。
 幼心にその欲求は強く残り体に刻まれる。欲しい物を欲しいと望めば大体の物は手に入るけれど、けれど本当に欲しい物は滅多に手に入らなくて。飢餓を癒やしたくて望んでもますます飢えるだけ、そんな連続が待っているとも知らずその時のルークは瞳を閉じて漏れる声を必死に拾う。
 アッシュにだけ向けられた称賛、低い声、微笑む周囲の視線。自分はあの部屋に入れない、せいぜい爪先ぽっちだけ。俺も褒めろと暴れれば良い、何時ものように。しかしそうなるときっとアッシュの機嫌を損ねるしせっかくの場を台無しにしてしまう。双子の弟が優秀で努力しているのは知っているし、年齢に見合わず自分に厳しいのも知っている。特に父親に認められる事はアッシュにとって喜びなのは傍目からでもよく分かった。だからますます羨ましい。
 どちらにどう羨ましいのだろうか、今のルークではまだ自分の心すらよく分からなかった。しかしもやもやと胸に落ちる薄暗い気持ちと、耳に届く微かなアッシュを褒める声。羨ましい、良かったな、良いな、俺も褒めてくれないかな。でも勉強ばっかりなんて嫌だし。湧いてくる気持ちが面倒になり、ルークは瞼を閉じて蓋をした。後は流れてくる音。やっぱり最後に残ったのは良いな、という気持ちだけ。




*****

 子供の頃の経験からトラウマという話はよくあるだろう。犬に噛まれたから犬嫌い、食べ物に当たって腹を壊したので食べられない、定番だ。その逆もしかり、ルークはその典型だった。いや決して数々の好き嫌いにトラウマがある訳ではなく、ただ1点どうしても自分から切り離せなかった出来事。これだけが体に染み付いて焼け焦げ、記憶は無くなっても感情は忘れられなくなってしまったのだ。
 人に知られれば眉を潜められる自覚はあるので誰にも言った事は無い。せいぜい従者兼兄貴分兼親友にバレただけ。失策だとは思うが逆に思いの丈を制限無く口に出せるというのは中々気持ちが良い。いや出してはまずい、表情にも出してはいけないそんな姿格好悪すぎる。そう考えながら当のルークはバンエルティア号甲板、船の外壁にびたりと張り付きハァハァ息を荒げ、充血した眼差しで姿を隠していた。空を飛ぶカモメ達には幾らでも見られているが船員に見つからなければいいのだ。

「ロイド、最近クレスと手合わせしているようだが……明日その成果を見てやろう。修行に出るぞ」
「いきなりだなぁクラトスは。でも俺もそろそろ見てもらいたかったし、丁度いいや」
「最近ロイド、すっごく頑張ってるもんね」
「その代わり姉さんの授業の時は散々だけど」
「ジーニアス、それは言うなって!」
「……剣もいいが勉学も怠るなよ」

 わいわいと、同郷のよしみで親しげなのはロイド達。歳の近いロイド・コレット・ジーニアスは友達感覚で騒がしいが、剣の師匠であるクラトスは混ざらず落ち着いた態度。低い声はあの中でも埋もれずくっきりと聞こえよく通る。ルークは特にそれを聞き分けようと、危うい足元を必死で寄せていく。バンエルティア号はつるりとした金属で滑りやすいが装甲が分厚いので案外足場となる縁は多く、基本的に船の窓はシャッターが閉まっているのでバレる事も無い。それこそ今海上をゆっくり走行しているバンエルティア号の外観を見れるのは同じ様に空を飛ぶ鳥達くらいだ。
 風が穏やかに凪いでいるが、直で受け続けると地味に辛かった。足がぷるぷると震えて正直やばい、しかし今この場を離れる訳にいかないあらゆる意味で。
 甲板でロイド達が楽しげに会話している中、必死で耳を澄ましひとりの声だけを聞き取る。ロイドは最近手合わせに加わったルークの事を話題に出しており照れるやら恥ずかしいやら、ちょっとくすぐったいのだがぶっちゃけ今は黙っててくれないだろうか。いやロイドが話しかけなければ彼は滅多に口を開かないのでもっと喋ってくれとは思うのだが、だがロイドが喋れば彼の声は聞こえない。いいやルークの耳はしっかり聞き分け聞き取っている。どうせ褒めてくれるなら別の所で話題に出してくれてもいいんだぞ、と別口で聞きたいのは我儘だろうか。いやそんな事よりも、そろそろ船内に入ってくれると嬉しいふくらはぎの筋肉がやばい。いやいや船内に入ればルークが彼の声を聞く機会はもっと無い。出会えて精々ああ、とかそうだな、とか不精な相槌だけ。そんな所も痺れるとはいえ、今は爪先が先に痺れているのだ早くしろ。

「それでさールークが怒ると本当にアッシュそっくりでさ」
「分かる分かる、流石双子って感じだよね」
「もっと仲良くすればいいのにね?」
「……」

 小さくなっていく世間話、ロイド達はようやく船内に入ったようだ。話題が少々気になるも、今ルークの脳内では新鮮な音声データが反響しまくっておりそれどころではない。何度聞いても痺れる、胸の奥でズンとくるあの重さ。やはり声は低音に限る。人生の重みや意志の強さを声にまで滲ませる稀有さがたまらない。贅沢を言えばもっと近くで聞きたいのだが、あんな低音を間近くで聞けば腰砕けになってしまいそうで恐ろしい。はあぁ、とルークは陶酔の溜め息を吐いて全身の力が抜けていった。抜けた拍子に爪先がずるり、と嫌な音。

「あ」

 低音とは程遠い自分の声が間抜けに上がる。海上走行中のバンエルティア号の真下は当然ながら海。船体にスクリューは無いとは言え巻き込まれては確実にお陀仏だろう、人生のピンチ。しかしそれよりも先にルークは、今聞いたクラトスの低い美声が記憶から抜けないように、両手で耳穴を塞いで海に勢い良く落ちていった。


 ルークは声が好きだ。特に自信や経験が滲む、渋い音が心臓にずーんとクる。特に好みは低音系。だが待って欲しい低音なら誰でも良いという訳ではない。低音でも騒がしいのはよくない、冷静沈着に周囲を見渡し見守るような、べたべたし過ぎないでも突き放しすぎない低音。そんな細かく分かるものか、と言われてもルークには分かるのだからしょうがない。実際ルークの剣の師匠であり国の騎士団長であるヴァン・グランツは理想中の理想ど真ん中である。
 落ち着いて、優しくて、格好良くて、渋くて、最高で、低音で、低音で、低音で。3回言うくらい素晴らしい。声の低音というのはあまり無いのだ、持って生まれたその人間の素質そのものと言ってもいい。低い声は説得力を生む、この人を信じれば万事大丈夫だと思わせる魅力がある。声とは声だけではない、その人の生きてきた人生を思わせる、ひとつの設計図だ。どこがどう設計図だ、と突っ込まれると上手く説明出来ないので誰にも言えないが。というか説明が面倒臭い。
 ルークは分かってもらおうとは思っていない、ただ自分が好きなだけ。一応ちょっと、低音に酔っている自分は変態くさいかもしれない、という僅かな常識はあるのでおおっぴらにはしないが。一体どうして自分が、他人の低い声に対しこれ程までに陶酔してしまうようになったのか。その始まりが今では思い出せない。今思い出せるのは新鮮なクラトスの美声。弟子に対して真面目に、しかし少しだけ心配している僅かな緩みを感じられた。だが決して表に出さない、その不器用な温かみが胸をじんと締め付ける。
 綺麗な声が好きだ、低音ならばなお良い。低音の奥に秘められた感情を見つけた時、自分に言われているような気持ちになって震える。その瞬間がたまらなく、――快感なのだ。

「――で、溺れて船を止めて緊急救助の大騒動って訳か」
「ああ、全く大変だったぜ腹から落ちたから骨にヒビが入って息は出来ないしそもそも泳げねーし海水飲んじまうしうえっ! 何よりもクラトスの声も忘れちまったちくしょうもったいねぇ! あーでもセネルって怒ると声低くなるんだなあれは中々良かった」
「セネルの前にチャットやアンジュも怒ってたぞ? アッシュはお湯が湧かせそうな勢いだったぜ」
「アッシュは何時でも沸かしてるだろ、いいんだよそんなもん」

 叱られようが怒られようがルークはケロリとしている、ガイの苦言も右から左に流してガサゴソと本を用意した。今からリフィルの授業があるのでそれに参加するつもりなのだ。先日盗み聞きをして海に落ちた、何故海に落ちたのか決して口にしなかったので普段の態度からどうせふざけて遊んで足を踏み外したんだろう、と現在外出禁止中である。その間の時間を有意義に使うため、勉学に精を励むのであるはい建前ここまで。

「リフィルって怒るとドスが利いた良い声してんだよなぁ〜。女の声はあんま惹かれなかったけど、特にロイドを怒る直前がすげー格好良くってさー! ロイド今日も居眠りしねーかな」
「こらこら、友人の危機は助けてやれよ」
「ってーかロイドは良いよなぁ。クラトスと同室で。頼み込んで一晩くらい代わって貰えねーかな……いやでもあの声を一晩中聞いてたら俺は……俺はっ!!」
「落ち着けルーク、涎が出てる」
「涎じゃねーよ! これはなんつーか……心の汁だ!」
「いや涎だろ」

 じゅる、と拭ってルークは誤魔化した。数年前は涎まで出なかったのに、アドリビトムに加入してからあっちでもこっちでも美声カーニバルで心の処理がおっつかない、結果体の方が抑えきれず反応してしまうのだ。
 考えてみてもらいたい、突然恍惚の表情になり涎を垂らす人間。普通に考えて変態だ、精一杯譲歩しても医者に診てもらう事を勧めるだろう頭の方の。だからルークは、建前上では格好悪いので誰にも言っていないし誰にも見せないようにしている。本音で言えばどうして自分でもここまで反応してしまうのか説明出来ない、自分でも分からない嗜好なのだ。普通に、透き通った声が好きだとか低い声が好みだとか、聴覚情報の影響は思うより大きい、別段そこまで恥じるような事ではないだろう。ルークもそう思っている。しかし実際ヴァンやクラトスの声を聞いて恍惚に浸る自分がちょっと気持ち悪い、とも思ってしまうのだ。自分でも分からない心地良さに何故そこまで支配されるのか理解出来ない。理解出来ない事は怖い、恐ろしい。しかし恐ろしいものは同時にとんでもなく魅力的なのだ。
 低い声にうっとりする自分を僅か恥じる。だがそんな、傍目も関係なく好きなものに浸れる自分もちょっと好きで庇ってやりたい。誰かの意見など意にも介さないが嘲笑されるのは当然にムカつくとして、むしろ分かる分かる〜なんて同調されるとそれはそれで複雑でもある。まぁ要するにこんな変な性癖持ってる俺ちょっとイケてるよな、誰にも言えないけど! 言えない所がミソだけど! と、未来永劫誰にも説明しないだろう言い訳を心の中で何度しただろうか。

「そもそもこの船の奴らは低音が居すぎなんだよ! 国には全然居なかったのに……なんか光に集まってるとかそんなんじゃねーの」
「それだと相手が虫になってるぞ」
「リカルドも静かで落ち着いた声だよな……じっくり聞きたいんだけどなーんかひとりにならねーんだよあいつ。スカした顔してニヒル気取った傭兵だとか言ってるクセにガキ連中に囲まれやがってよー」
「あれはルカ達から寄って行ってるんだと思うけどな」
「それによーコングマン! あいつあっつ苦しいけど声だけ聞けばかなり低音で良い声だよな。本人見るとウザいけど」
「コングマンは闘技場の人気者で、結構人格者らしいぜ? マオやカイウス達が褒めてたし」
「そんでもって今気になってるのはレイヴンなんだけどよ」
「レイヴン……? 珍しいなルークああいうタイプあんまり好きじゃないだろ」
「そうなんだけどあいつあの声は絶対裏の顔がある奴の声だって間違いない! 裏では感情を制して機械的な顔でスパイとかやって情報漏らしてる奴の声だ!!」
「やけに具体的だな……」
「声には隠された性格って奴が出るんだよ、俺には分かる!」
「へぇ、じゃあ俺の隠された性格って分かるか?」
「ガイの? そんなもん俺が知るかっ」
「お前ほんっと、極端に正直だよな」

 声の中でも低音はレアリティが高いので優先順位が上がるのは仕方のない事実なのである。特にガイは付き合いが長い分声に慣れきってしまった。よく通る綺麗な声で、剣技の掛け声などは時々うっとりするくらいなのだが、何分ガイなので慣れの方が大きい。拝むには2年程間を開けなければ涎は垂らせない。いや、そうそう簡単に垂らさないが。

「この前レイヴンに真面目に喋ってみろって迫ったんだけど、あの野郎のらりくらりとかわして逃げやがった! ちくしょう何時か絶対聞いてやるからな!」
「うーん、ルークには一生無理なような気がするなぁ」

 自分でもそんな気はするのだが、はっきり口にする生意気なガイの横っ腹を本の角で思い切りぶん殴った。がふっ、と濁った悲鳴に一瞬ドキンとしたがルークはすぐに口元を拭って誤魔化す。良かった、ちょっとしか垂れてない。




*****

 しかし声というものは日常洪水のように溢れてくるもので、それに反応してしまう体を抑えるのは大変に難しい。低い声が好みと言ってもやはり綺麗な声もそれはそれで好きなのでついつい足を止め耳を止め振り向いてしまう。バンエルティア号でギルドメンバーと生活するようになって、この声はもう少しトーンを落とせば好みだとか変声期を迎えれば良い感じの低音になりそうだな、と予想も出来るようになった。特にカイウスは将来有望だと思う、雄叫びを上げても濁らない声量は心地良く、ティアと共に戦闘時の変身を今か今かと待ったり。
 バンエルティア号は毎日どこからか喧嘩や手合わせの声が聞こえてきて、ルークにとって嬉しいが同時にその歓喜を必死で抑え誤魔化さなくてはならないので苦しい。クレスやロイドと共に居る事が増え、クラトスが時々声を掛けてくれるようになったりミントの高くても優しい声に新境地を見つけたり……正直に言うと、体が保たなくなってきた。誤魔化すにしても相手によっては面倒な事になる上本気で心配されてしまう、この前なんてわざわざ脈拍を測られてちょっと心拍数が高いんじゃ、なんて色々深刻に扱われそうに。
 違うんだ顔が勝手にニヤけるだけ、勝手に心臓がドキドキするだけ。涎が出たりするのは単に興奮してるだけで決して変な病気ではない、ある意味病気だと自覚しているが。
 国に居た頃は自分に関わってくる人間は限られていた為、こんな風に体裁すら保てなくなる事なんて無かった。格好悪い姿を見せたくないのは当然、性癖を知られたく無いのもある。なのでルークは遂に対策を取ることになった、なりふり構わずだがしょうがない結果なのだ。

 耳栓をきゅっと耳に詰め、今日も1日の始まりである。周囲の音が聞こえなくなってしまうが動悸息切れで変態くさくなるよりかマシだ、耳栓をしていても大声ならば聞こえるし相手の表情や身振り手振りで何を言っているのかある程度予測も出来る、それになによりルーク自身の普段からの態度のお陰で、人の話を聞かなくてもそういうキャラだと許容されている部分もあった。これって人徳ってやつだよな、と自慢としてガイに言ったが微妙な顔で曖昧に濁され気に食わない。

「ったくガイの奴……」

 ぶつくさと半分ふてくされて廊下を歩く。耳栓をしながら喋ると自分の声が頭に響き、より周囲の音を遮断する。船のエンジン音すら無くなり自分が黙れば完全に無音になると言っていい、そんな廊下を歩くのはちょっと不思議な感覚がするのだ。日中低音が聞こえないのは残念だが、部屋に帰れば大好きで敬愛して尊敬するヴァンの声が待っているのだからまだなんとかなる。耳栓をして生活する最近に戸惑った目を向けられたが、ガイが精神の修行だとかなんとか上手く誤魔化してくれた、流石ガイ。時々ヴァンと親しそうに会話している場面を見かけて羨ましいぞおのれガイ。

 はぁ、とルークは無意識に溜め息を吐いた。人と関わるとこれ程までに面倒だとは思わなかった、良い声に巡り会えるのは万々歳だが自分を誤魔化さなければならないのは息苦しい。むしろ何故周囲の奴らはあの美声を聞いて普通でいられるのやら理解出来ない、もっと崇め奉るべきである。崇拝して敬愛して浸りたい、良くやったと言われたい、あわよくば独り占めしたい。ルークは感情の昂ぶりのまま記憶を引っ張りだし、ヴァンやクラトスやリカルド達の低音美声を頭の中で何度も繰り返して悦に浸った。廊下の扉前でボーっと、震える溜め息をうっとりと。

「暁の従者達もディセンダーなんかよりもヴァン師匠を崇拝すりゃ良かったのに。あの声は世界を制して平和を導くと思うんだよな、なんかこー……新しい世界が拓けるというかさぁ……」

 星の記憶もろとも消え去るが良い、とか言っちゃうけどそこが格好良いんだよな流石師匠だぜ。うっとりと自慢のヴァンを脳内で褒め称え体をくねらせる。こういった姿を他人に見られるのを嫌がるくせに、一度悦に入れば場所を忘れてやってしまうのがルークの悪い所だった。
 耳栓のおかげで扉が開いた音すら気が付かず、突然ドスンと背中に強い衝撃を受けルークは狭い廊下の壁にべちん! と跳ね飛ばされる。油断しており気が完全に逸れていた、音もなくいきなりの衝撃で体の前面を打ってかなり痛い。

「ってぇ〜! 何だっつーの……うわっ!?」

 怒鳴る寸前、ばさりと真っ白く大きなシーツがふわふわ降りてきてルークを包む。音も無く世界は白い、一体全体何事かと慌てて手を大袈裟に振り払う。間抜けにバサバサ藻掻けば突然シーツごと引っ張られ体はふらつき、勢いを制御出来ないままもう一度どすんと壁にぶつかった。無様過ぎる、何なのだ何が起こっているのか。
 あっちへこっちへぶつけて頭が少しクラクラする。何度か瞬きして視界を広げれば目の前にはシーツを手に持った真っ黒い、見覚えの無い男がどこか不機嫌そうに眉を釣り上げて立っていた。ルークがアドリビトムに来てまだ日は浅いとはいえ、今まで見た事の無い顔。服も黒ければ髪も黒い、シーツが白いので余計にその黒さが際立つ。何やら口をパクパク動かしているがルークには聞こえない、当然だ今だ耳栓をしているのだから。しかし先に怒りが来ているルークはどこ見て歩いてんだよてめぇ! とゴロツキみたいな言葉で啖呵を切った。

「…………、……。……?」
「あ? 何言ってんだテメェ」

 相手のムッとした顔は見えても音声を届けない耳に、ようやく耳栓の存在を思い出す。ルークは耳栓を外しもう一度文句を言ってやろうと思った。最低限すみませんでしたルーク様、くらいは聞きたいものだ。ズボッと外せば数時間ぶりのクリアな音。不思議なもので長時間音を遮断した後に栓を外せば、なんだか空気にも音があるように感じられる。例えて言うならば乾いた体に水分を補給すれば普段以上に給水する感覚、殊更血液に巡り隅々まで届け潤す、まるで飢餓。
 簡易ながらも本人気付かずそんな状態のルークの耳に飛び込んできたのは、空気の音だけでは無かった。
 がちゃん、と撃ち抜かれる音。それは衝撃。音速を超えて通り抜けた響きと振動、それは動揺。ひとつの音が弾丸となってルークの心臓を打ち抜き体ごとバラバラにしてしまう。医者を真っ青にさせるくらい血圧が上がっていくのが自覚出来る、頭に血が昇るとはきっとこういう事を差すのだ。
 千切れて飛んだ自分の手足をぶるぶる震わせ、ルークは……逃げ出す他無かった。




 一晩明けても、ルークの頭の中にこびり付いて離れない音がある。それを恐る恐るリピートすれば体は勝手に反応し悶え苦しみ、息が早くなって心臓の鼓動がドクドクうるさい。駄目だ体に悪い、そう思って強制的に瞼ごと思考を閉じる。だがすぐにでも手は伸び、勝手に再生してしまうのだ。まるで麻薬、手を出してはいけないのに手に取りたくてしょうがない。いいや音が手に乗る訳無いじゃないか、けれど確かに昨日の弾丸はルークの心臓を打ち抜き、飛んでいったくせに頭の中を留まって出て行かない。
 こんな気持ちは初めてだ。いや嘘だ、嘘じゃない。……覚えはある、初めてヴァンの声が好きだと自覚したあの時によく似ていた。似ているけれど違う、圧倒的な動悸。自分の心臓が大暴れして手足や毛先まで伝えている。逃げ場がない、寝ても覚めてもあの音がルークの心も体も内側も外側も支配して離してくれないのだ。
 声が好きな自分は知っている。けれどこんな、指先の自由すら奪うような動揺は初めてだった。初めての事は怖い、何も知らないから。しかし怖い事は魅力的なのだ。ルークは自分の頭をガシガシと掻き毟ったりシーツに潜って足をジタバタさせ泳いだり、ピタッと止めてはゴロゴロ包まり転がってベッドからごちん! と落ちた。嫌な角度で強打し悶絶しては、気が触れたように顔を真っ赤にして暴れだす。

「うわああああっ!」
「……どうしたルーク、腹減ったのか? それとも暇になったのか? 眠いなら今日はもう少し寝ておくのはどうだ?」

 ここで頭は大丈夫か、と言わない辺り付き合いの長いガイはルークの性質をよく分かっている。朝食の時間はとっくに過ぎて部屋に残っているのはボサボサ頭のルークと付き合ってやっているガイだけ。何時も気まぐれで動く主の、何時も以上に異常な状態に心配して聞いてきた。
 しかしルークはその問いに答えられない。いいや答えられるのだけれど、言葉にする事を戸惑う。そんな事とてもじゃないが言えない、口にするなんて無理だ。だが内側に押さえつけておくのももう限界で体が爆発しそうなのも事実。いっそ言って認めてしまえば楽になれるだろう。だが恐ろしい予感もする。そんな馬鹿なあり得ない、この俺が師匠以外の人間に……! 頭では否定を強く強く叫ぶが、記憶から聴覚情報が流れてくれば途端に降伏してしまう。自分でも上手くまとめられない、だが圧倒的な存在感に無視する事だって不可能なのだ。
 ルークはぶるぶると唇を震わせ、何度も言葉をつっかえて一言目を何度も何度も吐き出そうとする。しかし喉まで上がっているくせに出てこない、認めたくない怖いから。だが、だが限界だ。外へ捨ててしまえばいい、全部体から排出してしまえば良いのだそうすればもう心臓は乱暴に揺さぶられないに決っている。

「ガイ、……ガイ、俺っ……俺っ!」
「本当にどうした? 何かあったなら相談に乗るから言ってみろ」
「ガイ、俺……っ!」

 何時も何気なく受け取る優しさが、今日は余計に身に沁みた。こんな良い奴なのになんで低音声じゃないんだろうなぁヴァン師匠と妙に親しくしやがってマジむかつくぜ、と普段から思っている事は一生心の奥底に閉まっておく事に決め、ルークは言葉の洪水を一気に溢れさせる事にした。正直に飾らず、心のままに口にすればきっとそれが本心だ。

「俺せんせーを裏切っちまったああああっ! ……せんせぇすいません、俺は最低な奴だ、屑だ、浮気者なんだあああああああっ!!」
「落ち着け! な、ルーク分かったからちょっと落ち着こう!」

 瞳をかっ開き両手を震わせ、ルークは心の底から謝罪した。敬愛するヴァン・グランツ。初めてその声を聞いた時からこの人に付いていこうと決め信じ、盲信して、ちょっと老けて見える所も格好良いぜ痺れる! と崇拝していたのに。なのに、なのに自分は昨日、あの声を聞いて初めて……初めて夜寝る前にヴァンの声を思い出して眠りに就かなかった。
 毎晩眠る前に、ヴァンのあの素晴らしい低音を頭の中でエンドレスリピートして心地良く眠る。ガイに言えばわりと本気で引いた顔をしてそうか……と言われたけど全く気にならないくらい毎晩の習慣だったのに。なのに昨日昨晩。頭に広がるのはヴァンの渋声ではない、あの名前も知らぬ男の声だった。1音1音、逃さず母音まで。最初の一言目に足元は縫い付けられ動かなくなり、二言目には声で抱き締められ支配され、最後の言葉が終わればもう一度聞きたくなる誘惑。正しく麻薬、なんて恋しい音。
 ルークは昨日の男に対し一目惚れ……いいや一声惚れしていた。

「もうほんと、別にヴァン師匠みたいに超渋声ってんじゃねーけどちょっとだけ低いのが丁度良くて、クラトス程感情を制して喋ってるって訳でも無いんだけどそれがまた人間味があって、レイヴン程道化気取ってるって感じじゃないけどわざと突き放したような声だけどそれが自然で……ああああああ」
「ルーク、ルーク落ち着け。分かったから、な? ちょっと深呼吸しよう、ほらすーはー、って」
「あばばばばばば……っ」
「ルークやばい! お前鼻血出しながら痙攣してるぞ!」

 本心を告白してむしろボルテージを上げてしまった。あまりの興奮状態にルークの緊張は極限を超えて体が先に音を上げてしまったようだ。緊急具合を察し、ガイは先に一言すまないと詫びてドスッ! とルークの鳩尾を殴った。衝撃で肺の空気を全て吐き出し、ベッドに伏せてピクピクと悶絶する。

「い、いでぇっ」
「すまんルーク、でも落ち着いただろ?」
「落ち着く訳ねーだろガイイイイッ! ……でもちょっとだけ冷静になれた、サンキュー。後で絶対殴り返すから覚えてろよ」
「……お手柔らかに頼む」

 ひと暴れしてようやく落ち着いたルークはベッドに座り直し、昨日廊下で見知らぬ男にぶつかり、その男の声が頭から離れないのだと打ち明けた。好みの声を記憶するのは何時もの事なのだが、今回は前例が無い程揺さぶられ普通の状態でいられない、自分のキャパシティをあっという間にオーバーしてしまう。いっそ催眠にかけられました、という話ならどれだけ救われるか。100歩譲って声に惚れ込むのはある意味普段通りだ問題無い。それとは別に今ルークはある事のせいで猛烈に不安になっているのだが……。

「俺、その時あんまりにもびっくりして名前も聞かずその場から逃げちまったんだけどよ……」
「あー、でも船内でぶつかったんなら船員だろ? そういえばこの前長期依頼で船を降りてたギルドメンバーが戻って来たって言ってたし、それじゃないのか」
「そうなのかな……でもあいつ俺の事知ってるって感じだったけど」
「まぁルークはある意味船内でも有名人というかなんというか……」
「んだよ、それどーいう意味だっつーの」
「今更ルークが気にしても遅いから気にするなって。それで? 何をそんなに悩んでるんだ、会いに行ってみればいいじゃないか。あの時はぶつかって悪かったって。そこからキッカケになるかもしれないだろ」
「……その、逃げた時によ、動揺しすぎてつい」
「つい? 殴っちまったとか?」
「いやその、……思わずお前喋んな息くせーんだよ! って言って逃げちまった」
「最悪のセリフだなそれは……」

 絶望である、選ばれた男ガイでも流石にフォローのしようが無いと察したのか黙りこんでしまった。よく考えなくても悪口にも程があると、一晩経ってじわじわ青褪めていたのが先程の顛末。だってあの時頭は混乱していてとにかく声が駄目だ、聞いてしまうと骨抜きになる喋らせないようにしようと思ったら酷い言葉が出てしまったのだ。

「どうしようガイ! 俺は……俺はどうすればいいんだ? あんな奴の声なんて忘れようと思っても頭から離れなくて……昨日の今日からずっと、もうずっとあいつの言葉が響いて俺の心臓を掴んでるんだよ!」
「お前そんなに……」
「一字一句忘れず覚えてるんだ、離れない……。あんたどうせ何もしないんだし動くと邪魔だからどっか閉じこもってろよって……」
「おいルークそれ悪口だ、しっかりしろ盲目になってるぞ」
「盲目じゃねーよ盲聴だっつーの! ああああもう一度あいつの声を聞きたい! でも……頭を下げるなんて死んでもしたくねー!」
「あ、そこらへんは譲らないんだな流石ルークだ」

 上手い事言って少しだけ得意気になったが、自分が誰かに謝ったりする姿を想像して怒りの方が先に煮え立つ。声は声、それはそれ、である。しかし暴言を吐いたままでは悪印象は拭えず知り合いからなんて些か無茶だろう、分かっているけれどなんで俺が、という気持ちも捨てられない。藁にも縋る思いでガイに縋り、なんとか頭を下げずあの男の声をもう一度聞けないかとルークは目論んでいるのだが……。

「なぁガイ! お前なんか機械持ってたよな声録音するやつ! あれであいつの声撮ってきてくれ!」
「あれはファブレの屋敷に置いてきちまったし、そもそもあれは再生機であって録音じゃ……出来ない訳じゃないけど。それよりも素直に謝って仲良くすればいいじゃないか、そうすれば何時でも声を聞けるんだ」
「それが出来りゃ苦労はしねーんだよ! 第一あっちからぶつかって来たんだから俺は悪くねぇ!」
「耳栓して妄想してる方も悪いと思うんだけどなぁ」
「うるせぇ! なんとかしろったらしろ!」

 自分じゃどうにも出来ない事を振り上げ、ルークは駄々をこねてガイに求めた。屋敷の頃でも馴染みな一連だ、とにかくやれと言えばなんとかしようと考えてくれる。それが当然だと思っていた。しかしガイはふと硬く真面目な顔になり、卑怯にもつい聞いてしまう低い声で静かに言葉を重ねる。

「ルークの声にかける情熱ってのはそんな程度だったのか?」
「な……なんだよ」
「好きな声の為なら屋敷に泊まったヴァンの寝室に潜り込んだり、白光騎士団に無意味な大声の発声練習の命令して気味悪がられたり、怒らせる為にジェイドの資料を燃やしてお仕置きされたり……。普段自分じゃメシフロネルくらいしか言わないルークが、声の為ならとあんなに行動的になるってのに、たった一回頭を下げる程度が嫌で諦めちまうのかよ」
「う……悪夢がっ! ごめんジェイドもうしませんごめんなさい触手は……触手はやめろ! すいません止めてくださいお願いします!」
「しっかりトラウマになってるじゃないか! それでも成し遂げたあの時のルークは格好良かったぜ、俺はちゃんと覚えてる」
「ううう……ぐにゃぐにゃしてる、ぐにゃぐにゃしてるんだよぉジェイドおおおっ! 分かった判子押すから……ほんとすいませんでした……っ!」
「大丈夫かルーク帰って来い!」
「ハァ、ハァッ! でもジェイドって本気で怒る時の声がドス利いてて格好良いんだよな……ぐふっ」
「その根性があれば謝るくらいなんて事ないだろ? ジェイドの時みたいに1ヶ月不眠に悩まされる訳じゃないんだからな!」
「そ、そうだな……ベッドに生魚を放り込まれ続けた1ヶ月にも耐えたんだ……あれに比べれば頭下げるくらいなんでもねーよな!」
「そうだぞルーク、鏡を見て反射で顔を逸らすトラウマも克服しただろ?」
「まだそれはちょっと! あ、赤いアレが……。いや大丈夫だ、俺弱気になってた。正直無理だったら諦めてクラトスの養子にしてもらえばいっかなって思ってた俺が馬鹿だった!」
「いやそっちの方が難易度高いだろ」
「俺やる、やってみせるぜ! 見ててくれよなガイ!」
「流石俺のルーク、その意気だ!」
「あ、でもやっぱちょっと挫けそうだから一緒に来てくれ……。そんでせーの、で一緒に頭下げてくれよぉ」
「それ前に公爵の花瓶を割った時同じ事して、俺にだけ頭下げさせたやつだろ!?」

 流石性癖を知っている上付き合いが長いガイはルークの動かし方をよく分かっている。トラウマを掘り起こされながらも自分の情熱を思い出させてくれて、ルークはなんだかやる気がメラメラと燃えてきた。
 この俺が他人に謝るだなんて……そんな考えは止めだ、素直にいけばきっと相手も分かってくれるに違いない。両者に非があるならば大抵先に謝った者の勝ちだと、確かジェイドが言っていた。謝って下出にでておけば口では酷い事を言っても立場としては勝てるから覚えておきなさい、と楽しそうに説明していたのを思い出す。流石ジェイドだこわい。今だ夢に出てくるうねうねしたものがちらり頭の隅をよぎりビクリと体は勝手に震えた。






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