endorphin voice, more better !








 ルークは誰にも邪魔が入らないよう、船倉下の倉庫でひとり膝を抱えて考え込んでいた。元々自分の声が好きだという性癖をそこまで困ったタネだと思った事は無い、ちょっと人とは違う嗜好はむしろ秘匿さをスパイスにして優越感すらあった程である。人の中で聞く低い落ち着いた声、それに瞳を閉じて聞き入る時の気持ち良さが好きだ。低音は特に優しさを、その人物の思慮深さを感じられるような気がしている。自分に向けられたら嬉しいな、とささやかに楽しむだけで十分だった。クラトスはロイドに、リカルドはアンジュやルカ達に、コングマンは目を瞑ればギリギリセーフだ、レイヴンはよく分からないけどそこが良いのかもそれない。
 どれだけ好いても自分には向けられる事のないもの。声や優しさや気持ち、それを擬似的に楽しんでいる。それのどこが悪いんだ、誰にも迷惑かけてないだろう。自己完結で満足しているんだから放っておいて欲しい。
 アドリビトムに来て好みの声をあちらこちらで聞き嬉しいのだが少し疲れる、それでも自分のスタンスは変わりなく。相変わらず誰かの誰かへ向ける感情を掠め取って楽しんでいた。それがめちゃくちゃになったのは、あの男のせい。
 ユーリ・ローウェル。名前を出しただけで頭の中では音声の再生が始まる。ようお坊ちゃん元気か。まーた我儘言ってんのか? しょうがない奴だな。こんなもんやっちまえば案外簡単なモンだ、手伝ってやるからやってみろよ。ほらやれば出来るじゃねーか。

「う……」

 都合の良い部分だけカットしてリピートしていると、眼の奥が熱くなって鼻の奥がツンと痛む。つぅ、と垂れる赤い鼻血は手を綺麗に避けて床へ。これが今のお前だと突きつけるみたいに。
 声を思い出し興奮して鼻血だなんて変態すぎる。けれど何時まで経っても慣れなくて、ユーリの声を聞かないよう避けたり無理しても相手の方からやってきて絡んでくるのだ。なんて迷惑な奴。でも嬉しい。その感情が確かに湧き上がる。そのせいで鼻血は止まらずぽたぽた、白い上着の裾を汚した。

 嬉しい。迷惑だ。褒めてくれたら。どっか行けよ。両極端な気持ちが目まぐるしくルークを混乱させ、普通でいられなくする。最近では足音だけでユーリかどうか分かるようになってきた。自分が我儘や怒ったりすれば来てくれると予感してわざと大声で事を荒立てたりもする。黒い服を見て背中を思い出したり、甘いケーキを食べれば味よりも先に彼の嬉しそうな顔が浮かぶ。馬鹿みたいだもはや声なんて関係なくなっているじゃないか。
 自分を乱される、嬉しくない。声を聞いてドキドキする、ちょっと心臓に悪い。からかって馬鹿にしたりする、テメェ殴るぞこの野郎。耳元で囁かれる、やめろ鼻血が出る! 時々、いや最近褒めてくれる事がある、……嬉しい。どうしたらいいんだ! ルークは血も拭かずガンゴンと壁に額を打ち付けた。
 薄暗い電灯の下でも血の色は鮮烈で、自身の影で覆っても誤魔化されない。奥底の望みがじわじわと、一生懸命蓋していた気持ちを浮かび上げてしまう。駄目だ、欲しがっても手に入らないものを望むな。ぱさりと自分の髪が垂れて、先端の金色が視界に入った。途端にユーリの声が再生される。綺麗だな、夕陽色だ。まるで陳腐な喩えだけれど、あの声で微笑みながら言われたのが嬉しい。いや嬉しくない、馬鹿じゃないのか。ぎゅっと髪の毛を握り潰し掻き消す。
 考えてもどうしようもない。どうせ自分は受動的に通り過ぎるだけ、ユーリもその内飽きるだろう。フレンやエステル達と一緒に居て自分には目もくれないようになる。自分と違い縛られていないのだからそんなものだ、今は気まぐれにウロチョロしているだけなんだろう。……くっそムカつくな。瞬間イラッと湧き上がる怒りの意味を探る前に、背中にかかる声があった。喜びたくないのに体は勝手に反応してしまい、動悸が激しくなる。そーっと振り向けば確認するまでもなく、呆れた笑い顔で紫黒色の男が。

「こんな薄暗い所でひとり何やってんだよ。……もしかしてお取り込み中だった?」
「うっへー放っとけっつーの」
「また鼻血出してんのか。あーあー、白い服にべったりじゃねーか、血は乾くと取れないってのに」
「ケッ、取れなくなったら捨てりゃいいだろこんなモン。……だから近付くなっつってんだろうがあああっ!」
「物をすぐ捨てるとか言う奴はお仕置きだな」
「ひぎいいいいいっ!!」

 がっしと肩を捕まれ固定し、ユーリは顔をルークの耳元に近付けてふぅー、と吐息を吹き付ける。ゾクゾクと鳥肌が立ち一気に背筋が伸びた。離す気配は全く無く、間近で駄目だろ悪い奴だ、なんて囁きかけてくる。酷い拷問だルークはぶふっと鼻血を噴き出す。

「はにゃいでえーっ!」
「おっと悪い、ちぃとやり過ぎたか。えーと、とりあえずこれで拭いとけよ」

 床にぽたぽた落ちる量を見てユーリは手を離した。懐からハンカチを取り出し服や顔に付いた血を拭う。ゴシゴシと少し乱暴だ、しかし文句を言おうと口を開くと血の味が広がるので我慢した。

「鼻血出過ぎで貧血になったりしねーのか」
「うっへーな、余計なおへわだっふの」
「お前、もしかしてあっちこっちで鼻血出してるのかよ」
「あっちこっちで出してなんかねーよっ! テメーだけだボケッ!」

 まるで他人事のような口ぶりにルークは怒りを沸騰させる。誰のせいでこんな事になっていると思っているのか! 声に興奮してしまうのは自分のせいだとはいえ、それを知りからかって武器に利用しているのは紛うことなくユーリなのに。どこの誰にでもひと声聞いただけで鼻血を出す程興奮する変態に思われているとは甚だ遺憾である。
 今までの怒りも含めて思いっきり文句をぶつければ、ユーリは予想外にきょとんと瞳を大きく開く。えっなんだその表情は、全くそんなつもりありませんでした、みたいな顔。ルークがたじろぐと口内で血の味がぶわっと広がり気持ち悪さが勝ち瞬間顔を反らせてしまう。なのでその後のユーリの表情は分からない、しかし戸惑う声色が聞こえてくるものだからルークの方こそきょとんとする事になった。

「……いやその、そうか。そりゃあ……悪かった」
「んだよ。今更謝ってもおせーぞ、俺はアッシュにしこたま殴られたんだからな!」
「兄弟喧嘩は知ったこっちゃないけど。まぁ、遊んでたのは謝るさ」
「やっぱり遊んでやがったんだなテメェ」

 ギロリと睨めば誤魔化すように笑い頬をポリポリと掻いている。この野郎声が好みじゃなかったらマジで許さないっていうのに、この声ひとつで許してしまいそうになるのが自分でも許せない。

「なんでルークはそんなに声が好きなんだ、別に悪かないけど鼻血まで出すってのはかなりだぜ」
「お前にだけだっつってんだろ! そりゃ時々師匠の厳しい声にもクるけど、でも鼻血まで出したのは俺だって初めてなんだよ! っつーかお前俺の前で喋んな!」
「お坊ちゃんがそんなんだから遊びたくなるんだよなーオレ」
「人の嫌がる事を嬉しそうにしやがってええええっ!」
「だって嫌がってないだろ。顔赤いぞ」
「うるっせー馬鹿だから嫌なんだよ!」

 そうだその通り、本当は嫌じゃない。ユーリの美声を聞くと脳が嬉しくて蕩ける、それが問題なのだ。それこそ人目も憚らずふにゃふにゃやってたら恥も外聞もないではないか、そこまでプライドは捨ててない。なんて面倒なんだ、こいつも、自分も。相反する感情を心に止めておくのは苦しい、ルークは元々それ程秘密を抱えられる性分でもないというのに。
 その苦心を知ってか知らずか、ユーリはなんてこと無いという顔でさらりと、ごく普通に意見を口にする。ルークはそれを聞いてアッシュのように血管がブチ切れるかと思った。

「隠したり誤魔化したりするから苦しいんだろ? 素直になればいいじゃねーか」
「お前……っ! 他人事だと思って!」
「ルークがオレの声聞くたび鼻血出してたら普通に過ごせないし、そういう意味じゃ他人事でも無いんだがね」
「お、俺の事なんか……放っておけばいいだろ! 無視して声かけなかったらいい、そうすりゃ俺も鼻血出さねーしお前も何も困らない」
「オレがルークと話したいって意見は無視な訳?」
「は? ……お、俺と? お前が?」
「何か問題あるか? 同じギルドメンバーで同じ船員だろ、同じ空間で生活してるのに全く話さないなんてそっちの方が難しいと思うけど」
「でも出来ないって訳でもねーだろーが、お互い無視すりゃいいんだ」
「だからさ、なんで無視前提なんだよ」
「なんで、……って」

 なんでって、それはその。問われてルークの言葉は詰まってしまった。そんな返しをされるとは思っていなかったから。だってお互い無視して話さずにいれば何も問題無いじゃないか。ユーリからすればオモチャを取り上げられるのはつまらないかもしれないが、人の嫌がる事をそこまで進んでやるような人間とは思えない。嫌がっていないけれど、言葉の上ではルークは嫌だと宣言したのに。
 戸惑って言葉に詰まる。相手が何を目的としているのかよく分からない。ルークは冷たい床に座り込み、ちらりと上目使いで面白そうに笑うユーリの口元を見た。性癖がバレてからしょっちゅうこんな表情でルークを遊んでくる、その企みが意味不明のまま。自分の気持ちだって相反して決着が付かないのに、他人の意志なんて分かるもんか。しかしずっとこのままではいけないのも分かっていた、なんとかしないと。
 どうして無視で済ませてはいけないのか。そんなもの、本当はとっくに分かっている。分かっているが理解してはいけない、だから分からないフリを続けていた。けれどその演技はもうずっと前からこの眼の前の男にはバレていたようで、殻を破りにちょっかいをかけてきた。困る、嬉しい、迷惑で、もう少しだけ。ルークの唇は僅かに開き、ほんのちょっとだけ蓋をずらした。

「だ、だって……」
「だって、何」
「お前は、……お前はなんでそんなに俺の事気にするんだよ! き、嫌いなんだろ、貴族とか……そーいうの」
「全部が全部そんな奴じゃないってのは、ここに来て分かったからな。ルークも貴族っていうよりもただのガキだから嫌いじゃない。というか質問を質問で返すなよ」
「きっ!? ……ガキって何だよ!」
「自分の事も分からない奴は少なくとも大人とは言えないと思うけどね」
「うぐっ……。じゃあユーリは分かってるのかよ、なんで俺の事無視しないんだ」
「する必要がねーから」
「だから! ……だから、なんでだっつーの……」
「言わなきゃ分かんないか?」
「……え」

 声が一段と低くなった気がして、ルークは俯いたまま視線を上げる。すると薄暗い背景に紛れそうで、でもこちらを真っ直ぐ見てくる瞳がほのかな光を反射していた。それを見て頬の温度が上がる。声はどこからも発生していないのに心臓が絞られて痛む。
 まわりくどい言葉達を並べて、ぼんやり見えてくるようなユーリの意志。それを知ってしまってはもう後戻りできない気がして恐ろしい。だが同時に、猛烈に知りたい疼きが奥底で顔を出している。
 ルークがユーリの声を好きでもユーリを拒絶するのは明確な理由があった。自分が好きなものを相手も好きだとは限らないからだ。手に入らない、自分のものにならないなんて普段通りだから構わない。けれど嫌われて遠ざかれば完全に耳にも届かなくなってしまう、それは悲しすぎる。せめて遠くで聞ければ良い、自分の事を知らなくても名前なんて掠りもせずとも。上辺の上澄み、さらりと単音が入って通り過ぎて行くだけで満足出来る。誰かへ向けた優しい感情を勝手に感じ取り想像して楽しむ、それだけで良かった。
 でもユーリは追いかけてくるから、知ったくせに。声に心を奪われた弱点を突いて容赦なく攻撃してくるのだ、なんて非道な奴だろう。それを喜んでいるのは間違いなく自分なのだから、本当に。そしてそれすらも知っていてひどいやつだ。
 握った両手の平に汗がじんわり滲み、指先を落ち着きなく動かす。あ、とかう、なんて言葉を詰まらせているのにルークの心臓は爆弾が鳴り響き五月蝿い。言っても良いのだろうか、望んでも良いのだろうか。ほんの僅か隅っこだけ見せて、駄目だったら、気持ち悪いと言われたら立ち直れなくなってしまう。しかしちらりと見ればユーリは笑顔だ。何時も通り、ルークをからかう時の口元の角度。
 紫黒の影は膝小僧をくっつけて来て、さらりとルークの髪を一束手に取った。くるくると指先に絡ませ遊んで、それから少し強めに引っ張り顔を引き寄せる。いてぇ、小さく漏れた息は周囲に散って空気を熱くした。ユーリは声を静かに潜り、想いを込めた音を吐き出して温度を上げる。きっと分かって意識している、ルークが好む低音で。

「ルークは……ちょっと危なっかし過ぎて目も声も離してらんねーわ」
「……なんだよ、それ」
「そのまんま」

 オレ、正直者だから。すぐに嘘つきめ、と言いたくなったが視線で黙殺される。そっくりそのまま、意味すら考えず信じこんでしまいたくなった。だってもし信じれば、それは……初めてこの手に触れられる音になる。嬉しい、でも触った瞬間壊れたら怖い。だから怖気付く。

「オレは言ったぜ。今度はルークの番だ」
「お、俺、……は。俺は」
「お前の何かを好きだと思う気持ちを笑う奴なんてどこにも居ねーよ、ここにはオレしか居ない。言ってみろ、形にしても結構平気なもんさ」

 音は形にならない。でもその振動数がどうしようもなくルークの心を揺さぶる。昔を思い出して切なくさせ、形容しがたい気持ちで体を勝手に動かすのだ。もう思い出すような記憶も擦り切れて無くなってしまったのに、まだ存在するかのように何度もめげずに繰り返して欲しがっている。
 少し潤みそうになる瞳を我慢して、ルークの心は溢れた。言葉を整頓する前に喉から飛び出した気持ちは驚く程素直だった。

「ユーリ、俺のものになれよ。一生傍で生きてくれ」
「びっくりするぐらいストレートだな、お坊ちゃんは。まぁ最初からそうだったけど」
「だ、……駄目か?」
「どういう意味か分かって言ってる?」
「当たり前だろんなの。なんなら俺がライマを離れても良い、継承権も放棄する」
「そんなに好きなんだ、オレ……の声」
「お前の声は低くて落ち着いてて優しくて艶がある、でも時々分かりやすい程苛ついてる。気に入らない事を放っておこうかどうしようか考えて、結局首突っ込んだりしてよ、馬鹿じゃねーの。でもそれを選んだ自分を嫌ってない所が声に出てんだよ。お前、口悪いけどなんだかんだ言ってお節介野郎だ」
「声から性格分析とか新しいな、そんなに分かるもんかよ」
「分かる。お前の声なら俺は分かる」
「好きだから?」
「す、……だから」

 言わせようとしている意図を察してしまい、ルークは途端に俯きなおして言葉を濁す。卑怯なのは分かっているがどうしても、はっきりと口には出来ない。今その言葉を使えばそれは物事ではなく人物を指してしまう。いや勿論、その通りなのだが。
 ユーリの手が頬を撫でてきて、ますます顔を近付けてくる。もう5センチの距離、呼吸すら届いてしまいそうな近さは音の波を遠慮なくぶつけてきた。

「ルークの中身は肩書きよりもずっと面白い奴だな。見た目に騙された」
「見た目なんか信じるからだろ。俺は声だけ信じてるぞ」
「じゃあものすごい美声の大悪党はどうなんだよ」
「さぁ? 好みじゃなかったら範疇外だな、第一そんな奴出会った事ねーし」
「適当だなお前……。ならオレがこの声じゃなかったらルークは好きにならないんだな?」
「そりゃそうだろ」
「こういう時はせめて考えるそぶりくらいしてくれねーか。ちょっとばかり傷付くぜ」
「ユーリが大罪人なら終身刑にして一生傍に置いて飼ってやるから安心しろ」
「そりゃどーも。終身雇用って意味じゃ同じな所がすげーな」
「だって、欲しいし」
「……欲しいのか、オレが」
「欲しい」

 初めて音に乗せた3文字は拍子抜けする程簡単だった。あれが欲しいこれが欲しい、数多く口にした事はあれど心底だったのはおそらく今日が初めてで、柄にもなく緊張してしまう。だが真剣だ、ここまで自分の引き出しを開け放ったのだからもうこちらからは引けない。ユーリの反応はますます面白そうに笑みを深め続けているだけで、駄目なのか良いのかよく分からなかった。人に素直になれと言うくせに、この卑怯者。
 少し深みが増した声が、囁いて耳元をくすぐってくる。朱金の先端をくるんと遊び、斜に構えて意地悪に音を乗せた。

「声が?」
「声、……も」
「声以外は何パーセントくらいだ」
「0.5くらい……」
「少な! オレの声以外は0.5程度なのかよ」
「少ないか? 俺からすれば多いぞ、だって他の奴はゼロだし」
「ルークの大好きなヴァンせんせーもゼロか?」
「師匠は憧れだから欲しいって感じじゃねーな……。他の奴らも、そりゃ良い声で聞いてるだけでたまんねーけど。……でも別に欲しいってまでは思わない。ユーリは欲しい。声も全部欲しい。……駄目、かよ?」
「お坊ちゃんとは思えない程の熱烈な告白だ、どうしようかね」

 ユーリの表情は嬉しいのかただ面白がっているだけなのか、ルークでは判断がつかない。ただ嫌ではないのは伝わるので、中途半端に期待だけが高まって辛い。駄目ならさっさと言ってくれ。ここまできて駄目ならば死んでしまうのは自分だが、まな板の鯉のまま宣告だけを待つのは焦れてしまう。もしかしてがっついているのが悪いのかもしれない、ユーリは押し付けられるのは嫌がりそうだ。だがずっとずっと欲しいものが目の前でゆらゆら、自分に落ちてくるのかもしれない可能性を見せつけられて冷静になんてのも無理に決まってる。
 ルークは逸る心を必死で落ち着けて、手元の指をぐりぐり回しながら、でもやはり焦った。

「待つけど……うざいならきっぱり言ってくれ」
「……オレが嫌いって言うとルークはあっさり諦めるのかよ」
「諦めない。ただ、ずっと覚えとく」
「覚えておくって……ずっと?」
「ずっと」
「他の、新しいオレ以上の奴が現れるまで?」
「その時にならないと分かんねーよ、断言は出来ない。でも今は……ユーリだけだ。ユーリをくれるなら、ユーリだけにする」
「オレが唯一なのか。重いな」
「俺も自分で重いけど、でも代わりなんていねーし。しょーがないだろ。ただ俺が忘れないだけだ、ユーリは忘れていいぞ」
「ますます重いだろそれ」
「想いもんなんだから、当然だろ」
「……そりゃそうか」

 ルークが声を好きなのは物心付いた頃からだ、何歳からだとかキッカケなんて今では忘れてしまった。ただ単純に声が、特に低音が好きで聞けば悶えてしまうという事実がルーク本人を振り回している。でもそれを自分で嫌っていない。趣味嗜好なんてそんなものだ。好きだから、その一言で全て道理が通るもの。
 ルークは口に、言葉にした。声が好きだからユーリの声が好きだ。ユーリの声が好きだからユーリが好きだ。他人から見ればめちゃくちゃでもルークには十分立派に道理が通ってシンプル。理解されなくても別に構わない、だってそんな事最初からそうだった。

 告白を聞いたユーリはパチパチと瞬きをし、最後に閉じる。意味をじっくりと考えている様子が今までより真剣だ。さらり、とルークの髪を離し姿勢を正してから瞼を開けた。その瞳には決意が宿っておりルークは喉をごくりと鳴らす。どんな言葉が出てくるか予想すら出来ない。分かるのはユーリからの宣告を、自分は粛々と待つだけ。
 もう近付くな、声も聞くなと言われればその通りにしよう。ただ唯一、忘れろと言われなければ他は全て受け入れるつもりでいる。ユーリの声は音になって、波になって、数値になって脳に心に刻まれてしまった後なのだから忘れるなんて最早不可能なのだ。忘れるくらいなら出会わない方が良かった。けれど音に出会ってしまったのだから、それも無理な話。だから、ルークはずっと覚えている覚悟でいた。
 ユーリの唇が動いて隙間を作る。ひとつふたつ、連続音が連なって出てきた形にルークは驚く。

「へ?」
「目を瞑れ、オレが良いって言うまでだ」
「な、なんで……」
「お前は声が好きなんだろ? なら耳だけでも十分なはずだぜ」
「……分かった」

 もしかして声以外は0.5と言った事を怒っているのだろうか。でも正直本音なのだからしょうがない。ルークはまだ続きそうな鼓動の騒音に苦しめられながら瞳を瞑った。するとそっと腕に感触。ビクリと反応したが、すぐに目は開けるなと注意が飛んでくる。なんだよ早くしろよ、ムッと大人しく口を一文字に閉じて待つ。
 その皮膚に振れる熱。中指の腹がふんわりと下唇に乗った信号を拾い、ルークの心臓はドカンと爆発した。今までルークの心を悶え動かすのは全て耳から入ってくる情報だけ、音の波だけ。しかし今顔の神経が全て集まっているんじゃないかと思えるくらい、触れられた指先に集中して心拍数が上がる。

 そっとそっと、彼の皮膚は侵食の範囲を広げて頬を包む。空気がゆっくり動く音を聞いた。ぱさり、髪が揺れる音。引き寄せられる感覚。それから、人生で初めて、音以外で熱をもたらすもの。柔らかな波が刻まれて痺れる。じんと瞼が熱くて苦しい、でも嬉しい。
 ゆっくり持ち上げて開放された視界の間近に誰がどんな表情で待っているのか。ネガティブに心を予防しなくとも、分かるものだった。




*****

 翌日のルークの目覚めは過去最高でとんでもない事になったと日記に書ける程の朝だった。寝汚いのはライマの人間の共通認識なのだが、船内の人間にはあまり知られていない。時々クレスやロイドが朝から訪ねて来て、ガイに起こされ慌てて起きるくらいだ。しかし今朝はそうじゃない、すやすや穏やかな眠りの中で心地良い夢にうつつを抜かしていると突然色っぽい風と共に興奮で起こされた。

「おい起きろよルーク何時まで寝てんだ? オレが迎えに来てやったってのにまだ起きないなら……イタズラしてやろうか」
「うひょわああああっ!?」
「おお、凄いなルークが一発で起きるなんて!」
「そんなに起きないのかよこいつ。じゃあこれから毎朝起こしに来てやろうかね」
「それは助かるなぁ」
「……はひ、……ぜぇ」
「ガイ、ポッポが呼んでたぞ。バンエルティア号のメンテの日にちを相談したいってよ」
「なんだってそりゃすぐ行こう。あー、ルークは任せて大丈夫か? 寝起きは結構凶暴だぜ」
「躾は手馴れてるから任せてくれ」
「お手柔らかに頼む、案外繊細な奴だからさ」
「見た目じゃないってやつだろ、大丈夫さ昨日十分思い知った」
「はは、じゃあ頼むな」

 朗らかにガイは微笑み部屋を出て行く。その足と声が浮かれていたのは趣味の機械の事で呼ばれただけなのかどうか、寝起きにピンク色を目一杯つめ込まれたルークには考える余裕が無かった。
 閉まる機械音が終われば後に残された空気はどことなく照れくさい、気がする。ルークは熱くなる頬を両手で隠してから恨めしそうに紫黒の男を見上げた。するとこれまたご機嫌に嬉しそうな顔、とっておきを惜しげも無く。ユーリの手が伸びてきて髪をさらりと梳く。その音にまで低音が混ざっているように聞こえて、あんなに好きな音なのに耳を塞ぎたくなる。指の間に髪を絡ませたままユーリは顔を近付け、わざとらしく耳元で吐息のような声を吐いた。

「おはようさん、このねぼすけ」
「うひっ! ち、近い近い近いっつってんだろ!」
「ルークはオレの声が好きなんだろ? 気持ち良く起こしてやろうと思ってわざと、な」
「す、す、す、すすすす、すっ……〜きだけど、心臓に悪いからっ! あああああんまり近付くな! 声掛ける時は事前に言って……いや駄目だ、その、えーと……手を上げろ!」
「まだ起きてないみたいだな。もっと色々吹き込んで腰砕けにしてやろうか?」
「やーめーろー!」
「んだよ、これくらいで騒いでたら先進めないだろうが」
「先ってなんだよ、先って!」

 思わず声が裏返り立ち上がる。ボワッと頭から爪先まで血流が巡り一瞬で体温がカッカと上昇してしまった。想像するだけで沸騰しそうだ、先とは……先って、なんだ! ルークはユーリの声が欲しかっただけで、そんな、先とか……だから、先って具体的に!? 想像しても追いつかないアレコレをちぎっては投げちぎっては投げ、頭の中でひとり興奮する。もう何で興奮してるのか自分でも判断出来ない、怒りなのか歓喜なのか。
 ルークが百面相しているのに、足元のユーリはクックと笑い余裕気だ。この野郎本当にムカつく、声が良くなかったら今頃100回は殴っているのに。カッと怒りのボルテージを朝から上げて、ルークはどすんと座り込む。ベッドの上ふたり向い合ってだんまり、まるで睨めっこだが傍目からはどう見ても勝者は明らかだ。

「もっと自信持てよルーク。お前はオレを撃ち落としたんだからな」
「なんだよその言い方。ユーリはちょっと自己評価高すぎないか」
「卑屈よりいいじゃねーか」

 その言葉がなんだか昨日までのルークの事を指しているようで、少しギクリとしてムッとする。それから意地がむくむくと湧いてきて、そうだ立場は対等なのだから自分だけ慌てるなんてみっともない。……ユーリを自分のものにして、対等で、……恋人で。くそう、形にすると今すぐ暴れだしたい程恥ずかしい。ルークはカーッと顔色を濃くしてそっぽを向いた。すぐに追ってくる苦笑が聞こえるが今だけは無視する。だってその笑い声すらどこか嬉しそうで、耳に入ってきた途端にぽわぽわ脳みそが馬鹿になりそうだった。
 誰かが誰かへ送る感情の端っこじゃない。今この部屋を満たしているのは、ルークへ送るユーリの心の中心。取りこぼしたくないけれど、触れるだけでその箇所が蕩けそうになる。どろどろに融けてかたちがなくなって、音すらもなくなってしまう。

「そんなに恥ずかしがるとこれからが大変だぞ、ちょっとずつやってこーぜ。ほら、こっち向けよ」
「うるせぇ、……ばか」

 ルークの中身の何も知らないくせに、中身を全て融かしてしまうスイッチを持つこの男が憎たらしい。しかしその何倍も新しい感情を沸き立たせるのだから始末に終えなかった。まったく、もう。
 隙間を埋める密度を音で聞き、ルークは瞼を閉じる。そうすればふわり落ちてくる感触にじーんと震えて息を詰めた。声が無くても嬉しいとは、自分の中身は随分変わってしまったらしい。
 ユーリは自分のものになった。夢でも何でもない、本当の事実で現実、だ。ぱちりと開いた世界はなんだか全体的にピンク色に見える。思いっきり色を飛ばしてる男が視界を塞いでいるのだから当然かもしれないが。ルークはそっと、紫黒の毛束の先っぽを掴みぼそりと遅いおはようを言った。

「それじゃ、……さ。あのよ。ユーリに言ってもらいたい事があるんだけど……良いか」
「ん? 何だよ好きとか愛してる、とか言って欲しいの?」
「ばばばばか野郎そんなこっ恥ずかしい事簡単に言うな! そんなんじゃなくて、ええとその」

 もじもじと照れてルークは俯きながら指先を彷徨わせる。今でも相当恥ずかしいが、望みを求めて必死に縋る瞳を向ければ伝染してしまったのかユーリの頬も薄っすらと赤みが差した。あんなに恥ずかし気も無く甘ったるいセリフを吐いていたくせに、そちらが照れてはこっちはもっと照れてしまうではないか。
 ユーリはぽりぽりと額を掻き、コホンと誤魔化して背筋を伸ばす。そして頼りになりそうな笑顔で、ルークへ自信を分け与えるように力強く答える。

「いいぜ、何でも言ってみろよ」
「ほんとか! あの、今日だけじゃなくて……毎日、言ってくれたら、……すげー嬉しい、ん……だけど。……だめ、か」
「そんな言い方されて駄目って言う奴がいると思ってんのかよ。いいから、どうして欲しいんだ。毎朝の挨拶でもおやすみのキスでも、出来る範囲ならやってやるさ」
「じゃ、じゃあ……。恥ずかしいけど……聞いても笑わない、か?」
「聞いてから考える。笑うかもしれねーけど馬鹿にはしない、絶対にな」

 正直な回答を聞いてルークの信頼はどんどん傾いていく。下手な慰めや誤魔化しなら欲しくない、駄目ならきちんと言ってくれる方がまだ良い。だから、今この瞬間から羞恥よりも他人の常識よりも、ルークはユーリを信用する事に決めた。
 おずおずと怯えるように、少しずつ扉を開けてルークは昔から奥底に秘めていた望みを初めて、言葉という形に創りあげる。それはどんな勉強や剣の修行よりも覚悟を要した。だが真剣な声がその心と共に伝える、体温よりも熱い音に手を伸ばす。
 ぎゅっとユーリの服の端を掴み、首を傾けて、遂に口にした。

「毎日ルーク様流石です最高です格好良いですって言ってくれ」
「……毎日か」
「毎日忘れずに俺を褒め称えろ」
「悪い、昨日の事は全部保留にしてくれるか……」
「なんでだよーっ!?」

 全てを覆すようにユーリは大変残念そうな痛ましい顔をして背を向ける。ルークは自分こそ決死の覚悟で言ったのに! と怒りを爆発させた。綺麗な音を出すユーリの唇を思いっきり引っ張って、言えよゴラァ! と大噴火だ。
 もうほんと、オレが馬鹿だったわ……なんて猛省っぽくユーリは全身でドン引きしている。ここまで来て引くんじゃねえ許さねえからな! とルークはどんな手段を使ってもユーリを声ごと手に入れてやる、と決意の焔を新たに背負ったのだった。

 後日本当にルークがユーリを手中に収めたかどうか。それは本人達の声を聞けば分かるかもしれない。






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