花の絵の影を映す、その瞳は








2

 ライマの面々が船から降りて数ヶ月後。彼らは結局アンジュの計らいで脱退はしなかった。またルークは来ると言っていたし、それにもしかしかしたら……辞退した王位の代わりに、このギルドに身を置くのではないかとユーリは考えている。もしそうなったら、自分はどうしようかとも考え直している最中。ルークが在籍するからずっとアドリビトムに居ようとは思わないが、ガルバンゾに帰る足を留めている材料には確実になっていた。帰るのかここに居るのか、最近ではそんな事を無意識にずっと考え込んでいる。
 悩むのも馬鹿らしい、一度さっと行けばいいだけ。ここに戻るのも戻らないのも動いてしまえば決められるのに、自分が戻っている間にルークが来たら、と思うと足踏みしてしまう。実際そんなタイミングが重なる事は稀なのだから行けば終わる話で、何をグズグズしているのやら。

 そうやって引き延ばしていると、ダラけたユーリを叱るような連絡が入ってきた。ルークが、正式にアドリビトムに復帰するそうだ。継承権は結局アッシュに移り、ルークは外交官として任命され、勉強と箔付けの為またギルドに帰ってくるらしい。

「何時頃になるんだ?」
「迎えを断られたから、2・3日はかかると思うよ」
「なんだよ、こっちから行った方が早いのに」
「だよねぇ。まあそんな理由で、暫くはここに停泊するから」

 今やバンエルティア号は、救世主ディセンダーを有するギルドの象徴として持て囃されている。あれを国民に見せつければ外交官見習いとしてもいい宣伝になると思うのだが……。目立ちすぎは良くない、という事かもしれない。お偉いさんの考える事はよく分からん、と適当にぼやく。だがその心中、ユーリはそわそわと落ち着かなくなった。
 ルークが船を降りて半年だ。その間ディセンダーは帰って来て、カノンノが3人に増えて、セネルが美味いパンを渋々と焼く姿が増えたり、と。ルークが聞いたら面白がる話題がたんまりある。それから、増えたデザートのレパートリーも幾つか披露してやる事にしよう。いきなり忙しくなったな、気が付かず早足になるユーリは廊下をずかずか歩き、食堂へと突撃した。




 冷蔵庫のストックを増やし過ぎてリリスに注意を受けてから、5日。ユーリはエントランスで立ち止まる。隣のエステルが小さな声を上げ、嬉しそうにカウンター前に立つふたりへ手を振った。

「ルーク! お久しぶりですっ」
「おや、エステル姫。お久しぶりですね」
「ジェイドも、お元気そうで。今日から復帰するんです? ナタリア達も一緒ですか?」
「いえ、ナタリアとアッシュは国で舵取りに忙しいもので。ティアが後から追いつきますよ」

 先に返事をしたのはジェイドで、相変わらず代わり映えのしない胡散臭そうな笑みで朗らかに答えている。ルークは少し面倒そうな眠たげな眼で、適当に頷いているだけ。その姿を、遠くから見てユーリは瞬間変だな、と感じた。
 だが、ふとルークが此方を見る。ばちりと視線が合いユーリの心臓は何故か鳴った。両方、口を軽く開いてどこか呆然としている。なんだこれは、と奇妙な緊張を感じてユーリは無理矢理足を動かして進めた。どんどん近付きはっきりと輪郭を伴う色合い。半年ぶりか、と頭の中で浮かぶ言葉達は、あれだけピックアップしていたのにそのどれもを蹴飛ばしていた。名前を呼ぼうとした寸前、ジェイドが気付いて珍しくユーリを呼ぶ。

「ユーリ・ローウェルではありませんか、お久しぶりです」
「あんたは何時見ても変わらねーな」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」

 他愛ないやり取りをして、近付く。それからルークの翡翠を見れば、ふと気付くものがあった。何となく毒気が抜けた顔になった、ような気がする。以前は傲慢と素直さが同居して、怒りと勢いの若さが渦巻いていたのだが、今はぱちくり瞳を大きくユーリを見つめ返していた。国に帰って王位を返上し、悩みを振り落とした事で気が抜けたのかもしれない。簡素に挨拶すれば当然にルークも返事をした。

「よお、お坊ちゃん」
「ユーリか、久し振りじゃん」
「……おう、そうだな」
「ルークはずっとここに在籍するんです?」
「ずっとじゃないって、取り敢えず帰って来いって言われるまで。面倒くせーけど、外交なんてやった事無いからせめて箔だけはこびり付くくらい付けて来いって言われてよー」
「アドリビトムは世界中を回りますから、確かに丁度いいですものね」
「今の間に彼を勉強漬けにしないといけないのですから、先が思いやられますよ」
「ジェイドの教え方が悪いんだっての、俺は悪くねぇ!」
「こんな調子ですからね、是非よろしくお願いしますエステリーゼ姫。外交的にも」

 身内びいきを国家間でやろうとしないでもらいたい、しかも目の前で。エステルは苦笑しながら曖昧に頷きあしらっている。天然なのかわざとなのか、こういう所はルークも見習った方が良い部分だろう。
 それから荷物を置いて皆に挨拶してくる、と言ってふたりは以前の部屋に消えて行った。ライマ部屋はロックスが毎日掃除していたので半年経っても綺麗なまま、不便は無いだろう。
 その背中を見送り、ユーリは眉を潜めた。普通の会話、ぱっと見では大きな変化は見受けられない、ルークは多少大人しくなっているようだが。それでも、ユーリの中は強い違和感がいっぱいに膨らんでいる。一生大罪人って言ってやる、そう言っていたのに。忘れてしまったかのように、ごく当然に名前を呼んでみせた。上げてしまえばそれくらいしかない。だが、その一点がユーリにとっては大きすぎた。例えば自分で言った言葉を忘れてつい名前を呼んでしまった、としてもルークならばすぐに気が付いて反応するはず。今の態度は名前呼びが通常だと言わんばかり。
 ユーリとルークが交わしたものは、半年ですっぱり綺麗に忘れ去られる程軽く薄いものだったのだろうか。確かに大した事も無くただふたりで闘技場や依頼に出ていただけ、ただそれだけではあったが。そんな考えに、ユーリの心は自分でも気付かず沈んでしまった。

 しかし、帰ってきたルークに違和感を覚えたのはユーリだけでは無かったらしい。クレスとロイドが、どこがどう変わったか指摘出来ないが、雰囲気が変わった、と。

「気力が無いよね。以前の、面倒だって言ってる時に似てるんだけどどこか違う感じがするかな」
「負けず嫌いなのは変わってないんだよ、負けたら再戦したがるし。でも……うーん、なんだろうな、弱くなった?」
「弱くなった?」
「ああ、そうだね。ルークの動き、もうちょっとキレがあったと思うんだけどな」
「鈍いっていうより、ぎこちない……って感じだ」

 あやふやで感覚頼りな言葉だが、そう言われてみれば確かにルークは少し鈍くなったかのように見える。国に帰る前は依頼や闘技場で積極的に戦い、クレス達ともしょっちゅう手合わせをしていた。一緒に戦っている最中、段々感性で強くなっていく過程をユーリは肌で感じる事もしばしば。剣技が趣味のお坊ちゃんから、確実に戦士となっていたのを覚えている。しかし今、どこかぼんやりしており足元が疎かだ。あっちにフラフラこっちにフラフラ船内を歩いており、ギルドに来た当初珍しがって彷徨いてた頃を思い出す。
 ふたりに礼を言い、ユーリは考えながら廊下を歩く。自分の中で感じる歪みをいちいち船内中駆け巡って確かめるのも手間であるし、騒ぎ立てるようで好きじゃない。だが確かにある、奥歯に挟まった何か。何だろうか、とても気になってしまう。
 今の所ルークはティアによく叱られながら、以前のように船内を過ごしている。それが珍しいな、と思ってしまうのは隣に居たのは彼の兄貴分であるガイだったから。彼は後から合流していたのでそれまでは確かに彼女がルークを叱っていたが、ここまでべったりではなかったはず。
 変だと思うのはそれだけではない。アドリビトムに戻って来たのは、ルークとジェイドとティアだ。継承権が移った今、アッシュとナタリア、騎士団長であるヴァンや、ジェイド直属のアニスは連絡係として来ないのはまあ分かる。だが、こちらにガイが来ていないのはいくらなんでもおかしいじゃないか。ガイはルークの兄貴分で従者だ、一応名目上はファブレ家所属だが、基本的にルーク専用になっていた節がある。ルークだってガイに頼りきっている部分もあって、傍に置かないなんておかしい。
 違いは何だ、足を止めてユーリは考えた。何故こんな事を真剣に悩んでいるのか自分でも分からないが、一度気になってしまえばスッキリするまでとことん突き詰めたい。誰かの何かに深く踏み込むなんて趣味ではないはず、だがどうしても、胸の奥の本音が黙らない。ユーリ、と呼ばれたのにちっとも嬉しくなかった。変だな、名前なんて呼ばれても嬉しいと思わないだろう普通。けれど自分は呼ばれたら少しだけ、嬉しいだろうなと思っていたのだ。それが裏切られた代償を求めているのかもしれない。

「……ああ、そうか」

 来ていないのは、アッシュ、ガイ、ナタリア……後は騎士団の関係者。前者の彼らは幼馴染だ、ルークと付き合いが長い。もしルークが何か悩んでいたり変化があれば少なくともガイが、もしかしたら双子のシンパシーでアッシュが気付くはず。ギルドの皆は共同生活をしてきたとはいえプライベート範囲はそれなりに考慮していた、深く入り込み過ぎる事はない。自分だって、そのつもりであのお坊ちゃんと過ごしていたのに。
 止まっていた足を、ユーリは早足で進める。こうなりゃ直接ぶつかるしかない、あの王子様の面倒に付き合っていては日が暮れてしまう。苛々したままでは甘い物も甘くない、昨日作ったプリンアラモードが泣いている。甘すぎると口の中が気持ち悪くなるだとか、甘党に正面切って喧嘩売るような発言をする甘ったれの為に甘さ控えめに作ってやったのに。
 張り切る程に勢いをつけて、ユーリは扉をノックした。


「……うえっ」
「だから、その不味そうな顔止めろっての」

 場所はとある街のカフェテラス。ユーリの目の前には、チョコレート・パフェ・サンデーマンゴーミックス・カラメルソース増し。名前ひとつでどんな商品かすっかり分かってしまう素晴らしい逸品。パフェとサンデーをミックスしてマンゴーを山盛り、上からカラメルソースを真っ黒になるまで。ちゃんとシロップと生クリームも一緒に付いて来るので、好きなだけかけて食えという事だ。勿論ユーリは全部かけている。
 向かいのルークはワッフルセット。お前は女子供か、と言ったがユーリに言われたくない、と返されて黙った。別に名前をまた呼ばれたからではない、決して。

「お前ほんっと、よくそんなもん食えるな。もう味覚の暴力だぞそれ」
「何言ってんだ、こんな暴力猫パンチと一緒だろ。いくら食っても甘い物は美味い」
「ずーっと目の前でデザートばっかり食われたら、こっちが甘い物嫌いになりそうだっての」
「そんなもんかねぇ」

 以前は結構な頻度で、ルークの目の前でデザートを食べていたのだが。彼は毎回顰め面して、でも自分にも一口だけよこせ、と言ってきた。ユーリはプラプラと行儀悪く、スプーンを揺らめかせる。頭の中で考え事を整理してから、ルークに聞いた。

「けどお前、ここのデザート好きだったじゃねーか。前一緒に来た時クレープ美味いっつって全種類制覇したし」
「適当言うなっつの! 食ったのはジャムのやつだけだろ」
「なんだ、覚えてたのか残念。じゃあパンケーキは? 一口やった時わりと美味いって言ってたろ」
「それ違う街だったはずだろ、あのくっそでかいパンケーキの店。まあ俺からしたらあれもそれも生クリームの量多すぎて気持ちわるい」
「生クリームは多ければ多い程良いに決まってるだろ」
「品が無いんだよ! 俺ん家のシェフは生クリーム山盛りにしなくてもすげー美味かったぞ」
「セレブは何も分かってねーな、この美学。人の金で腹いっぱい食うのが最高に美味いのに」
「ちょ、嘘だろなんで俺が払う事になってんだ!?」
「だって前にルークがやけ食いした分、あれ全部オレが立て替えただろ。結構な金額だったんだぜ忘れたのか?」
「え、あ……そんな、金額いってたのか?」
「そーそー。食うだけ食ったくせして、財布持ってきてないとか酷い話だったよなあれ。ギリギリオレが持ってたから良かったものの、下手したら金額分皿洗いだったろあの時」
「う……分かったっての、払えばいいんだろ払えば! ったく、そういうのって普通食う前に言わねーか?」
「言ったら店に入るの嫌がりそうだから黙ってた」
「テメーなー!」

 ぶつぶつとルークは唇を尖らせながら財布を覗いている。注文したメニューは確かに巨大で量は多いが、所詮デザートの範囲で収まっているので言う程心配するような金額ではない。それよりも今の会話で、ユーリは自分の中にあった違和感がはっきりした。
 本当の中に、嘘はひとつ。これが嘘を付くコツ。そしてそれを逆にすれば、嘘を炙り出せる。沢山の虚偽に真実をひとつきり、それが分かるのは当人だけ。今ルークは、それに気付いていない。それだけでも既に致命傷なのに、さてどうしてやろう。

 腹ごなしを済ませ、ふたりは闘技場に来ていた。ギルドに戻って来てから外に出なかったルークを、ユーリは多少強引にでも引っ張りだしている。ティアが心配そうにしていたが、討伐依頼でも無いのに不安定要素は無いに等しい。ルーク自身も久し振りに剣を持つのか、少し楽しそうに張り切っている。腕の関節をぐるぐると回し体をほぐし、準備も良さそうだ。
 ユーリは受付カウンター前、適当に低めの相手を選んで選択する。面倒な受付は全て任せるつもりなのか、ルークは背後でしらんぷりだ。なのでより都合が良い。以前良く訪れていたふたりの顔を、受付嬢は覚えていたようで表情を戸惑わせて再度確認してくる。ユーリはそれをルークに悟られないよう、大袈裟な動作で手を振り受け応えた。

「何、どーしたんだよ」
「いや、今ちっと混んでるからちょっとだけ待ってくれってよ」
「えーマジかよ面倒くせー! さっさとしろよな!」
「順番回ってくるなんてすぐじゃねーか、待合室行ってようぜ」

 ぶつくさ文句を言うルークの手を引き、待合室の扉を開ければ他には誰も居ない。丁度今出たようで、これならば順番もすぐ来るだろう。そう説明してやればルークの機嫌は目に見えて浮上し、ちょこまかと待合室に飾られた武器を見て回る。何度も来て飽々しているはずなのに、興味深げに見つめる瞳。成る程、改めて外見を見れば違和感は微々たるもので、簡単には発見できやしない。となればそれを見つけた自分の執念は一体なんだろうか、何を原動力にして動いたのだろう。

「次の挑戦者、出番です」
「お、案外早かったな!」

 アナウンスに呼ばれ、ルークは嬉々として隣に戻ってくる。腰の剣をすらりと引き抜き、抑えられない興奮に鼻息を荒くした。それを吹き出して笑い、ユーリは自分の準備運動としてからかってやる。

「おいお坊ちゃん、前に右手でも剣を持てるようにするとか息巻いてたけど……使えるようになったのか?」
「そんなん利き手じゃないのにすぐ出来る訳ねーだろ。第一俺ずっと城でごたごたの式に出ずっぱりだったんだから、剣振ってる暇なんか無かったんだよ!」
「なんだ、口ばっかりか。同じ剣使い込めば結構反対の手でも融通利くもんだぜ」
「うっせーばーか! お前みたいに何年も使い込んだりしねーんだよ!」

 べー、と舌を出しプリプリ怒りながらルークは表へ出て行く。戦闘前からあんなに張り切って、血気盛んなものだとわざと怒らせたユーリは笑う。そして自分が持つ剣を見て、少しだけ溜め息。
 ユーリが今手に持つ剣は、以前に使っていたニバンボシではない。これは合成を何度も重ねたバイオレントシザー。斧も扱える自分が、攻撃力で劣る片手剣を使っている理由は……ルークが選んでくれたから。わざわざ女々しく、帰ってくるまで使い続けていたのだが、彼はやはり分からなかったようだ。

 半年前には何度も見ていた背中、飛び出すのが好きな彼の為にフォローばかり回っていたのでよく覚えている。どこも変わっていないのに、もう同じには見えない。不思議なものだな、と思う。取り敢えず今は目の前の敵に集中して、それからもう一度考えよう。一体どんな理由が彼の口から飛び出してくるのか楽しみじゃないか。
 ぶん、と剣を一閃して頭の隅にチラつくざわめきを振り払う。そして迎える観客席からの歓声を受け入れた。


 夕暮れの帰り道、上機嫌な鼻歌は偉そうに先頭を歩いている。闘技場は見事にクリアして拍手喝采と景品を貰い、ルークはご機嫌だ。闘技場を出る際に好奇の目で噂話を立てられていた事も調子付くいい材料で、ひとり浮かれきっている。話している内容を詳しく聞けばおそらく、真逆の反応をすると思うが。
 背後を見ても細い影が薄まって付いて来るだけ、周囲に人は見かけない。街と街を結ぶ街道は夕方という事もあって少し寂しげで、一般人ならば怖がるだろう。今のルークなら幽霊が出ても剣を振り回して歓迎しそうだ、とクスリ笑った。その声が聞こえたのか、朱金をひるがえして不思議そうな緑碧がユーリを見る。少し薄暗い空色を混ぜ込んだ、くすんだ瞳。なのにどこか素直そうな印象を抱かせる。彼は何時だって、ひとつの体に正反対なものばかり詰め込んでいた。そんな不器用さが、ユーリを放っておけなくさせるのかもしれない。
 薄っすら唇を開けて、皮肉げな笑み。それから、今日の戦歴を語った。

「今日は調子良さそうだったな。久し振りに剣振ったってのに」
「ああ、なんか思ったより楽だったぜ! 数は無駄に多かったけどやっぱ雑魚は雑魚だな!」
「はは、お前ウロチョロ纏わり付かれて尻もち付いてたクセによ」
「うるっせ! あれは偶々、ぐーぜんだ! ってかあの犬ッコロみたいなのがピョンピョン跳ねて、剣の範囲から逃げるんだってーの!」
「ウルフ種特有の動きじゃねーか、あんなもん」
「それがムカつくんだよ!」
「剣じゃなくて足も使え。脳天蹴れば動きが鈍くなるぜ」
「剣持ってるのに蹴れるかよ、ユーリじゃあるまいし」
「そうか? ……以前のお前はそうやってウルフ種を倒してたんだけどな」
「え? ……あ、そう、だったっけ。なんか、久し振りだから忘れちまったわ」
「ルークは忘れっぽいな、たった半年だってのに。城になんでもかんでも置いてきちまったんじゃないか」
「う、うっせーな……」

 途端、膨らんでいた風船がばちんと割れたかのようにルークは萎んでしまう。しゅんと俯き、歩みのスピードを僅か落とす。まるで怯える子供みたいに、視線がおどおどし始めた。ユーリは一歩前に出て隣に並ぶ。しかし相手はびくりと肩を跳ね上げ、さっと逸らしてしまった。
 今日の行動全て、ルークを追い詰めるものだとは夢にも思っていないのだろう。少し罪悪感も湧くが、それ以上にユーリは気になっている。さっさとはっきりさせたいのだ、自分の為にも相手の為にも。

「他にもよ、結構忘れてるよな。今日の闘技場の試合とかさ」
「え? 闘技場?」
「ルークお前、闘技場はもう制覇してるんだぜ。なのに今日の相手は随分格下の雑魚だ。帰り際噂話されてたのは、なんで雑魚相手にあんな時間掛かってたんだって笑われてたんだよ」
「……それは、久し振りだったし。第一選んだのお前じゃん」
「ああ、だから真っ先にお前が文句言わなきゃならなかったんだよな、あの時。でも言わなかった」
「う、……その」
「他にもよ、あの待合室の武器はルークがお下がりを寄贈した品が幾つかあるんだけど全く気が付かなかったよな? それにオレの剣はルークが半年前選んだ物だって事も完全に知らなかった」
「……ユーリ、お前」
「いい加減気が付いたか? 他にもまだあるぜ。ルークがクレープを全種類食ったのは嘘、オレがあの街でパンケーキを食ったのも嘘。けど最後の……オレが全額立て替えたのが嘘、ってのは本当、だ。お前はちゃんと正解してたんだよ、だから間違えた」

 ぴたりとルークは足を止める。ユーリは一度瞬きした後、振り返って相手の表情を見ればあからさまだった。動揺と恐怖に凍りついて、怯えた顔をしている。視線は地面に、穴を空けて逃げ出したい様子がはっきりと。
 ここにきてますますユーリの中で罪悪感が。まるで子供を苛めているみたいじゃないか、なんて大罪人なんだろう自分は。しかし続く言葉は蓋にならず、決定的な断罪の矢を放った。

「第一、ルークはオレの事名前でなんか呼ばねーんだよ」
「え……」
「大罪人って、呼びやがるんだ」
「お、お前そんな悪い奴だったのか!?」
「ほら、まずそこからしておかしい。それともまだジェイドの嘘に騙されたって言うのか?」
「え……ジェイドが嘘なんて付くはず……」
「これ以上喋るとボロが出すぎて、保てなくなるぜ。いいか、先に言っておくが別にオレは怒ってない、だから正直に答えろ。……お前、一体誰なんだ」
「……っ!」

 幽霊に遭遇したような、恐怖を引き攣らせてルークははっきり戸惑う。ぐっと両手で自分の体を掻き抱き、寒さではない震えに揺れている。眉間に皺を刻み口元を歪め、視線は拒絶するように避けた。
 ユーリは逃げられないよう正面に立ち、その様子を目に映す。こんな怯える姿を見たことが無い、だがルークならばこんな風になりそうな、想像をそっくりそのまま正確に映している。
 どんな理由が飛び出して、ユーリの知らないルークが今目の前に存在しているのか。彼が偽物だとして、本物はどこに居るのか。軽く考えただけでも王位の相続権だなんてゴタゴタがありそうな事件、何かあったのだろう事は容易に想像できる。だから長い付き合いのガイは一緒じゃない、だからジェイドが先に名前を呼んで教えていた。幾つか知っている事があるのはおそらく、ルークの日記を読んだのだろう。彼はああ見えてマメに毎日日記を付けている、意外だなとユーリは驚いたのでよく記憶に残っていた。
 ジェイドの協力を取り付けて、ルークの日記を読めて、本人そっくり。ここまで材料が揃えば、まあ予想は外れないだろうけれど。一応ちゃんと本人の口から聞きたい。だから多少怯えさせても、ユーリは追い詰めた。優しい声で、けれど強制的な響き。もう一度同じ事を言って脅迫する。

「何か下手こいたんだろ、どうせ。笑い飛ばしてやるから言ってみろ。明日フルーツサンデー奢ってくれりゃ他の奴には黙っといてやる」
「……なんだよそれ、お前マジ味覚おかしい」
「オレの舌は正常だっての。自慢のデザート何度も食わせてやっただろ?」
「知らねーよ、俺は……食ったかもしんないけど、忘れちまった」
「忘れた?」
「ああ、俺……1年分の記憶、無くなっちまったんだ」
「1年分っていや丁度アドリビトム来た頃か」
「修行の旅とか、そこらへんも綺麗さっぱり無くなっちまった。朝起きたら、なんか病人みたいな格好と部屋で医者みたいな奴らいっぱいに囲まれてさ。いきなり頭打って1年分記憶が飛んでしまいましたが、体の方は無事ですよ、って言いやがるんだ。全然無事じゃねーっての……」

 苦々しく笑う様は強がりになっていない。今まで必死で張っていた虚勢をボロボロに崩し、自分の身に降りかかった不幸を嘆く。

「継承権がアッシュに移ったってのも、俺が親善大使で外交官になったとか、アドリビトムの奴らとか……全部全部、日記で読んだけどよ。確かに俺の字なのに、全然自分の事だって思えなくて。……困ってんのはこっちだっての、マジで」
「ルークが日記書くようになったのも、確か昔記憶喪失になったせいだとか言ってなかったか」
「ああ、もっとガキの頃にな。まさかマジで日記が役立つとは思わなかったけど。普通人生で2回も記憶喪失とかなんねーだろ」
「頭を打ったって……。本当か?」
「知らねーけど、今の俺はアドリビトムの奴らなんか全然知らないのに無理矢理連れてこられたから多分、なんかあったんだと思う」
「きな臭いね全く。また避難しに来たって事かもしれないな」
「…………」

 俯く視線も前髪も、誰よりもルークは怯えている。記憶が無くなってしまう恐怖を再度味わうとは、なんて奇異なるものか。ユーリは自分の身で想像し、全く想像が付かない。大事な人間がどう大事だった事すら忘れてしまう。その上ギルドの皆をすっかり忘れてしまったのに、そこへ紛れ込まなければならない苦労。全く面倒で困難だ。
 しかし、ならばますますガイが付いてこないのはおかしいのでは? ルークはギルド加入時と大きく変化したひとりだろう、特に友人となったクレスやロイドとは随分親しくなったはず。自分の日記でそう書いているとはいえ、忘れてしまえば実感が伴わず元の性格を考えれば不自然な態度になりそうなもの。兄貴分はどうしたんだよ、と聞けばますますルークは眉をひん曲げて困らせた。

「なんか、丁度実家に帰ってるとかって……。俺も見てない」
「ガイはライマ出身じゃなかったのか?」
「どっかの島国ってジェイドが言うんだけどよ。でも俺そんな事聞いた事ねーし、全然帰って来たって連絡も来ないしよ……」
「嫌な事聞くけど、ちゃんと生きてるだろうな?」
「怖い事言うなっての! そんな訳ねーだろガイだぞ、俺の知らない所で死ぬ訳ねーじゃん!」
「ジェイドが言ってるって所がなーんか怪しくってな」
「それは、……俺もそう思う。あいつ胡散臭いしムカつく冗談も言うけど、嘘付くくらいならギリギリまで黙ってる奴だから」

 自分で信じたくないから、ルークは強く否定する。記憶を失い知らない人間ばかりの中、知っている頼りを消したくないのだろう当然だ。しかし丁度相続権のゴタゴタの最中、本人は頭を強く打って記憶喪失、兄貴分で従者はタイミング良く居なかったとは……少々舞台が整い過ぎている。ガイの腕と性格を知っている分、トラブルがあってもなんとかしてしまうだろう信頼はあるのだが便りが無いのは気になるか。
 傍に居るのがジェイドだという信頼がそのまま不審に繋がっている。彼は巧みに裏を潜り込ませる、敵でも味方でも侮れない人物だ。余計な情報を漏らすとは思えない、足りないピースはそのまま、触れてほしくない部分なのだろう。

「毎晩、俺の日記読んで名前とか出来事とか覚えようとしてんだけど……やっぱり実感が無いからすげー変な気分でよ。前の時はガキだったし、家の中だけだったからそんな難しくなかった。でも今は正直、キツイ」
「確かに、1年とは思えない程濃かったからな」
「もういっそバラしちまった方が楽だっての。知らないのに知ってるフリとか、面倒だしウザい。仲良さそうに声掛けてくる奴らとか、俺全然知らないのに、悪い気がする。騙してるみたいだ……」

 ぎゅっと己の裾を握り締め、複雑な表情を厭わず晒す。根が素直なルークでは周囲を謀り続けるだなんて酷だ、近い人物であればある程その違和感が大きいというのに。名前という引っ掛かりがあったユーリはすぐに気が付いたし、クレスやロイドもいずれ気付くだろう。1年分の記憶が無いルークは、戦闘技術が格段に落ちている。依頼を共にすればおそらく一発だ、だから戻ってきてから外に出なかった。
 心身共に負担が多い今の現状が、ルークに良い環境とはとても思えない。記憶喪失がどんな種類か、戻るものなのか戻らないものなのか、それはユーリは分からないが少なくとも今、ルークは苦しんでいる。親しい人物は近くに居らず、頼りになるのは知らない自分の日記の内容。ギルド仲間は別け隔てなく親しい分、プレッシャーを強く感じているのだろう。
 放り出された子供は、ぽつんと立ってひとりぼっちになっている。ユーリは率直に、可哀想だと思った。可哀想なルークは、少なくともまだ泣かない意地を振り絞って耐えている。中途半端な意地と記憶が崩れる事を許さず、余計に心身を削っている事を気付かせない。少し震えの混じる声、助けを求めて視線を飛ばすのに目当てが居らずフラフラしている。ユーリはその手を、救い取ってやった。

「お、……俺だって怖いんだよ。ガイもアッシュも見なくて、どーなってんのか全然教えてくんねーし。世界樹は変な事になってるし、知らない奴ばっかり知ってる風に声掛けてくるし……っ」
「大丈夫だ、ルーク。オレが教えてやるよ」

 おそるおそる、翡翠色が上目使いで怯えている。叱られる寸前の子供みたいで、憐憫を誘った。叱られるような事なんて、ルークはしていない。彼はもっと堂々と我儘に、胸を張っていなければルークにはとんと見えないじゃないか。
 ユーリはルークの腕に触れ辿り、手の平を持ち上げぎゅっと握る。以前曲げなかった、合わせるだけの指は今日、忘れたみたいに強く。それから自分へと引っ張り抱き締める。大きな子供の肩をポンポンと叩き慰めた。それから、もう一度強い口調で言ってやる。

「心配すんなって、大丈夫だ。1年分の記憶なんかなくったってお前はルークだ、間違いねーよ」
「……けどよ」
「オレはちゃんと覚えてるから、問題ないだろ。ちと不便かもしれねーが、またすぐ覚えられるさ。たった1年分なんだから楽勝だ」
「でも、1年で日記1冊使ってたんだぞ。すげー量だと思うんだけど」
「よくそんな書く事あるなお前、一体どんな事書いてたんだよ」
「色々……。楽しそう、だった。俺なのに」
「オレの事もちゃんと書いてたか?」
「お前の事、大罪人だなんてどこにも書いてなかったんだぞ、ユーリって名前で書いてた。普段呼んでる方で書けってんだよな、ほんと」
「へー、ちょっと気なるなそれ」
「お前の事、結構気に入ってる。……俺じゃないぞ、日記にそう書いてただけだからな」
「そっか。……そりゃ嬉しいね」

 腕の中のルークは緊張から力を抜き、こてんと頭を肩に預けてくる。その重みが、信頼の重さに感じて途端にユーリは力を込めた。背中を擦り安心させるつもりで、親のように抱き締める。そうすればますます、影を預けてくる心地良さ。
 ふたりで過ごした些細な記憶はひとり分天に帰ってしまったが、ユーリはきちんと覚えているし、日記の文字は消えたりしない。残念だと思う心は本当だが、もう一度創り上げるというのも楽しそうだ。だから、嘆き悲しむばかりじゃない。涙の雨が降るなら傘を差してやって、泥に沈みそうなら引き上げてやろう。ふたりで見た記憶なのだから、半分分け合っても減ったりしない。そこからまた重ねていけばいい、なんの問題もないじゃないか。

「騙すような事して悪かったな、あとデザート奢らせた」
「あ、お前そーいえば! ……ほんと、日記に書いてた通り嫌な奴だなマジで」
「なんだよ、結構気に入ってるんだろ?」
「俺は気に入ってないからな! 今嫌いになった!」
「じゃあまた、最初からやり直しだ。前の時も気に入らないって言われたしな」
「え〜……。なんか、やっぱ記憶喪失って面倒だよな。もっかいやり直しとかよ」
「いいじゃねーか、また闘技場制覇出来るぜ」
「あ、それちょっと楽しそう」
「そうだろ? 良い所も見てこうぜ」
「……そーだな」

 なってしまったものは仕方がない、嘆いて苦しむくらいなら捨ててしまうのも手だ。本人だけが覚えていた何かがあったとして、引き返す事なんて不可能なのだから。だからユーリは手を握り引いて、自分の所まで辿り着かせたい。自分だけが知っているなんて勿体無いじゃないか、もう一度、あの日々を知ってくれ。
 腕を開放し下がれば、落ち着いた表情があった。夕暮れのせいで全体が朱い、髪色に紛れている中で頬も。こうして見れば、ちゃんとルークだ。朱金の髪に緑碧の瞳、意地の多い態度と、素直な我儘。面倒で面白いのが彼なのだから、1年分が減っても変わったりしない。いやもしかしたら、面倒を楽しいと思わせるように、この1年間で自分が変えられてしまったのかも。そちらの方がしっくりくるな、と思って少しだけ笑う。
 滅多に出さない人の笑顔を見ておいて、口元を引き攣らせる失礼な奴の頬をぎゅっと引っ張り、汚い悲鳴を上げさせる。何しやがる! と大声が空に響き木霊して、ユーリはそれを遠慮無く笑った。そして手を、しっかり握って帰り道を歩き出す。後ろの声は以前のように不満と文句を大量に吐いて、それから大股で、ユーリの隣に並んで歩き出した。
 ほら、やっぱりルークだ。ユーリはじわじわ広がる何かを、まだ閉じ込めておきたくて唇を閉じる。慣れた足音を耳に入れ、バンエルティア号への帰路に着いた。






  


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