花の絵の影を映す、その瞳は








3

 結局の所、ルークが1年分の記憶を失ってしまったという事実は簡単にギルド内で知られる事になってしまった。何しろ開き直った張本人がそう言って回っているのだから、広まって当然なのだが。ジェイドは呆れて笑い事実を認め、軽くだが説明してくれた。

「毎日の会議でストレスが溜まったルークが、ひとりで発散しようと雨上がりの夜中剣を振り回していたら滑って転けたんですよ。当たり所も悪く夜中でしたから、発見が遅れました」
「……それは最新の冗談か? それともマジか」
「マジです。ガイが実家の墓参りに行っていたのも、本当に偶然なんですよ。手合わせの相手が居なかったせいで余計にストレスが溜まってたんでしょうね」
「それ、本人には言ってるのか」
「記憶喪失になり不安がっている彼に、そんな事言えますか? あなた自分ですっ転んで頭打って記憶喪失になったんですよ、なんて。馬鹿にとどめを刺すなんてあまりにも可哀想ですからね」
「……そうだな、一生黙っとけ」

 事実は小説よりも奇なり、とはよくいったものだ。正直襲撃に会いガイが庇って……辺りを予想していたユーリは肩が崩れそうで、力が出ない。本気で馬鹿にしたように笑うジェイドの面白そうな顔を前にして、これ以上の説明を聞く気力が失せる。しかし不意に、笑みを消しキリリと厳しく引き締めた。

「ですが、周囲はそう思っていません。何かに巻き込まれたんじゃないのか……憶測が憶測を呼び、今城内で疑心暗鬼になっています」
「それは……やっぱそう企んでる奴が居るって事だな?」
「小国といえど国の体裁を保っていますので、どこにでも種はありますよ。それが継承権の譲渡と、ルークの事故が絡み合い悪い方向に流れています。これ以上問題を大きくしない為に、我々はアドリビトムに避難して来たのです」
「面倒な話だな……。それで、何時まで居るんだ?」
「そうですね、少なくともアッシュの即位が終わるまで……は」
「だからそれが何時になるんだっての」
「さあ? 時代と政治は移ろいやすいものですから」
「暫く帰らないって事か……」

 それだけ聞いて、ユーリは部屋を出た。気にはなるが、聞きたい事は聞けたのでもういい。足を早めて、アンジュに手紙を頼む。その手紙はガルバンゾのギルドへ、まだ帰らないという旨を伝えるもの。ジュディスにもそう言えば、貴方の好きなようにすると良いわ、そう意味深に微笑まれた。
 ルークの我儘なんて可愛いくらいの我儘を、大人は息をするようにしている証拠。ユーリは軽く笑いながら、つまらなそうに待っている扉をノックした。




***

 ある日ヴァンがアドリビトムにやって来た。随分久し振りだが相変わらず隙が無い、いや以前よりも少しピリピリしているかも、そうユーリは感じ取る。しかし喜ぶルークを前にすれば、綺麗さっぱり隠してしまうものだから誰にも気付かれない。ジェイドといいヴァンといい、仮面を丁寧に被り過ぎて逆に胡散臭くなっている事を学習した方がいいと思うのだが。

「ヴァン師匠! あの……ガイは? それに、アッシュの奴も何か言ってませんでしたか」
「うむ、アッシュは今会議に追われて寝る暇も無くてな、ルークには悪いがガイはそちらの補佐に回ってもらっているのだよ」
「そんなに忙しいんですか。あの、……俺が、何か手伝える事は」
「アッシュが即位すれば、お前は親善大使として各国を回る事になる。その働きがそのまま、アッシュを助ける事になるのだ。今はまだ勉強の時期になるだろうが、しっかりやりなさい」
「あ……はい。分かりました」

 今まで裏方に回っていたのに、表に回ってもまだそちらの仕事をしているせいで時間が足りないらしい。有能過ぎて何でも出来る分何でもしてしまうのだろう、手を抜く部分は抜けばいいのに、無駄に生真面目なのできっちりやってしまい余計な負担を自分で増やしている。似たような人物がユーリの親友をやっているので、よく分かった。
 今自分が出来る事は無いと、そうキッパリ言われてしまったルークはしょんぼりと頭を俯いている。記憶を落っことしてから双子の弟にも兄貴分にも会えていない事は大きなしこりとなっているようで、気にするなと言われても気になるだろう。
 表情をあからさまに落としても、それに引き摺られないヴァンは無言でその天辺を撫でる。見た目によらず慣れた手付き、幼子を慰めるような空気で。言葉ではない手の平に、ルークはドキドキと頬を染めおそるおそる見上げる。

「今は苦しい時期かもしれないが、頑張りなさい。見ている人間は見ているものだ」
「は……はい!」

 ぱあっと明るく、光が灯ったようにルークは体いっぱいで返事をした。相変わらずルークを子供にさせる塊だ、羨ましいような年齢を考えると酷なような複雑さ。それからヴァンは、ティアへと頷き共にジェイドの部屋に入っていく。状況を考えて国との連絡で来訪したのだろう。ルークは口元を嬉しそうに曲げてその背中を見送るが、扉が閉まり見えなくなった途端にまたしょんぼりと電気を消した。

「ほんと、お坊ちゃんは妬けるくらい大好きだなせんせーの事」
「あったりまえだろー!? ヴァン師匠はユーリなんかより100万倍格好良いし渋いし強いしスッゲーんだからな!」
「はいはい、聞いた聞きましたからそれ」

 聞き覚えのあるフレーズは今聞くと細く確かにグサグサと胸に突き刺さる。何故自分の心臓にそんな棘が刺さるのか自分でも理解出来ないが、ユーリは皮肉げに笑って誤魔化した。ルークがヴァンを尊敬眩しく慕っているのは前からじゃないか、今更なのに。
 出待ちでもしそうにそわそわしている手を握り、ユーリは少々強引に連れ出した。確か今日はクレス達と依頼の約束をしていると昨日嬉しそうに言っていたではないか、そろそろ約束の時間になる。

「おら、甲板でクレスとロイドが待ってるんじゃないのか」
「うう、でも師匠が〜……」
「またその内来るだろ。それにお前の大好きなせんせーは約束を破る奴にはいい顔しねーと思うがな」
「確かに……。くそぉ、おいユーリ、スパッと終わらせてくっから師匠が帰りそうになったら引き止めとけよ!」
「なんでオレが。むしろさっさと追い返すね」
「ざけんな馬鹿野郎! 絶対絶対せんせーを見送るんだからなあああっ!」
「あーもー、分かった分かったからさっさと行けっ」

 少々うっとおしくなり、ユーリはドスンと背中を押して甲板のふたりに後を任せる。彼らは元気良く笑顔で、1年分が消えた友人を受け取った。今では記憶喪失という障害も、ほぼ問題無く過ごせている。やはり周囲に告白して後ろめたさを消したのが功を奏し、変わりなく受け入れている周囲もそれを助けていた。
 ユーリはそれを父親のような気分で見送り、広い甲板上でやれやれと溜め息を。元々ヴァンは連絡の為に来訪しただけで、おそらくすぐに帰るだろう。それを引き止めるつもりは自分には無い。意地悪かもしれないが、ルークが一生懸命懐く姿を目に入れるとなんだかデザートが甘くない。自分のスイーツタイムの平穏の為に、穏便にさっさと帰ってもらおう。後でギャンギャン文句を言われる予想は簡単だが、子供の機嫌を直すなんて簡単なので気にする事ではなかった。誰かが聞けば酷い大人だと言われそうだが、唇を閉じてしまえば秘密は簡単に成立するのだ。

 戻るかな、と振り返ればふと視界に映る場所があった。曲線のバンエルティア号で、数少ない影に掛かる縁。以前ここでルークと少し話した記憶がこびり付いている。なんとなく懐かしくなり、そっと指先を添わせ座り込む。耳に触れるさざ波が落ち着き、飛んでいきそうな軽い息を吐く。
 最近の、新たに思い出を増やしてやろうと画策する自分は少し楽しみ過ぎて同時になんて恥ずかしい奴だろうかと今更、考える。今日はあそこに連れて行ってやろうだとか、明日は珍しい場所を見せてやろうだとか。子供のご機嫌を取る父親か、と自分で突っ込みを。けれど喜ぶ顔が降り積もるのも事実で、それは日々ユーリの範囲を占領していく。膨らんだ風船は隙間を見つければそこへするりと入り込み、内側からそこのけそのこけ、最初から置いていた物をぶち壊して我が物顔。
 いい加減、覚えのあるそれにユーリは名前を付けなければいけないのだろうなと諦めかけている。いやしかしまだ、もうちょっとぐらい引き伸ばせるはずだ。何せ相手は此方ほど気にしていない、もっと意識させてからの方が好ましい。

「なんだよ意識させて、……って」

 自分で答えを言ってしまった。その愚かさにユーリは自分で吹き出す。高い空に白い雲が、皮肉屋のポーズを笑っている。目を瞑り気配を落ち着け、心を静かに。整理したものは、とっくに目の前に立っているのだが無理矢理首を曲げていた。それを、いい加減見ても良い頃合いかな。そう誰を諭すでもなく。
 しんと風の音に身を任せていると、耳に入ってきた声があった。人の声は小さく、息を潜めないと聞こえない程。要するに密やかな密談、記憶にある声はふたり。

「アッシュの体調は問題なく回復している」
「そうですか、記憶の方は?」
「やはり、混ざっているな。精神の混乱が激しい」
「そうでしょうね、こちらとしても予想外でした」
「そちらはどうだ?」
「今の所前兆は出ていませんが、数値は依然不安定です」
「適応出来ていないのか……」
「はい、やはりジルディアの影響でしょう」
「……貴公はどうするおつもりか」
「私の責任は私が取りますよ、最期まで」
「厳しい選択だぞ」
「分かっています」

 まるで言葉に刃を仕込んでいるような殺気立つやり取り。これが先ほど優しげに弟子の頭を撫でていた同一人物とは思えない程。そして気になる言葉を幾つか拾い、ユーリは急いで体を船体の上に隠した。音を立てないよう気配を消し、達人の彼らに見つからないように。
 ジェイドは見送らず直ぐ様戻ったのか、甲板に出てきたのはヴァンひとり。彼は気にせず足早に、何か気になる事を国に残してきたと言わんばかりに馬車に乗り行ってしまう。ユーリはルークの代わりにそれを見送り、眉を潜めた。

「アッシュの体調は回復してる……って言ってたか」

 確かルークが国に帰る時、アッシュが体調を崩していると言っていた。もしやそれが最近回復した、という事なのだろうか。となると、ヴァンが説明したアッシュは忙しいという話は嘘という事に? いやアッシュの真面目さならば無理を押し通して仕事に励み、余計に不調を長引かせた、なんて事もあるかもしれない。よくフレンがやっている事だ。記憶喪失になって遠く離れたルークに心配させまいと、嘘を言ったのだろうか。
 しかしその後の会話は意味がよく分からなかった。精神の混乱、不安定、ジルディアの影響……? あまり良くない流れだけは感じる。ルークに関しての事ならば黙っていられないが、あれだけでは判断が付かない。ジェイドの覚悟を決めた冷たい言葉が引っ掛かりをより強くしている。

 尋ねたとしても答えないだろう。ならば自分は、災厄が降って来たその時に備えるだけ。また積み重ねた記憶をすっ飛ばされては困るのだから、今度こそ近くに居て助けるつもりだ。やはり自分は、あのお坊ちゃんの我儘な声を聞いているのが楽しいらしい。


 ルークが依頼から戻れば、当然帰っているヴァンの件で派手に怒り出した。しかしユーリはそんな抗議を聞く気は無いので、はいはいと適当に返事する。そのいい加減さがより油を注いだらしい、思いっきり大声でユーリの馬鹿野郎だいきらいだ! と拗ねて部屋に駆け込んだ。子供の癇癪をエントランス中に響かせ、悪い大人だと辱める視線の束。なかなか効果があったのは、視線の棘かそれとも3文字の矢かどちらだろう。
 予想以上の怒りに溜め息を吐き、ご機嫌を直す為の作戦を鬱々ながら考える事にしたユーリだった。

 その夜。ユーリは個室部屋でベッドに寝転びぼんやり考え事をしていた。結局ルークの機嫌は直らなくて、夕食中もずっとぶつくさ言い続け安物の豚肉、脂身部分ばかりを人の皿に乗せてくる。自分から隣の席に座ってきたくせに、ずっとそっぽを向いたまま。その内首が痛くなりそうだな、とぼそり呟けばビクッと肩が反応し、ほんのちょっとだけ角度を緩めていた。この調子なら明日の食事で好物を作ってやれば完全に鎮まりそうだ、ちょろい。
 どんなメニューを作ろうか頭の中でレシピを描いていると、突然ノックも無しに扉が開いた。体は起こさず視線をちらりとやれば、そこにはムスッとした頬を隠しもせず朱金が拳を握り締めて立っているではないか。瞳を広げて驚き、上半身だけ起こす。相手は此方の返事なんて待たず、のしのし入って来てどすりとベッドに勝手に座った。端に沈む重みが、自分の手の平を傾ける。それにどきりとしてユーリは背中に冷や汗をかいた。
 まさか、自分から謝りに来たとか? 絶対無い、そんな事天地がひっくり返ろうが有り得無い。ではなぜわざわざ部屋まで来たのか。ユーリがこの個室を利用しているのは昨日からで、そんな事を宣伝に回った覚えも無いのでもし自分を訪ねるならばガルバンゾ部屋に行くだろう。そこで部屋を移っていると聞き、ここまで来た。そんな面倒をルークがするのか。ユーリはその面倒の中身を聞きたくて、相手からの出方を待った。
 思ったよりも早く口が開いたのは良いのだが、まず最初の一言が文句から、というのが相変わらずだ。

「お前、なんで個室取ってんだよずりーぞ!」
「いやオレ以外はもうすぐ帰る予定だからな、今あの部屋荷物整理でそこらじゅうひっくり返ってオレの寝る場所占領されてんだよ」
「……お前、帰らないのか」
「ああ」
「なんでだ?」
「なんでだと思う?」

 質問を質問で返す、悪い大人の見本だ。けれどユーリは問いたくて、シーツの上の手を掴む。びくりと驚く翡翠色が揺れ、重なったふたり分の手と紫黒の瞳を行ったり来たり。ルークはあう、とゆるく口が開いてそれからきゅっとへの字口に閉じる。思ったより強い力で手を振り払われ、表情を見せまいと背中をユーリに向けた。しかしちらりと見える耳たぶの端っこが、髪色にも負けない色合いになっている。ユーリは微笑んで黙っておいてやった。

「そんで、一体どうしたんだよこんな夜中に。あんまりウロチョロしてると保護者が探しに来るぜ」
「んー……なんかよ、ティアが落ち込んでんだよな。湿っぽいしひとりになりたそうだったから俺が出て来た」
「ティアが? 何かあったのか」
「知らねーよこっちが聞きたいっつーの。あいつ、俺が聞いても言わねーし。頑固だから」
「落ち込んでる女ひとり放ってくるなよな、お坊ちゃん」
「俺が一緒に居るとあいつ弱音吐かないから……余計しんどいのかなって、思ってよ」
「んー……まぁ、ルークには読めないなそりゃ」

 ティアは年若くも己を律し、強く毅然であろうとしている。時折我慢出来ずに漏れている部分も見えるが、特にルークの前では崩さぬように心がけているようだ。そういえばアドリビトムに戻って来てからは、特にピリピリと緊張の糸を途切れないように気を張っている場面が多い。ユーリはそれを、以前は相続争いのゴタゴタから続いているものだと思っていた。しかし今はどういう理由なのだろうか。昼間ヴァンが来た件に関係しているのかもしれない。
 情のある男女ならば慰めるだろうけれど、ルークはティアの芯を尊重して自ら退室したようだ。お互い微妙な年頃であるし、普段から男女というより姉弟のような関係で接しているならばしょうがないかもしれない。いや、ティアは年下だが。
 そして驚くべき事にルークから部屋を出て、頼ってきた先が自分。その事実にユーリの胸はまた勝手に騒ぎ出す。ルークが落ち込んでいる時に浮かれるな、と咳をひと払いして明るく軽めに答えてやるが、反応はやはりイマイチだ。

「やっぱ、記憶失くしちまったせいなのかな。何か大事な事忘れちまったとか」
「日記には何も書いて無かったのか?」
「ああ、特に重要そうな約束とかは何も」
「でも日記に残るからこそ書かない事ってのも、あるんじゃないのかよ」
「俺の日記は記憶喪失の保険って意味で書いてたからさ、大事な事なら特に書くはずなんだよな」
「そうか……。まあ、ルークが悩んでもしょうがないだろ。一緒に引き摺られて暗くなっちまっても何も良い事ないぜ」
「そりゃそうなんだけど……」

 軽く慰めても返ってくるのは重い溜め息。望んでいるのは無責任な慰めなのだろうけれど、ユーリはそれくらいならば口を噤む。手を引いて、ルークの体をベッドに引き倒した。瞼が端まで上がって無防備な額を、べちんと叩いて笑う。

「いてっ、何しやがんだ!」
「そりゃあの1年は濃かったけど、今でも十分濃い毎日だろ? すぐ追いつくし追い越すさ。重く考えんなよ、オレも付き合ってやるんだからよ」
「えらっそー! なんだよそれで慰めてるつもりか、似合わねー」
「これで慰められてるんだから、丁度良いだろ?」
「ふん、調子乗りやがって。……でも、サンキュ」

 目を見開いた後すぐに照れて、さっと逸らす忙しい姿。枕をひとりで占領し、毛布をぐいっと引き寄せて背を見せる。他人のベッドで随分と我儘放題な態度だが、それもルークらしい。それに隠しきれていない頬の色が、どうしてもユーリの口元を緩ませてしまう。
 もうお前となんか話してやらないと主張するように無言と、ぎゅっと閉じた瞼。まだ少し早いがその意地にユーリは付き合ってやる事にする。立ち上がって部屋の電気を消し、ベッドランプを弱く灯す。ひとり用ベッドに男ふたりとは、中々に窮屈な上に王子様は半分こだなんてつもりは更々ないらしい。どすんとぶつかりながらベッドへ寝そべり、毛布を強引に半分奪う。ぐぬぬ、と気張った声が聞こえてくるのを笑い、ユーリは頭を枕に沈めた。

 記憶が無くなったとルークは言うが、以前と今を比べてもユーリにはそこまで違いは見受けられなかった。本人が言う程変わっていない、今も前も十分我儘で他人を振り回し、惹き付けている。面倒な範囲を選んで飛び越えたい、その先にあるものが欲しいから。まだ遠い、丘の先の先の話だがそれでも。
 薄ぼんやりとした明かりの中、振り返れば見える背中。すっかり眠ってしまったのか、呼吸の上下に肩がゆっくり動いている。暖灯色の明かりに朱金がカーテンとなって流れている影は、ユーリの鐘を大きく鳴らした。誘惑に駆られそっと、そっと朱糸に触れれば艷やか。焔の色なのにさらりと冷たい感触、不思議に感じて髪束を手に取り梳く。ふんわり香るのは体臭か香油か。ユーリは時間を忘れ、思うがまま手櫛に通る感触を楽しんだ。本人が起きていては絶対に怒り出しそうなので、今の内に。

 満足するまで楽しみ、重い瞼がいい時間を知らせる。そろそろ寝るかな、と手を止めて見れば指の間に抜けた朱金の糸が絡まっていた。見た目以上に触れれば柔らかい髪質、指を広げればつるりと落ちて見失いそうになる。ゆっくり持ち上げようとして腕を上げたその時……その髪の毛は音も無く空気に融けて消えてしまった。きらきらと光り、空気に混ざり合っていく。光の粒はあっという間に拡散していきもう見えない。
 ユーリはぱちくりと瞬きを数回。ベッドランプの頼りない明かりのせいで、見間違えたとか? いいや今確かに、ルークの髪の毛が消えた。その瞬間、不意に記憶が脳裏を過ぎる。以前にルークと依頼に出た時、戦闘で魔物の牙がルークの髪の毛を掠め切り裂かれたのだ。その時妙にきらきらと輝き、視線を奪われたのを覚えている。結構派手に髪が切られたと思ったのだが、地面には朱金の束はどこにも落ちていなかった。
 真剣に考えてみると変だ、消えた髪の毛と、輝く空気。だがある意味で、以前のルークとの共通点でもある。その確かさがこんな所で見つかるとは思わなかった。やはり中身も外も、ルークは変わったりしていない。本人は持ち前の順応性で不安も薄れてるようだし、後は隙間を埋めるように思い出を増やしてやればいいだけだ。

 落ち込んでいたり大人しいルークではどこか物足りない。ユーリはまた以前の様に喧嘩をふっかけてくるくらい生意気になってもらおう、そう決意を固めて背中を合わせ瞼を閉じた。じんわり伝染する熱は優しくあたたかい。この温度を知ってしまっては、離れがたくなって当然じゃないかとくすり笑った。






  


inserted by FC2 system