anti, World denied








その世界を否定する
1

 太陽は沈み、今上空を泳いでいるのは月。地上で足掻く人間の全てを高みから見下ろし、世界樹を差し置いてまるで神のように浮かんでいる。それをユーリは睨み付けた。頂点から下々を見下ろす運命とやら、それにどれだけ翻弄されているのかも知らず優雅なものだと。自分勝手な感想でも棘が出てしまう。焦れる心が追い立てられた時間を特に逸らせた。
 バンエルティア号甲板、ジェイドとアッシュ、リタとユーリはそこへ集まり、中心でハロルドとニアタが機械を操作している様子を慎重な面持ちで見つめている。大きな装置はカイル達をルミナシアへと招いた機械。ガイが手伝いで周囲を忙しなく走り回り、資料や工具を手渡して進めていた。
 その間誰も何も話さない。カチャカチャと金属音が夜に響き、冷たい風と共に走り抜ける。隙間を通る共通の不安、現実にならないよう皆言葉にしない。救世主であるディセンダーの言葉に賭けて、必死で祈っていた。

「これで良し。ではアッシュ、凝縮を始めてくれるかね」
「ああ、分かった。この機械に集めればいいんだな?」
「そうね、思いっきりやってちょうだい」

 ニアタとハロルドに促され、アッシュは機械の前で空気中のエネルギーを集め始める。背中から見れば確かに、空気の淀みがどんどん彼の周囲に集まっていくのが見えた。唱術を使えないユーリからでも肌で感じ、その強さはローレライの剣の脅威をまざまざと見せつけている。隣のリタは息を詰め、濃くなるマナに驚きを隠しつつ耐えていた。
 闇色の舞台のせいか、新生ルミナシアのマナ達はよりはっきりと色を乗せて空を踊っている。聞こえるはずのない声まで聞こえてきそうで、まるで坩堝のようだった。神官ならば神聖だと讃え喜ぶのだろうが、ユーリの胸中にそんなものは湧かない。ただ早くと、そう思ってしまう。

「……うむ、これだけのエネルギーが集まれば大丈夫だろう」
「そっちの連絡は行ってるのよね?」
「ああ。あちら側の我々を通じてある程度の事情も説明している、始めてくれ」

 それを受けてハロルドはタンッ、と光るスイッチを押し、変化が生まれたのはすぐ。踊るマナ達の会場中心を縦に、一本の真白い線が引かれる。稲光が走ったかと思えば風は不自然に止み、周囲の音すら停止した。パチリ、と静電気が弾ける音が耳に触れる。刹那、線が節のように膨らみバチバチと雷鳴を轟かせた。周囲のマナを吸い取りながらその節は太くなり、甲板の機械を目印にしながら降りてくる。
 ゆっくり、ゆっくりと。降りるごとに光は人の形を模し、明確に輪郭を浮かび上がらせた。トン、と爪先の軽い音、それがふたつ分。発光が強すぎて直視出来ないが、ユーリは手で影を作りながら必死で来訪者達を見た。その輪郭はどこかで見た事のある、焦がれた形。闇色には塗り潰されない強い朱色が、全員の視線を集めた。

「よっ、……と。ここがルミナシア、なんだっけ? もしかしてこれバンエルティア号か?」
「ニアタが散々言っていただろうが、いちいち聞くな屑が」

 完全に、聞いた事のある声。低音はともかく、高音の方を耳に入れた瞬間胸を締め付けられる。時を重ねて声変わりを過ぎれば、こんな音になりそうだと思わせる説得力が。いやそんなもの、当然なのだ。ディセンダーの言葉が本当ならば、比べる必要も無い程の事実。収まってきた光に瞳を瞬き、ユーリはようやく顔を上げて彼らを見た。

 朱色の頭髪は短く肩までに収まり、透けた毛先は見えない。すらりと伸びた健康的な手足は程よく筋肉が付き、剣士であろう逞しさ。開いた瞳は確かに同じ緑碧だが、決して同じだという印象は与えない。彼を取り巻く空気は穏やかで、けれどどこか力強さを纏っている。不思議なものだが、こんなにも相違点があるのに、全体を見れば彼は確かに……彼、だった。
 その後ろを守るように、眉を跳ね上げて怒っている人物。彼は驚くべき事に服装さえも同じであり、あからさまだ。短髪の彼だけではもしかして人違いなのではと言ってしまいそうな誤解を、ふたり共に居る事で訂正していた。
 短髪の彼は周囲の空気を読まず、いやわざと破ったのかもしれない、柔らかな笑顔で驚きと好奇心を声に上げる。

「おっ、マジでジェイドだ! すごいな本当にそっくりだぞ、なぁアッシュ!」
「聞いた通りだろうが、いちいちガキみたいに喜ぶな」
「あっ、アッシュも居るじゃん! うっわーアッシュだ、この眉間の皺な!」

 可哀想にアッシュは固まっており、反応を返す事が出来ない。それも当然だろう、自分と同じ顔と体、形の人間が目の前に。それだけでなく、夢見た双子の片割れがそこに。ぐりぐりと眉間の皺を指先で伸ばされ揺らされている。普段のアッシュならば怒りだす場面だが、それすらも出来なかった。
 その動揺を、ユーリはよく分かる。何しろ短髪の彼は間違えようもなく、明確に、本当に、17歳のルークそのものだったから。短髪にすらりと伸びた身長、青年を迎え始めて精悍な面立ちの片鱗が将来の期待を裏切らない。少しゆったり目の服も、彼が着る事によって優雅なように見える。子供のルークとはどこもかしこも反対で、本当に成長するだけこんな雰囲気を纏うようになるのか疑問を抱いてしまう。隣のアッシュは鏡に写したかのようにそっくり同じで、入れ替わっても誰も分からないかもしれない。
 あの笑顔の端にほんの少しだけ、欠片の影を感じてどきりとする。あれ程望んでいた未来の完成形がここにあり、動揺しない人間は居ない。ジェイドもようやく硬直から帰ってきて、動揺を隠した声で話しかけた。

「……貴方は、本当にルーク・フォン・ファブレで、……間違いありませんね?」
「ああ、グラニデのルーク・フォン・ファブレだよ間違いないって。それで俺はどうすればいいんだ? 一応ニアタから話は聞いたけど、急だったから詳しくはこっちで聞いてくれって言われてさ」
「はい、貴方にしていただきたい事があります。ですがその前に、ドクメント計測だけさせてください。本当にルークと同じで、違うのかどうか」
「ああ、いいぜ」

 リタが戸惑いながらも、両手を掲げてルークのドクメントを展開させた。夜に浮かび上がる光の輪は美しく眩い。ジェイドはそれをよく観察し、こくりと頷いてリタに合図する。やはり違いはほぼ無く、外見要因くらいしか違いは出てこない、と。直前で時間停止したルークからドクメントを計測出来ていた事がこんな時に役立ち、どこか皮肉だ。だからこそ、ジェイドは確信に至った。

「成る程これならば……試してみる価値はありそうです」

 ローレライの宝珠に触れられる者は、誰も居ない。ただ唯一のイオン導師は天の上。ルークとアッシュは触れたとしても、それは体外に露出した時のみ。その時でもアッシュは片割れである剣が反応して、吸収してしまう。
 その全てを解決するのが、もうひとりのルーク・フォン・ファブレ。ニアタの知識と、オリジナルカノンノに出会う道のりで数多くの発芽した世界があると知った上で、生命の場へ潜りルークの情報を閲覧したディセンダーからの言葉。
 ルミナシアと近い種子、グラニデに生きるルークを呼び寄せる。彼ならば条件を満たし、かつ吸収する事も無いだろう。別世界、別次元のルークと言われても一瞬理解出来なかったが、考えればカイル達は別世界から来て、ニアタの本体も別世界なのだ。元々ニアタはグラニデからエネルギー半永久機関の設計図をルミナシアに持ち込もうと考えていたらしい。時空間を移動するエネルギーだけが問題だったのだが、それをローレライの剣にて解決したのだ。
 ユーリの目の前には、青年ともいえる大きさのルークが。喜んでいいのやら悲しんでいいのやら、少し混乱してしまう。だが、彼がルークを救ってくれるのならば。

「けど……ライマ直系しか触れないんじゃなかったの?」
「それはあくまでも秘預言から検証された言い伝えですので、確実とは言えません。そもそもイオン導師はライマ直系ではありませんし」
「それなのだがね、我々は多数の世界に分身を置いているので分かるのだが……。ルミナシアの親世界の情報を濃く継いでいるのではないだろうか」
「親世界……?」
「世界樹は種子を生み、新たな世界を作り出す。その情報は脈々と受け継がれていくのだよ、カノンノのように、ルークのようにね。その元となった世界で、ローレライという存在がルーク達と強く関係していたのだろう」
「まるで人間ね」

 人間、そうハロルドの言葉が妙にしっくりときた。次世代を残す世界樹、体内の不調によりディセンダーを遣わし治療する。まさに人間そのものだ。ヒトの上で自分達は戦争したり生きたり足掻いたり、忙しないものだと今更ながらユーリは苦笑する。これ程状況が切迫していなければもっと聞いていたい話だが、医務室で待たせているルークが居るのだ。

「話は終わりだ、とにかく医務室に来てくれるか……ルーク」
「ああ、それじゃそこで詳しく聞くよ」

 足取りすら堂々として狼狽えない、清く正しく王家の生まれを感じさせるルークは奇妙な感覚をもたらしてしょうがない。正体の分かっているむず痒さを今は無理矢理抑えつけてユーリは先導し船内に入る。後ろから響く靴音は、今まで聞いた事もない重さで響いていた。


 ざわざわと不安なざわめきは、ルークの姿を目にした途端静まり返る。子供が突然青年に成長したと思わせる時の跳躍を驚愕の面持ちで、そして続くアッシュが全く同じ顔と風貌で、ふたり続いている事にも驚きを見せた。誰の説明も無いまま皆医務室に入る。詳しい事は全て後だ、それを皆分かっていた。そして扉の前でディセンダーが、今までの軌跡の道のりを歩いてきたあの優しい笑顔で、にこりと。がんばって、声には出さずユーリに声援を贈る。
 頑張るのはルークだ、他の誰でも無いルークなのだ。ルミナシアでも、グラニデでも。けれど自分の気持ちだって燃え盛っている、奇跡を呼べるなら何でもしたい。例えそれが望まれない最悪の手段でも。

「確かに、子供の頃の俺だなぁ」
「……この、浮いている珠が宝珠、か」
「はい。本来でしたら時間停止すら拡散してしまうのですが、体外に出た瞬間に発動したのでギリギリ、生死の境を一歩出た所でしょうかね」
「出ちゃったら死んでるって言うんじゃ」
「ですから、これを貴方に押し返していただきたいのです。宝珠の治癒能力により強制的に蘇生させ、生き返らせます」
「毒を飲んだと聞いたぞ、それでも蘇生出来るのか」
「やってみなければ分からないので、こうやってわざわざ来ていただきました」
「チッ、俺のクセに自分の弟すら守れねぇのか、この屑が」
「……うるせぇよ」

 グラニデからのルークは簡単な説明を聞き、状況を察して聞き返す事無く頷く。しかし隣のアッシュは顔を顰め、同じ顔をした相手に説教する。だがむしろルークの顔の方が歪み、コホンと咳を払った。

「それじゃ始めるぞ。この宝珠を……押し込めばいいんだな」
「ええ、ですがあまり長く触れてはいけませんよ。貴方はルークと違っていますが同じなのですから、逆に貴方の中に入り込んでしまう可能性もあります」
「分かった。ささっとやればいいんだろ、任せとけ」

 心強いグラニデルークの言葉に、それを聞いた特にライマの人間はこんな時だというのに苦笑を薄っすら。ルミナシアのルークは見た目に引き摺られ、本人の意思にも関わらずどうしても子供として扱ってしまう所があった。本人も自分の特殊な姿を利用していたので余計に。頼りになりそうな毅然としたルークの、青年の姿を見てガイは思わずぽつりと零してしまう。

「うちの王子様も将来はこんな風になるのかねぇ」
「さぁな。オレは……オレのご主人様が還って来てくれるならなんでもいい」
「……ああ、まったくだ」

 しみじみと重い言葉は呟く軽さを裏切っている。それは切望、そして熱望。突き落とされた先に現れたのは蜘蛛の糸か、それとも終幕の紐か。緊張に鳴る心臓はドクドクと、今にも張り裂けそうに活動している。自分の守るべき主人の鼓動は止まってしまったのに、皮肉なものだ。

 ジェイドがミントの肩を叩き、止めてくださいと合図を。酷い量の汗を流す顔を上げ、グラニデルークの姿を映したミントは儚げに微笑み詠唱を止めた。同時にフッ、と意識を手放し体をふらりと倒れるが、ウィルがその背中を支える。
 この場で1番、誰よりもルークを助けたのはミントだ。彼女がずっと時間停止を唱え続け、命の紐を手放さず持ちこたえてくれた。本当に感謝しかない。傍に居るよりも隣に居るよりも、余程ルークを救った恩人になる。ついしてしまいそうになる、主人のネガティブさが移ったような思考にユーリは緊張と共に息を吐く。
 それからグラニデルークはすたすたとベッドの傍に立ち、開放されて浮き上がってくる宝珠を淀みない動作で触れ、直ぐ様グッと押し込んだ。少し余所見をしていたら見逃してしまいそうな程の素早い動作と、言ってはなんだが大雑把な行動。確かに押し込んでくれ、とは言ったが先に声掛けしてくれてもいいと思うのだが。ある意味これも唯我独尊的な、ルークに通じるものがあるとはいえユーリは思わず注意する。

「おい乱暴にするなよ?」
「大丈夫だって。こいつの言ってる事、俺なんか分かる気がする」

 不意に不思議な事をルークは言った。だがその腕は止めておらず、宝珠はキラキラと輝きながら、手の平に押されてゆっくりとルークの体内に入っていく。まるで陽が沈むように。

「こいつも、戻りたいって言ってる。ルークの命になりたいって。こいつはさ、ローレライの宝珠だとか鍵だとかそんなんじゃなくって、もうルークの命なんだ。だからほら」
「……あ」

 グラニデルークの言葉通り、押し込む手を離しても……宝珠は自ら進み、子供の体内に入っていく。白い光は沈みながら消えて、心臓に還って行った。
 その途端、自らの血で汚れた服の下、ルークの肌が生命の息吹に湧き立つ。青白い程だった頬はほんのり赤みが差し、柔らかそうな張りを取り戻していく。土が水を吸うような、生気がゆっくりとじわじわ、光が伝達しながら心臓へ伝わり裸足の爪先まで。

「これでもう、大丈夫だと思う」
「……ありがとうございます、本当に」
「すぐに解毒に取り掛かりましょ。薬草類は効くんでしょ? 体内ガスの吸引機も用意しないと」
「内蔵の爛れた部分は細胞の修復を待つしかないと思うから……フィリア、ウィル、ちょっとキツイくらいの殺菌作用の薬をお願いっ」
「はい、すぐに出来上がると思います」
「体力回復の薬も用意した方が良いだろう、科学部屋で作って来る」

 ハロルドがテキパキと血液採取をし、フィリアとウィルは薬を作りに医務室を出て行く。リタは脈を注意深く聞き、嬉しそうな顔でユーリ達へと頷いた。
 それを受けて周囲はホッと、安堵の声が一斉に漏れる。ユーリはおそるおそる近付き、ルークの胸元へ手を置く。ゆっくりと上下して、小さくても健気にとくとくと鼓動が跳ね返している。薄っすら開いた口元からは、呼吸に合わせて赤い舌が見え隠れしていた。その反応がどれだけ嬉しいか、言葉に出来ない。良かった、だなんて簡単に文字に出来ない喜びが全身を駆け巡って、今度もやはり叫びたくなる。アッシュとガイも続いてルークの鼓動を聞き、泣き喜びに顔を崩す。歓喜が医務室全体を包み、暖かな空気。控えていたアニーとナナリーも手を打って、皆さんに伝えてきます! と廊下へ出て行った。
 これでエステルやフレン、クレスとロイドも安心するだろう。別荘で血塗れの、事切れて時間停止に包まれたルークを見た時の皆の驚きようは酷いものだった。あの時は必死であまり気にしていられなかったが、今ぼんやりと思い出せば……ゼロスやレイヴンが特に動揺していたような気がする。他人の生き死になんてそこまで大袈裟に驚かないんじゃないかと、勝手な想像をしていた。しかし同じアドリビトムの仲間であるルークの血に、あれ程表の顔を崩したという事実に、ユーリは短いながらも時間という絆を確かに感じ取る。
 ライマの人間と重ねてきたものが違うの当然じゃないか。自分に特別知識や、晶術が使える訳でも無い事だって生きてきて嫌という程知っている。危機に何も出来なかったからといって自信喪失してしまうなんて早計過ぎた。少し口惜しい、そのくらいで胸に秘めておけばいい。ユーリはそう自分の中で区切りを付ける。
 後は……ルークが目覚めて、あの声で我儘な命令をしてくれればそれだけでいい。ユーリは壁を背に、エキスパート達の邪魔にならないよう治療をじっと見つめ続けた。


 ルークの体内に宝珠が戻り、数時間経った頃だろうか。アドリビトムが有する、現段階で最高の治療は驚くべきスピードでルークに施された。心音は正常に刻み、肌は既に生気が見える。体内に含まれる毒素は未だ残るが、宝珠の治癒によりそれも次第に消えていくらしい。体力回復として点滴を通し、ルークはまるで眠っているようだった。だが、その眠ったままの状態が問題だと、リタとハロルドの顔は同時に曇っていく。

「……目覚めないわね」
「電気信号は十分に覚醒値なんだけどねー、これちょっとやばいかも」
「なんだ、どういう事だよ」
「ルークが目覚めません」
「毒を飲んで一度死にかけたんだ、すぐに目覚めはしないだろ」
「んー、まあ普通はね。でも脳波は覚醒してる状態なのよ」
「なのに起きないの。ずっと眠ってる……」

 ルークの頭や皮膚に取り付けられた管は機械に繋がり、ハロルドの手元にある用紙に絶え間なく線を引き続けていた。リタもジェイドもそれを覗きこんで、暗い顔をますますどんよりとさせている。ユーリにはそれが何か分からないが、瞳を閉じているルークの状態を表している機械であるのは何となく察しが付く。規則的に波線が続く用紙はどんどん流されて床に重なっていた。
 ガイとグラニデルークはその機械が分かるのか、近付いて見ればやはり同じように表情を歪ませる。不安な空気は連鎖して、医務室の空気を途端に悪くした。
 ユーリはそれを、聞きたくない気がする。絶望から引き上げられたのに、天辺から突き落とされた行き着く先を想像すらしたくない。だがハロルド達の会話はどれも不安しか煽らず、提案と否定を繰り返す様がつい先程までをリピートしていた。

「ショック状態から呼吸停止した時、脳のどこかを破損してる可能性があるんじゃない?」
「それも治癒が終われば起きるはずでしょ」
「待ってください、こちらの結果が出ました。……脳の損傷は無いようですね」
「電気ショックを試してみますか?」
「もう心臓は動いているのだろう、覚醒を促す為に刺激する程度の方が良いのでは」
「あまり強くやらないでください。今体内の宝珠は毒の治癒にエネルギーを消費していますので、下手すると先にルークの体力が尽きてまた死にますよ」
「空気中のマナにも反発してるんでしょ? 結界を張った方が良いかも……」

 ざわめきだす旗色は今度こそ悪化の一途を辿っており、次第に声は落ち着いていく。そして、もう二度と聞きたくないはずの結論がこの場で、もう一度降り下ろされた。嫌になる程冷静で冷酷なジェイドの声が、幕引きに代わって響き渡る。

「もしかしたらこのまま、目を覚まさないかもしれませんね」
「……それは今に限りか? 数日眠れば起きてくるんじゃないのか」
「起きるかもしれませんし、起きないかもしれません」
「おい、ふざけるな! 宝珠は戻ったんだろうがっ」
「内臓の状態はともかく数値としては問題無し。意識だけなら今すぐ起きてもいいはずなの」
「体力が戻ってないだけって可能性はないのかよ」
「フィリア特製の点滴よ、常人じゃちょっと強すぎるくらいのね。消費してる分はこれでまかなえてるはずなんだけど……」

 リタは言い難そうに顔を歪め、見上げる瞳は困惑と不安に濡れている。原因の分からない、はっきりしない、不明な。自分でも苛ついているのだろう、悔しそうに爪を噛んでいる。ユーリは瞳を閉じて返事をしないルークの体を思わず揺さぶった。何も反応しない。何時もの朝ならば眠そうに瞬き、もうちょっとだけ、と甘えた声を出すのに。
 心臓は動いている、呼吸もしている、肌は赤みが戻って瑞々しい。ここまで揃っておきながら、どうしてルークは還ってこないんだ。意地悪に閉じた瞼に触れても、やわらかな頬を摘んでも、痛いともこそばゆいとも言い返さない。生きているのに、死んでいないだろう。どうしてだ、何故。
 責めるような視線を上げても、誰も答えてくれない。そんなものは当然だ、彼らの方が戸惑っているのに。グラニデルークが、ルークと同じ声で唸る。考え込むポーズは本当にルークそっくりで嫌になった。目の前に幻の奇跡が存在しているのに、それはユーリが望むルークでは無いなんて。どうしてだ、ついさっきまで皆喜んでいたじゃないか。どうして今、あの時よりも重く決定的な絶望が肩に伸し掛かる。
 どんな形でも生きてくれれば、確かにそう望んだのは自分。確かに間違いない。けれど、何もこんな嘲笑うように翻弄しなくても! ぷつりと、やはり切れてしまった蜘蛛の糸。無残に散らばる白い線が、ユーリに唾を吐いていた。

 そんな中、今まで静かに口を閉じていたグラニデのアッシュが、ぽつりと言った。

「生きる事を、拒否しているんじゃないのか」
「……何?」
「ローレライの何たらとやら……聞いたが、要するにこいつは自分の命でもある宝珠をくれてやるつもりで毒を飲んだのだろう。なら生き返る訳にいかないと、無意識に考えてるんじゃないのか」
「……ありえそうですね。ルークは前々からその意識が強かった」
「馬鹿な! せっかくここまで来て!」

 精神が肉体を支配している。戦闘を好み渡るユーリには覚えがある感覚だった。戦闘中興奮し過ぎて、痛みを感じなくなるのだ。それだけではない、やたら視界が広がり周囲の行動も良く見えるようになるし、剣を振り下ろす力もより強くなる。自身を盾にしたあの時と同じだ。強い精神力が身体を無理矢理黙らせているのだ。
 兄上! 叫んで縋り付くアッシュの声が悲壮に聞こえる。だが想い人の瞼はピクリとも動かない。呼吸によりゆっくり胸元は動いているのに、硬く閉ざされた翡翠色は決して開かなかった。

 しん……と広がる沈黙。誰かの息を呑む音。穏やかに小さな呼吸。シーツの白さが目に痛くやけにチラついて、思考が纏まらない。横たわる体はベッドの半分程しか占領せず、何時も背中を丸めて眠るのに今は不似合いな程しゃんと背筋を伸ばしている。足裏を見れば払い残した砂粒が付いて、唐突に今朝の事を思い出す。
 楽しみにしていたのだ、海や、スイカ割りだとか、皆で集まって眠ったり、だとか。楽しみにし過ぎて昨夜遅くまで眠れず、殊更起きるのが辛そうだった。目を擦る手を止めさせて、着替えて髪を梳かし顔を洗って、朝食を食べて……。アンジュにいってらっしゃいと、ガイに見送られて船を出た。バンエルティア号で付近まで来たので後は歩きだ。めんどい、と不満で唇を尖らせていたが道中クレスとロイドが話し相手になってくれて楽しそうだった。むしろお喋りに張り切りすぎて途中疲れてしまい、結局ユーリが肩車してやる事に。しょうがねぇな、と呆れて言ったのに嬉しそうに、無防備に手を広げてきて。抱き上げてやれば首に手を回し、にっこり笑っていた。
 それからすぐに海が見えてきたので、ロイド達が興奮して走りだしたのだ。それを見て肩の上でジタバタ暴れるものだから、ユーリの服が汚れても張本人は素知らぬ顔。本当にしょうがないな、と嬉しくて笑ってしまったのは、確かに今日の事だったはず。

 一言も、色も、思い出も、何も還さないルークに瞬間、カッと怒りが湧きベッドを思い切り叩く。自分をここまで引き入れておいて、髪まで切って家来になったというのに。今までの覚悟も決意も感情も心も時間も何もかも、捨てられてしまった。冗談じゃない、あれだけ好き勝手荒らして、我儘放題の王様を満喫しておいて。心を踏み荒らして足型をペタペタ染み付かせておいて! 肝心の主がまっ先に逝ってしまうなんて、例え運命でも本人の望みでも、許せやしない。
 ユーリはルークの動かない小さな手を握り、耳元で叫ぶ。想いの丈を詰めても還って来ない、そんな事は知っていても理解はしたくなかった。奇跡に縋って絶望に涙して、フラフラいいように混乱させられるのも真っ平ごめんだった。だがそれもルークの事だから、だから構わないと思っていたんだ!

「この、馬鹿野郎が! オレを家来にするだけして、後は放置だなんて無責任なんだよ! 還って来てくれルーク、今すぐ帰ってこなけりゃ……家来を辞めるぞ!!」

 ルーク!! 名前を呼んでも扉は開かない。けれどユーリは止めなかった。ひとりで生きてるつもりで、ひとりで死ぬなんて傲慢だ。手を取った縁くらい、大人だろうが子供だろうが責任を持ってくれ。運命を勝手に諦めるな、オレは諦めていない!
 ユーリが知っているのはライマの運命に雁字搦めになっている子供ではなく、我儘で自分勝手で好き勝手で生意気で……でも優しい子供だ。この子供の為ならば人生を捧げてもいいと決意した、だから。

「オレのルークはライマのルークじゃない、オレのルークだ、ライマなんてどうでもいいんだよ! 孵って来い、還って来るんだ! 国だの世界の為じゃない、オレの為にだ!!」

 部屋の空気を震わせる、魂の叫び。誰も彼も口を閉ざし、その慟哭を聞いた。そして……グラニデルークの驚いた声が上がる。

「……あ」

 見間違いかと思った。しかし、朱色の瞼がぴくぴくと、確かに今動く。皆の驚きが漏れ、ユーリは思わず両手でグッと小さな手を握る。力強くて痛いかもしれない、構わずにもっと力も想いも込めた。痛いじゃないか、と文句を言われたくて。
 文句は言われなかったが、閉じた瞳から涙が浮かび、すうっと流れていく。ぽたり、シーツに染みた水分は確かに熱い。ユーリは自分の頬を押し付け、みっともない感情でも汚い心も混ぜこぜに、自分の未来を口にした。

「ルーク、泣いてもいい、苦しかったら言ってくれ。オレはお前の家来なんだ。叱るし、言う事全部は聞かないけどよ……ずっと、ずっと傍に居る。どうしても駄目だった時は……オレが連れて逝ってやるから」
「……っ」
「だから、もっと叫んでくれ。お前の声を」

 口にせず、ひとりで決めてしまうルーク。見つけなければずっと知られようとしない、隠れんぼを続けたまま。でも見つけて欲しいから、見えるように振舞っている。本音は言うくせに本心は言わない。ぐちゃぐちゃで、曖昧で、反発して……でもルークだ。ユーリはそんなルークを見つけて、選んで、手を握った。だからそれ以外は必要無い。運命も希望も未来も過去も絶望だって、欲しくて望んで求めて走ってまで抱きたくない。この腕の中、持てるぶんだけで十分だった。
 ルークの小さな唇がゆっくりと動き、何かの言葉を形取る。ユーリはその動きが、自分の名前だと確信した。






  


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