anti, World denied








4

 ユーリが別荘に戻れば、予想通り髪から雫をぽたぽた垂らしたルークが出迎えた。水の足あとを点々とさせ後ろに慌てたフレンをくっつけている。自分で服を着る事をようやく習慣付けたのは喜ばしいが、それよりも先に髪と体をキチンと拭く事を教えこませれば良かっただろうか。だが普通に考えて濡れたまま着れば服も濡れて気持ち悪いと思うのだが、ルークは気にしないのだから感覚が分からない。
 ユーリはフレンからタオルを受け取り、慣れた手付きでざかざかと髪を拭いてやった。ぐらぐら揺れる頭で目を回し、腹も減ったのかきゅるると可愛らしい音が聞こえてくる。

「う〜、腹減ったっ」
「んじゃ飯食おうぜ。お前はその後昼寝な」
「食った後すぐに寝るとブウサギになるってガイが言ってたんだぞ!」
「いいじゃねーか、お前にピッタリだ。ほれほれ、ブーブー鳴けよ」
「みぎゃ! やめろ馬鹿!」

 ルークを抱き上げてからかっても、フレンはニコニコと笑顔のまま。以前ならばルーク様で遊ぶんじゃない、とすぐに注意が飛んできたのに。まるでふたり揃って見守られているような温度で、ユーリはちょっとばかりくすぐったい。
 ルークは空腹で動きたくないのか、顔で文句は言うが体はべったり預けてくる。先に砂を落とすためシャワーを浴びたかったのだが、この調子ではそんな僅かな時間も許してくれなさそうだ。仕方がないので濡れタオルで適当に拭いて食事を済ませ、それからシャワーに入るかな。先ほど砂浜で囚われた暗雲とは天地の差もある悩みに、ユーリは積極的に頭を占拠された。


 昼食が終わり、ルークは昼寝なんてしないもっと遊ぶ、と張り切って宣言していたのだが……やはり予想通り頭をこっくりこっくり揺らめかせ、手元のトランプ手札をパラパラと見せびらかしている。隣のユーリはそーっと、ゆっくりルークの体を引き寄せて自分の膝にこてんと寝転ばせた。ぼんやりした瞳は眠気と遊びの欲求とで激しい戦いを展開しているらしいが、観客席から見ればどう見ても勝敗は明らかだ。

「一旦寝ちまえ、おやつの時間には起こしてやるから」
「でも〜……」
「今日着いたばかりじゃねーか、まだまだ時間はたっぷりあるんだからよ」
「じかん……は……」
「ルーク、夜には花火をするからさ、その時の為に今はちょっとお休みしよう?」
「そうだぞー、明日はスイカ割りだ!」
「はなびー……、すいか割りー……今日やるんだからな〜……」
「はいはい、全部夜にやろうな」

 クレスとロイドが応戦してくれて、ようやくルークの両瞼は諦めて白旗を上げた。うにゃうにゃと希望と涎を垂らして、静かに眠りに入る。子供の体温は随分と温もっており、かなり前から眠気を我慢していたのだろう。初日からそんな全力を出してしまっては後半疲れるのは分かりきっているのに、ずっと楽しみにしていた分抑制が利いていない様子は微笑ましい程だ。
 ユーリはルークを抱き上げて、ベッドに運ぼうとした。しかし、階の違う場所に寝かせて目覚めた時ひとりにさせるのはしのびない気もする。少しだけ迷い、1階のリビングと続いている隣の部屋を選んだ。クレスは意図を察し、2階から毛布と枕を急いで持ってきてくれる。

「ここなら窓から海も見えるし、リビングからも見えるし。丁度いいだろ」
「うん、窓を開ければ風が吹いて気持ちいいね」
「そうだなー、俺もここでちょっと昼寝しよっかな。コレットはどうする?」
「ルークの寝顔見てたら、私もちょっと眠たくなってきちゃったよ」

 ロイド達はどうやらジーニアスも呼んでお昼寝タイムになるようだ。ルークと一緒に居てくれるのは大変に助かる話で、見た目にもなんだかほのぼのとさせる。今の間にシャワーと、荷物を整理しなければならない。ルークが望むのでガイがあれもこれも、と遊び道具を山ほど詰め込んだので荷物がぐちゃぐちゃになっているのだ。
 ルークの穏やかな寝顔をひと撫でして、今回の旅行を楽しい思い出いっぱいにしてやろうと、ユーリはますます想いを深めた。


 シャワーを浴びて荷物を整理し、ルークの件でリタと暫く話し合う。詳細な身体数値としてはジェイドが既に出来る限りは計測している、その上で宝珠をどうやって取り出すか。エネルギー質を拡散させてしまう宝珠の性質が大きな障害になっている為、手段を模索する日々が続いていた。ドクメント展開を可能にする術式を発見できれば一気に進むのだが、中々上手くはいかないらしい。

「宝珠と剣の資料を見たいんだけど、管理しているのが教団だって言うのよね」
「きっちり握ってるって訳か……」
「預言にしてもローレライにしても、あたし達は知らなさ過ぎるわ。ジェイドの資料は結構深い所まで書いてるけど……原理がすっぽり抜けちゃっけるし」
「原理が?」
「あたし達の魔法はマナのエネルギーを使ってるじゃない、本人の素質以外なら大体そうでしょ。じゃあ預言は? 数百年先を預言する力は何? ただの妄言と改ざんって可能性もあるけど、じゃあローレライの剣と宝珠ってどこから来てるのよ、って話」
「……確かに、何かいきなり、って感じだよな」
「実物を見たいけど、それが出来れば苦労は無いし……。数字でしか見れないってのがもどかしいとは思わなかったわ」

 ローレライの剣と宝珠、それがひとつになる時、永遠の繁栄が約束される。耳心地の良い夢物語を盲信させる程の証拠。一体どうすればそんな風に信じ込めるのだろうか、ユーリには全く理解出来ない。しかしそのお伽話がルークの運命を握っているというのだから、余分に忌々しいと感じてしまうのも当然だろう。
 とにかく取っ掛かりを作るわ、そう言って資料を読み込むリタにユーリは感謝した。

 階下に降りて時間を見れば、思ったよりも消費している。おやつはどうしようかと思い、そーっと覗いて見ればルーク達はまだすやすやと眠っていた。風に吹かれてさらさらと揺れる額、まろい頬の輪郭をそっと撫でて線を引く。願うならばこのまま、穏やかな世界が壊れぬように。
 ユーリはそのまま黙って立ち上がり、夕食の仕込みを手伝いに行った。

 分割されたとはいえそれなりに食べ盛りが揃っている食事の量は半端ない。アーチェやリフィルやフレンには絶対に触らせないように気を付けながら、ミントとしいな、プレセアとユーリで大量の野菜や肉の下処理を続けていた。
 と言ってもバーベキューを予定しているので、そこまでご大層に細かくする訳でもなく。ただ好き嫌い対策の為にいくつか仕掛けをしただけだ。ハンバーグの中にトマトを入れたり、串焼きの材料に混ぜ込んだり。せっせと作っているとあっという間に時間が経ち、小窓から見える空の色がゆるく影掛かってきていた。合間を見ておやつを作ってやろうと思っていたら、そんな余裕が思ったよりも無かった事に驚く。持ってきた材料が少々多すぎたのではないだろうか? と思ったが、先に休暇を済ませた面々からの忠告なのでしょうがない。
 ふと、背中に気配。振り向いて見れば、テーブル上に置かれている材料へ必死に伸ばしている小さな手を発見した。仕込みが終わった分や今から切る予定の野菜達が所狭しと並んでいるのだが、その中央には籠に入ったトウモロコシがあり、手の目的はどうやらそこらしい。
 よく見覚えのある白く細い、小さな手。コソコソ隠れているようだが、長さがどう見ても足りないので天辺の朱毛が全く隠れていなかった、可愛いいやしんぼである。ユーリが笑いながら、ちょん、と手の甲を突付いてやれば驚いてガツンッ! と良い音が。ふぎゃ! と一緒に潰れた声が上がって、気付いたミント達が振り向く。

「何やってんだよ、起きて早速腹減ったのか?」

 額をぶつけたらしい、赤く腫れているのでふーふーと息吹きかけて優しく撫でてやる。ミントが濡らしたタオルを持ってきてくれたので、軽く当てて冷やした。痛みに瞳を潤ませて、ルークは見つかった気まずさにもごもごと、唇を尖らせて言い訳をする。

「ち、違う! 外に鳥が来てるから、なんか餌やろうと思って……」
「鳥? ああ、ウミネコか」

 ここ周辺ではウミネコがよく飛んでいる、鳥なのにミャウミャウと鳴いてるので昼間ルークの興味を引いていた。もうすぐ夕方になって鳥達は休む時間帯だろう、餌を目当てに丁度良いカモを探しているらしい。少しくらいならば鳥の餌を渡してもいいが、ルークをひとりにする訳にはいかない。クレスやロイドはまだ起きてこないのだろうかと考えていると、後ろからしいなが声を掛けた。

「こっちはほとんど終わったし、もういいよ。ルークの相手をしてやりな」
「悪い、それじゃ遠慮なく」

 彼女達の気遣いを遠慮なく受け取り、ユーリはトウモロコシの粒をざくざくと切ってルークの小さな手の平に乗せた。あまり鳥を呼んでは良くないが、ルークの手の平なら少量だ、これくらいならばいいだろう。

「落とすなよ? ゆっくり歩け」

 そう言って背中を押せば、緊張した面持ちでルークは抜き足差し足、手の中の小盛を崩さぬよう歩きだす。小さな歩幅はのろのろと、前も見ないので後ろからユーリがドアを開けたり物を退けたり、体の方向を変えてやったりとまるで運転手のようだ。廊下で通りすがるエステルが微笑みルークに声援を送るが、あまり耳に入っていない。
 数名がくつろぐリビングを突っ切れば、直接砂浜に出られるロッジテラス。その時気付いたがルークの足元が裸足だ、起きてすぐ窓を見てキッチンに突撃したのか。綺麗好きなんだか大雑把なんだか相変わらずよく分からない子供だ。
 テラスへの窓をカラカラと開けてやれば、段差に対し一段と慎重になってゆっくり外に出る。待て靴を履け、と言っても無視されてしまった。集中し過ぎて聞こえていないのだろう。しょうがない奴だな、と呆れていると背後からチェスターが、保護者は大変だねとからからかいの言葉。その通りなのだが、それが楽しいだからギブアンドテイクというかなんというか。
 すっかり塗り替えられた自分の感覚にも苦笑して、ユーリはルークの靴を諦めて外に出た。

 空では夕暮れが始まっており、太陽の円形がゆっくりと海へ溶けていく光景がテラスから大迫力で飛び込んでくる。綺麗だな、と思っていると上空から鳥達の騒がしい鳴き声。ウミネコだけでなく見たことのない鳥も集まっているようだ。ルークが餌を持ってきたと察して、結構な数。近くに林もあるのでそこをねぐらにしている鳥も来ているのかもしれない。
 ルークはわざわざ砂浜に下りて一気に、バッとトウモロコシを放り投げれば鳥達は一斉に降りてきて我先にと啄み始めた。

「うおーすげーおもしれー!」

 自分の動きひとつで下りてくる様を面白がり、ツンツンと食べている鳥を捕まえようと飛びつくが、あれだけ騒がしい気配を振りまいて捕まえられる訳がない。餌はあっという間に食べ尽くされてしまい、鳥達はうっとおしい子供の網から避けるように散り散りに空へと逃げてしまった。
 走っても逃げられて、上空へは手出しも出来ない。ルークは夕日を背にして大声でユーリへと次段をねだる。

「ユーリ、トウモロコシー!」
「贅沢だっての、そこら辺の草でもちぎって投げれば?」
「もー! 家来のくせに働かない!」

 家来とは飼育係だとでも思っているのだろうか、ある意味では合っているが。動かないユーリにルークはぷんすか怒り、バタバタと部屋に戻っていく。あの様子ではキッチンに突撃して新しい餌をおねだりしに行ったのだろう。彼女達ではおそらくルークの可愛い願い事を疑いなく聞いてしまうのが予想出来た。
 砂も落とさず部屋に入ったので、窓の桟付近に細かい砂粒がパラパラと。手箒でサッサと払っていれば、奥の方でルークの声が薄っすら聞こえてくる。一体どれだけの量を持ってくるつもりだろうか、しいなが居るので度は越さないと思うが……。

 今から行っても遅いだろう、ユーリは溜め息のような苦笑をして俯けば、リビング中央のテーブルに置かれている小さな菓子類が目に止まった。一口サイズがひとつずつ包装されて器に盛られている。その横には数種類のフルーツが盛られ、チェスターはそこから取ったのだろうリンゴをしゃくしゃくと齧っていた。
 こういうのを見ると流石王族の別荘だな、と感想を漏らしてユーリも手を伸ばす。今からフルーツは少し面倒なので、菓子でいいやと思いひとつ手に取ればイチゴキャンディだった。普段は別に構わないが、すぐにルークが戻ってくるだろうから今はさっと食べられるチョコかグミの方が良い。ガサゴソと探してみるが、器に入っているのはどうやら全てキャンディだけのようだ。

「これ、チョコとかねーのか」
「チョコは確か……ルークが全部持ってっちまったな」
「なんだそりゃ、あいつそんなにチョコ好きだったっけ?」
「さあ? けどここに戻って来た時、器ひっくり返してチョコだけ探してたから好きなんじゃないのか」
「……器をひっくり返して」

 残念な気持ちからぽつりと呟けば、チェスターから意外な事実を知らされる。ユーリの記憶の中で、そこまでルークは甘い物に執着しない。望めば何時でも誰からでも差し出されるし、チョコだけを選り分ける好き嫌いなんて無かったはず。ユーリはすたすたと、近くのゴミ箱の中身を覗く。するとチョコの包み紙らしきゴミが数点入っていた。拾い上げて見るが、別段変わった所は無い。王家御用達の高級ブランドチョコか何かかと思ったが、印字すら無いどこでにでも買えるような一般の、むしろ小さめなサイズだった。
 戻って来た時、と言っていたがユーリはルークがこのチョコを持っている場面を見ていないので恐らく昼食前、ユーリがひとり砂浜で考え事をして遅れた時だろう。ルークの不自然な行動、ユーリは自分の迂闊さに舌打ちした。
 いや、考え過ぎかもしれない。確かにルークは菓子の中でもキャンディはあまり好きではないのだ、ずっと口の中で舐めるので疲れる、噛むと歯が痛くなると以前に言っていた。だからチョコだけを先に全部取ったのだろう……少々強引だろうか。砂浜で見た足元の光といい、ユーリの違和感を広げていく材料が続いている。平和で安全な背後に迫るタイムリミットが不安を煽っているせいかもしれない、いいやそもそもルークを引き止めているのだから時間制限も無くなったに等しい。
 自分の周囲に降り積もる煤が、またもじりじり熱を持ち始めているような気がする。やはり後で聞いてみよう、そう決意すれば丁度バタバタと、大きな袋を手にしたルークがユーリの横を通ってテラスで出て行った。どうやらおねだりは大成功したらしい、呆れを少々笑いながら後を追う。

「うりゃ、うりゃー!」

 豆撒きのように豪快に、ルークはあちらこちらへと撒いている。今度はトウモロコシではなく麦を渡されたようで、上空で待機していた鳥達は一斉に降りてきた。精一杯腕を振り回すが、所詮子供の力量なので随分と狭い範囲に留まっている。おかげで餌がルークの近くに集中して、鳥に埋もれているように見えた。そして嬉々として、食べるのに夢中になっている鳥をガシッと捕まえ自慢気に見せつけてくる。

「捕まえた! ユーリ見ろよ捕まえたー!」
「ルークに捕まるなんてマヌケな鳥だな、今夜の晩飯にするか?」
「えっ!? た、食べちまうのかっ!?」

 ガーンとショックを受け、ぽろりとルークは手を弱めてしまった。その隙に鳥はバタバタ羽ばたいて逃げてしまうが、またも地面の麦を突付きだして学習が無いというか舐められているというか。ルークはぶるぶる震えて、夕食のメニューという響きに涙目になっている。

「食うのは……か、可哀想じゃねーの……」
「つってもお前好きだろ? チキン」
「好きだけど、好きだけどー!」

 チキンは確かに好物だが、ルークの中では目の前の鳥と食べ物のチキンはイコールにならないのだろう。生き物を絞める場面を見た事がなければそれも当然かもしれない。鳥とチキンに苦悩していると、持っていた袋の底を鳥達のくちばしで突付かれ穴が空き、そこからボロボロと麦がこぼれ始めた。

「あ、こら! お前らー!」

 驚きに袋ごと手を振り上げれば、穴から麦がばら撒かれていきそれに引き寄せられて鳥達もバサバサと群がり喰らい付く。振り回したせいで服にも引っ被り、食欲旺盛な鳥が登り集まって、あっという間にルークは埋もれていった。

「お前すごい事になってんぞ」
「ユーリ助けろおおおっ!」
「袋から手え離しゃいいんだっての」

 傍から見れば脳天気に微笑ましい光景なのだが、啄まれている本人は地味に痛いのだろう。ユーリの言葉にポイッと袋を遠くに投げ捨て、手足をじたばた暴れて麦と鳥を振り落とせば、ルークの息はひぃはぁと途切れていた。

「あうー……こいつら怖い」
「あんまり野生の生き物に餌やんなよ。オレ達は客人なんだからな」

 酷い目にあったのに助けてくれず、注意まで飛ばす家来にルークは頬をぷくーっと膨らませ顔を背ける。それからまだ懲りずに、鳥を捕まえようと追い駆けては逃げられてを繰り返した。

 そろそろ陽も落ちてきて、周囲はゆっくりゆっくりオレンジ色すら覆い尽くされている。少し離れ鳥に遊ばれているルークの姿を見て、ユーリの頬は勝手に微笑む。出発する前は船を降りる安全性にほんの僅か心配していたが、やはり来て良かった。
 ルークは自分の事情を知られるのをあまり好まない。知ってからユーリへの態度が暫くぎこちなかったのを思い出して苦い記憶が蘇る。知っても家来に従事ても、此方側の態度を変化させない事でようやくその角も取れてきていた。それでも出会った頃のような傍若無人さは鳴りを潜めてしまい、なんだか大人しくて物足りない。多分ライマの家での、本当のルークがこちらなのだろう。優しすぎる周囲というのも問題だな、そう気付かず溜め息が。
 ルークの見た目は子供でも、中身は立派な18歳だ。見た目に引き摺られて周囲も、自分でさえも子供という扱いの枠に収まっている。それをなんとかしてやりたい。差し迫って1番ルークが怯えている、2年後の問題だ。預言というライマの常識故にルークはどこか絶対視している部分もあるので、それは違うと教えてやらなければ。
 殺し合いだなんて絶対にさせない、あのふたりがする訳が無い。しかし敵側がどんな手段を使うか予想出来ないのも事実で、両親や親族が教団の権威の届く場所に居るのがまず問題だろう。これのせいでアッシュもルークも、自分ひとりだけ逃げるだなんて考えもしない。
 やはり家には帰さず、ルークの精神を鍛えた方が良いのだろう。甘やかしているから駄目になると言うつもりではなく、逆境に身を晒されているならば自らで打ち勝つ強さも必要になる。成人という今では解き放たれているはずの時間制限に怯えているのがいい証拠だ。アドリビトムの科学力をもっと信用してもらわなければ。
 かと言ってリタにばかり頼るのも考えものか。ルークの体の研究はまだ始めたばかりで、新たな進展を期待しては過度だろう。今の彼女は少々根の詰め過ぎに見えるので、肩の力を抜けと言っておいた方が良いかもしれない。あまり聞き入れてくれるとは思えないが、言わないよりかマシだ。
 ラザリスという奇跡の消滅は手痛いが、ある意味ルークにとってライマ以外に目を向けさせる良い機会だったのかもしれない。今までずっと身内や家族の中だけで考えていた枷を外せば、背負いすぎた荷物を多少は軽くする事も出来るのではないか。

 もし、どうしても宝珠が取り出せない時は……自分が預かり共に暮らすのも手だろう。また、ガルバンゾで、ふたりと一匹で。今考えてみれば、あの時の生活が1番気楽で楽しかったかもしれない。ルークの事情を何も知らない、ただどこかの貴族のお坊ちゃんだとばかり思っていたあの頃。ルークも自分の事を全く知らない者ばかりではしゃいでいたのがあの王様っぷりなのだろう。
 知らないままの方が、良い時もある。ライマの人間が口を噤んでいた理由のひとつだったのかもしれない。だがユーリは、踏み込んだ自分の判断に後悔は無かった。

「いっそ潰しちまったらいいのに」

 ぽつりと呟いてついでに溜め息を。家名だの権力だの、本当に面倒な話だ。ただ穏やかに暮らせるだけでどうして満足出来ないのだろうか。権威が悪い訳ではないと、アドリビトムに入ってから考え直すようにはなったが……それでもうっとおしい事この上ない。
 そんな風に思うのはやはりどこか他人事だと思っているせいなのかもしれない。ルークの家来になったとはいえファブレ家を通してもいない個人的な宣言で済ましているのだし。どうしたもんかね……ぼーっとルークの後ろ姿を見ていると、足元の影にぼんやりとした色が灯っているのが見えた。

「ん? ……なんだあれ」

 夕暮れが影を一層濃くしているはずなのに、ちらちら見える赤い光。じっと目を凝らして見れば、ルークの小さな足の裏に細い線で何かが描かれている。
 裸足……そういえば、初めて会った時のあいつは裸足だったっけか。カバンに詰め込まれ眠っていたルークはまるで出来の良い人形のようだったのを覚えている。やわそうな肌とつやつや光を弾きかえす朱金、高そうな服を着ていたのに足元だけ不自然に脱がされていたので違和感を覚えたものだ。レイヴンが身代金目的じゃないからかも、と言ったのですっかり忘れていたのだが……。
 ルークは鳥を追い駆けては走り、足裏をちらちらと見せている。どうやら砂浜で見た奇妙な光の正体はこれだったようで、ユーリはそれを視線で捉えながらゆっくり近付けば段々と形がはっきりしてきた。それは魔法陣だった。見たこともない形で、ぼんやり発光している。今まで何度かルークの足裏を見たが、あんなものは無かったはずだ。もしやジェイドが発信機代わりに魔法を施したのか? いいやルークは宝珠の影響でエネルギー性質を受け付けない、当然マナもその範疇に入っている。だからリタだって苦労しているのだ。
 という事は、魔法以外。他に何かあるだろうか、すずやしいなが扱う術式は? 試した事が無いのでなんともいえない。ジェイドが言うには気を使った力は通用するらしい、魔神剣だとか蒼破刃の辺り。当然肉体を傷付ける方面に、だが。それに確か……ローレライ教団独自の術だとうかいう、譜術。あれと相性が良く、宝珠も剣も反応自体は僅かだがするのだと言っていた。しかし使い手は希少で、ライマ側ではティアくらいしか居らず彼女はルーク側の人間であるし、本当に発信機のような術をかけているのならば言っておくだろう。
 他に何かあるかと様々考えるが、実験を重ねたライマの人間にしか分からない事が多すぎてお手上げだ。後でガイに聞いておかなければ。

 ルークの足元を見ながら考えていると、カサリと何やら音がした。周囲に別の気配は感じないので顔を上げれば、ルークが何かを食べている。小さな包み紙が夕日にきらりと反射して少し眩しい。テーブルに置いてあったあの菓子かもしれない。ユーリは一気に距離を詰めて、その包み紙をいさめるように奪った。

「何食ってんだよお前は、もうすぐ夕飯だぞ」
「むぐっ……。だ、だって早く食べなきゃと思って」

 言いながらもぐもぐと口を動かして、ごくんと喉が鳴る。ツンツンと口元を突付けば唇を尖らせ嫌そうに顔を背けられた。この包み紙のサイズならば然程腹には響きはしないだろうが……。ユーリは改めてその包み紙を見てみれば、ある事に気が付く。
 色が違う。ゴミ箱に入っていた紙と大きさや形は全く同じだが、色が違っていた。よくある当たり付きみたいなものかと思い裏表を確かめたが、何も書いていない。不思議と同時に疑惑が湧いてきて、ユーリは率直に訪ねた。

「なぁお前、これどっから持ってきたんだ?」
「え、何が?」
「この菓子、どうしたんだ」
「ああこれ、チョコだって。言っとくけどもう全部食っちまったからねーぞ」
「リビングのやつだろ? お前そんなチョコ好きだったっけ」
「好きって訳じゃねーけど、どっちかって言われたらチョコかな」

 あっけらかんと答える様子に、おかしな所はない。ごく普通に動揺無く受け答えしている。教団と連絡を取っていたり、死のうと企んでいるのならばどこかぎこちなさが出るだろう。特にルークならば。依頼に連れて行けと言った時も、今考えれば結構あからさまだった。
 自分の考え過ぎ。……不安とその不安を振り払いたい虚勢、半々が胸を占めている。リタが手伝いディセンダーも戻ってきて、新たな解決策が見つかるかもしれない。その事はルークだって分かっているはずだ。ラザリスという粟粒の奇跡に縋ったのだから、今回の希望にならばもっと可能性を賭けられるはず。その希望を紡いでいる最中なのだから、以前同時進行したような理由もないだろう。本人の口から諦めないと聞いた事が無い事実がどうにも不安を煽る。
 ユーリはルークを抱き上げ、まるい背中を優しく撫で擦る。それに答えるようにルークは頬をすりすりと甘えてきた。髪の感触がこそばゆい、風に吹かれて少し目を細める。足裏をそっと見てみれば魔法陣は煙のように消えていた。
 後でリタに診てもらった方がいいな。そう考えて包み紙を懐にしまい、ロッジテラスに戻る。床に下ろし足に付いた砂を払っていると、フレンがジュースを手に持ち、続いてエステルとリタがやって来た。

「ルーク様、どうぞ。トロピカルジュースです」
「サンキューフレン!」
「おいフレン、お前そのジュース自分で作ったって訳じゃねーよな?」
「大丈夫よ、ミントが作ったやつだから」
「とっても美味しいです」

 一抹の不安を覚えて尋ねるが、ミントが作った物ならば問題ないだろう。ユーリは安心してルークのコップからストローを奪って飲んだ。酸味は抑えめで甘さ際立つ、お子様味といった所か。その甘さに誘惑されたユーリはズゴーッと飲み、コップのかさをあっという間に減らしてしまう。目の前でみるみる無くなっていくジュースに瞳を緩ませ、ルークは軽い拳を振り上げて抗議した。そして飛ぶフレンの叱責もユーリの耳は素通りする。

「ユーリが、ユーリが飲む〜!」
「こらユーリ、自分の分は自分で持ってこないか!」
「子供と取り合ってんじゃないわよ、馬鹿っぽい……」
「ルーク、私の分飲みます?」

 そもそもふたり分持ってきてくれればこの悲劇は回避されたのではないか、と思うのだが犯人が使う弁ではないので別の言い訳を用意した。

「ルークがオレの為にチョコをひとつでも取っておいてくれればこんな事にはならなかったんだがな……」
「君ね、それが大人の言い訳かい?」
「馬鹿っぽいんじゃなくて、馬鹿ね」

 散々な言われようである。海でルークと遊び夕食の仕込みをせっせとこなした頑張りを少しは認めてくれてもいいんじゃないだろうか。ぷうぷうに膨らませたルークのほっぺたを人差し指で突付き、エステルから貰ったジュースの邪魔をする。チョコの恨みは深いんだぞ、と恨み辛みを重ねて。

「だって! あれは特別なやつで……」
「なんだやっぱり王家御用達だったのかよ。じゃあますます食いたかったじゃねーか」
「この病気は一生治らないんじゃないの」
「元気出してくださいユーリ。お店が分かればお取り寄せ出来ます!」
「そうか、希望が見えてきたわ。んでルーク、そのチョコってのはどこの店のなんだよ」
「いい加減にしないか。ルーク様が困っているだろう」

 チョコの甘さと美味さには誰も勝てないのである。甘党であるユーリが勝つ確立なんてもっと無い。フレンの制止を振り払ってでもルークのほっぺたをぷにぷに、押して攻めた。嫌そうに曲がる子供の眉根はちょっとばかりうんざりして、微妙にアッシュと似ている。
 しかし夕焼けの色を考慮しても、少し額が青白く見える事にユーリは気付いた。目一杯遊んだ後に休憩したとはいえ、外の風に当たりすぎたのかもしれない。そろそろ戯れは終わりにして部屋に戻った方が良いだろう。

「これは店とかに売ってなくって、取り寄せたんだ」
「わざわざウッドロウに頼んだのか? んな事しなくても材料さえ分かればオレが作ってやるのに」
「確かに、ユーリの腕なら本当に作れてしまいそうです!」
「こだわりにうるさい相応、無駄に美味いのよね」
「無理だっての、絶対無理! 材料が特別なやつだから!」
「特別な材料のチョコですか……それは確かに聞いただけでも、美味しそうですね」
「ますます食べたくなってきたじゃねーかよ、知ってる限りでいいから材料言ってみろ」
「えー……」

 しつこい家来の追求にルークの顔はどんどん歪んでいく。はあー、と深い溜め息が奇妙に貫禄があって疲労の痕を見せた。そんなに呆れた顔をしなくても良いと思うのだが。だが何時までたっても諦めないので、ルークは渋々と重い口を開く。

「俺もあんまり知らないんだけど……。なんだったかな」
「まずカカオと砂糖は基本だろ、高級チョコならラム酒とか生クリームも使われてそうだがルークでも食えるって事はアルコールは入ってないはずだ」
「製造工程が複雑なのかもよ。単純な人件費とか」
「作り方なんかもっと知らねーっての! なんか色々言ってたけど確か、えっと……りゅう、なんとかてっこう、とか。そんな感じだった」
「なんだそりゃ? 聞いた事ないぞ」
「スパイスか何かですか?」
「さあ……。リタは分かります?」
「……りゅう、なんたらてっこう?」

 ルークの口から飛び出た材料名は、ユーリにはちっとも心当たりが無い。チョコの材料で聞いた事のないスパイスを使うような、突飛な物なんてあっただろうか。もしかしたら地方特産の材料かもしれない、本人も自信無さ気であるし間違えて覚えている可能性も。リタは心当たりがあるのか、じっと考え込んでいる。まあそんなにお気に入りの菓子ならばおそらくガイは周知の内だろうし、後でウッドロウに聞けばいい話だ。
 ルークは気にせずトロピカルジュースの残りをストローで吸えばむせたのか、けほこほと咳き込みだす。その声に反応してユーリは頭の中からチョコを追い出し、背中を擦った。

「一気に飲むからだ。飯前にジュースで腹いっぱいにすんなよ?」
「けほ、けほっ……!」
「大丈夫ですかルーク様」

 口元を手で覆い、何度も激しく咳き込む。収まる素振りが見えなくて、狭い背中はどんどんまるく歪んでいった。鳥の鳴き声はいつの間にか聞こえず夕暮れは既に夕闇へと移り変わっており、ルークの顔色も影に被さってよく見えない。しかし苦しそうに咳をするので、ユーリは自分の膝に乗せて肩甲骨の内側を強めに擦り続けた。

「んん……ぐっ、げほっ、こほっ!」
「おいおい、大丈夫かお前」
「ルーク、大丈夫です?」

 冷たい風にあたって冷たいジュースを飲んだ事により、過敏に反応させてしまったのかもしれない。咳は止まるどころか段々と籠もった音も混じり始める。ここまできてようやくユーリはおかしい事に気が付く。いくらむせたといえどここまで収まらないのは変だし、ルークの額には脂汗が滲み出ているのを見つけた。
 咳に苦しんで汗、というよりもこれは……。その時、リタが突然大声を出した。

「硫砒鉄鉱!」
「わっ!? リタ、いきなりどうしたんです?」
「馬鹿、毒よ!!」
「……何?」

 切羽詰まった顔色でリタは膝を突き、ルークの肩を掴む。しかしそれがまるでスイッチになったかのように咳は激しさを増し、子供の体は全身を揺らす。ついにはゴボッと水の混じった音が響き、押さえた手の平からぽたぽたと何か水が垂れる。ユーリは抱えた腕に跳ねたその色が、薄い夕闇の中でもはっきりと、赤色であったのを確認した。途端周囲に広がる猛烈な鉄錆の匂い。ルークは体を倒れ伏して大量の血を吐いた。

「……ルークッ!!」
「ケホ、ごほッ……ゴフッ! うぇ……っう」

 苦痛に顔を歪め、咳をすればする分だけ血がびしゃびしゃと床にぶち撒けられる。フレンの白銀の鎧に飛び散り、尋常ではない量。エステルは呆然と固まり動けず、リタは水を取りに行ったのか急いで部屋に駆ける。ユーリは抱き締めた体の変化に、腕を離す事が出来ない。ただとにかく、大声でルークの名前を呼んだ。

「さすが、りた……っ。すぐ、わかっちゃ……ゲホッ!」
「ルーク、ルーク! ルーク!!」
「ゆーり、お……ねがっい……ぐっううぅ!」
「この大馬鹿野郎が! いいから喋るんじゃねえ!!」
「……ほ、宝珠、を……アッシュ、にっ」
「ルークッ!!!!」

 喋ろうとして吐き出す血が邪魔をする。床に広がっていく血が夕闇のせいで黒く反射し、まるでルークが黒く塗り潰されていくようだった。咳をしても血を吐かなくなった次は呼吸を苦しそうに、血だらけの手で喉を掻き毟る。呼吸困難に陥っているのだ、血を吐いたのだから消化器系か呼吸器系のどちらか。そのどちらとしても、今すぐ血を洗い流して人工呼吸をしなければ。しかし、しかしルークの容態は目に見て明らかであり、力ない子供の手は今、ふっと抜けてコトリ床に落ちた。

「ルーク? おい待てよ! ちくしょう息しやがれルークッ!!」

 青い顔で苦しんでいたのに、その事を忘れてしまったかのように停止して、残っているのは眉間の皺と脂汗、そして体を汚す血。ユーリの頭は沸騰し我を忘れ、ルークの肩を掴んでガクガクと揺するが翡翠の色は出てこない。口元はだらしなく開け広げ、舌が動いていなかった。血に濡れた体はショック状態を引きずっているのかビクビクと痙攣している。

 ひとが死ぬ瞬間を、ユーリは数回だが立ち会った事があった。それは末期の重病人だったり、魔物に襲われ間に合わなかった者だったりと。そのどれもが苦しく重い、胸に嫌な黒点を残す。それを、よりにもよって。
 今までルークを抱えて軽くやわいと思った事は何度でもある。だが今、軽いなんてもんじゃない。少しでも動かしたらこの体がガラスのように砕けてしまうのではないかという恐怖。数ミリも動かさずにいれば子供が笑顔で、嘘でしたと顔を上げてくれるんじゃないかという幻想。ユーリは正直に錯乱した。
 ルークが死ぬ、ルークが死ぬ、ルークが死んでしまう! 動いてはいけない、壊れてしまう。止まってはいけない、零れてしまう。どうすればいいんだ! 他の誰でも無い、ルークが死んでしまうじゃないか!
 どんな戦闘の危機よりも混乱したユーリの頭上、そこへ一閃に切り裂くフレンの声が飛んだ。

「しっかりするんだ!」
「……フレン」
「ここで君が固まってどうする、君はルーク様の家来なんだろう諦めるな!」
「……ッ!! わ、るい、そうだな」

 あまりの事に我を見失っていた。こんな時こそ迅速な行動が必要なのに、真っ先に混乱してどうする。現にリタは水筒を数個持って慌てて戻って来たではないか。

「仰向けにして! とにかく食道全部を洗い流すから!」
「分かった。エステル! 急いでリフィルを呼んで来てくれ」
「エステリーゼ様、お気を確かに!」
「あ……は、はい! ごめんなさい! あの、私の治癒術を使うのは……っ」
「ルークには治癒術効かないんだ、急いでくれっ」
「そ、そうなんです? 分かりました、すぐに呼んで来ます!」
「僕はバンエルティア号と連絡を取って、こっちに来てもらうよ」
「頼む!」

 動揺しながらも、エステルはフレンに背中を押されてよたよた走って行く。こんな場面を見ればショックを受けて当然だ、それでも今は一秒でも惜しい。
 仰向けにしたルークの体は引き攣りすら収まってきて、弛緩したようにだらりと横たわる。呼吸をしなくなって時間が経つと危険になる。リタはすぐにルークの口元を大量の水で洗い流した。口内に溜まった血が流れた後、ユーリはすぐに人工呼吸を施す。順序を頭の中で確認しながら息を吹き込むが、次に心臓マッサージをするべきかどうか迷った。この薄い体をマッサージとはいえ上から圧迫して、本当に大丈夫なのだろうか。ただでさえ出て行った血がますます出てしまうような不安に駆られる。

「呼吸器系が爛れてる可能性があるから肺の部分は圧さないで!」
「息送ってもちゃんと届くんだろうな!?」
「喉が破損して出血してたら……」

 駄目なのかしていいのか、リタに分からなければ自分にはもっと判別出来る訳が無い。普段の事ならば選択出来るが、事はルークの命に直結しているのだ。こうやって迷っている間にも、触れている体温は急激に冷めていく。味わった事のない子供の冷たさに、今すぐにでも叫び出したい衝動が突発に湧き出る。しかしここでそんな愚かな事はしていられない、ユーリは身を切る想いで耐え、リタの指示を待った。

「ルーク!」

 騒ぎを聞いて、クレスとミントがやって来た。夕暮れの中ロッジテラスに横たわる子供は影に隠れているが、緊迫感溢れる空気と鼻につく血の匂いで彼らは察して青褪める。
 ミントは白い法衣が血に汚れるのも構わず膝を突き、すぐにリカバーとヒールを唱えたがその光は瞬時にマナへと分解され周囲に散っていく。それに驚き、ユーリ達へ視線を飛ばすが今は説明している暇が無い。

「毒を飲んだの! 今は呼吸停止してるから……」
「息をしてないって……心臓は!?」
「……動いてねーよちくしょう!」

 自棄糞に叫べば、憤りが空に響く。マッサージしようと胸に手を置くユーリの腕には、ルークの鼓動が全く伝わってこない。今日抱き締めた時、とくんとくん動いていたはずなのに! 幕を引くように周囲の空が暗く夜の時間を勝手に告げてくる。生命の象徴であったはずの太陽が完全に隠れて、ルークの鼓動を連れ去ってしまう。
 そんな事を許せるはずがない。ユーリは必死で心臓マッサージを始め、何度も息を吹き込むが反応は返ってこなかった。血の溜まりがバシャバシャと跳ねて四方八方に飛び散るが構っていられない。
 だが、想い虚しく。

「……なっ」
「ルークの体から……何か、出てきた?」
「これ、は……まさか宝珠?」

 暗い夜空を跳ね返すように、現れた光があった。それは希望の光でもなんでもない、ユーリにとっての絶望。ルークの丁度心臓位置から、キラキラした真白い光が輝き、ゆっくりと体内から浮上しようとしている物体がある。
 大人の手の平に収まるサイズで丸く、子供のルークからすれば心臓のような大きさ。光が飽和して白く放つ、……宝珠だった。ゆっくりと、まるで産まれるように。少しずつルークの体から出て行く。ユーリはハッと思い出し、宝珠が出て行くのを止めようと掴むが虚しく空を掻く。実体の無い、けれど存在する物質。ユーリはとにかく叫んだ。

「止めろ、出るんじゃねえ! 宝珠が出ちまったら……ルークが、ルークが死んじまう!!」

 宝珠は魂と重なっている、ルークの命だ。これが体内から出切ってしまえば、本当に死ぬのだ。一切の希望も欠片無く、望みの何もかもを絶たれて。少し前まで宝珠が出て行けばいいと願っていたはずなのに、今では出て行くなと願っている。都合の良い矛盾でもなんでも良いんだ、ただルークの命まで連れて行くな。
 手で押さえても宝珠は透き通り、光と共に浮上していく。ゆっくりと陽が昇るような足音は絶望に聞こえた。滅茶苦茶に叫ぶ。リタが傍らで詠唱しているが、全て宝珠により拡散されてしまう。どうすりゃいいんだ! 宝珠が出て行くとルークは死ぬ、入ったままだと治療すら受け付けずルークは死ぬ。死んでから生き返らせる? こんな状態で死んだ人間がそんな簡単に生き返るのかどうか。毒がどれ程のものかユーリには想像も付かないが、リタの顔色を見れば碌なものじゃない予想は簡単だ。
 究極の二択なんてまだマシじゃないか、慈悲もなく一択だなんてふざけるな。けれど、けれどユーリの願い虚しく、宝珠はその全貌を明らかに、ルークの体から全てが露出してしまった。宝珠と皮膚の隙間は僅か数ミリ、その瞬間だ。クレスがミントに向かって叫ぶ。

「ミント、タイムストップを! 今すぐルークに向けてかけてくれ!」
「あ……はい!」

 一瞬、何がなんだか分からず傍観する。ミントが素早い動作で詠唱し、両の手を握り敬虔な信者のように乞い願う。時を統べる神の御業、ひとつの奇跡が極範囲かつ目の前で展開された。
 ルークの全体をまるでそっくりそのまま固めたように、空気そのものが止まる。音も色もピタリと静止し、箱庭のようだった。宝珠が弾くかと思われたが、ルークの体から出切ってしまった為か胸の上でぴたりと空中停止している。血も、息も、宝珠も、命も。全て直前で時間は凍りついた。

「長くは保たない、すぐにバンエルティア号を呼ぼう!」
「今フレンが呼んでる、大して離れてないからすぐに来るはずだ」
「極力動かさないで、このままを維持しててよ!」
「何か用意しておいた方が良い物は?」
「メモを書くから、フィリアとウィル、ハロルドに渡して用意してもらって! あと……ジェイド達も呼んだ方が良いわ」
「ライマか……ちと遠いな」
「飛ばしてもらって! ライマで作られた毒ならあっちでは解毒剤があるかもしれないでしょ!」

 効果で十分に死をもたらした患者の後に解毒剤の意味は、と言う者は居なかった。どんな可能性でも捨てられない、ミントのタイムストップが通用したという事は魔法の効果が期待出来るようになったという事だ。ユーリの知る限り、心臓も呼吸も止まった人間から命を取り戻す魔法なんて聞いた事は無かったが、それでも。

 ルークがラザリスに縋ったような、飛沫の希望に賭けてユーリは願った。






  


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