anti, World denied








3

「おかえりなさい!」
「帰ってくるのおそ〜い、みんな待ってたんだからねっ」
「また帰ってきてくれると思ってたよ!」
「お帰りなさい、お茶をいれて食堂でお待ちしております」

 皆の声はざわざわと好き勝手にばら撒かれているが、その全てはディセンダーの帰還を喜ぶものだった。エラン・ヴィタールでの戦いから3ヶ月程……ようやく救世主は帰ってきたのだ、アドリビトムへ。これだけの期間を留守にしておきながら、帰ってくる時はあっさりと、甲板に落ちてくるとは派手なものだ。鼻頭が少し赤くなっている以外は何時も通り、穏やかにニュートラルな笑顔。以前はそれが貼り付けたような、顔の筋肉を意識して動かしています、なんて笑顔だったのが随分とマシになっている。彼はまるで依頼帰りの体で普段通りエントランスホールに現れるものだから驚いたのは他のメンバーで、あっという間に集まったメンバーから手荒い歓迎を受けていた。
 ユーリはルークが強請るものだから、リタの検査を中止してエントランスに出てきていた。しかし既に人垣が出来ており、彼は中心に埋もれている。ルークを肩車してやって、なんとか頭の天辺が見えるらしい。こりゃ駄目だ、今は諦めろ。彼ならばその内挨拶に来るだろう、話はその時でいい。そう説得すればルークも渋々ながら頷き、残念そうな顔をしていた。

「ま、救世主様のご帰還だからな。しょーがねーさ」
「エラン・ヴィタールに行く時、俺の事で余計な手間増やしたの謝ろうと思ってたんだけどな」
「なんだお前、んな事で気にしてたのか? そこらへんどうせアッシュが言ってるだろ、んなもんよりおかえりって言ってやりゃいいんだよ」
「けどさ〜」
「気にするならケーキでも作って食わせてやるか? お前の腕前味わったらびっくりするぜ」
「あ、それいいな! とっておきの作る!」

 ユーリの提案にルークは喜色満面に、居ても立ってもいられないのか頭の上でじたばたしはじめる。短くなってもユーリの髪の毛は引っ張られる運命らしい、むしろ掴む場所が狭くなり余計に痛い。一度リタに言ってから、2人は急ピッチでケーキ作りを開始する。時間をかけられないのでカップケーキ程度になってしまったが、丁度焼きあがった頃甘い匂いに誘われてディセンダーはふらりと食堂にやってきた。

「美味そうな匂いに吊られてやってくるって、お前はリッドか?」
「ディセンダー、丁度いいタイミングだな! 出来立てを食ってけよ!」

 ルークは元気良くディセンダーに飛び付きお帰りの挨拶をしてから、椅子を引いてここに座れと命令する。甘えているのか強引なのか、両方なのがルークの良い所だ。ディセンダーは大人しく座ってロックスが淹れてくれた紅茶を飲む。3ヶ月ぶりの味はやっぱり懐かしいらしく、美味しい、にっこりと笑った。
 それからスッと出てきたカップケーキに、瞬きをしてユーリを見る。以前も何度か船員に向けて作っていた時食べさせていたのを覚えているのだろう、またも嬉しそうにフォークを持って口に含む。ルークはにこにこと、期待を込めた眼差しですぐ傍にて待機。我慢出来なくてディセンダーの膝に乗り、どうだ美味いだろ? とどや顔で聞いた。もうちょっと待ってやればいいのに、まさかこれをルークが作ったとは思っていない彼はきょとんと、周囲はくすくすと笑みが広がる。

「なに? ルークも食べたいの?」
「ちげーっての! これ俺が作った!」
「え……このカップケーキを? ひとりで?」
「ひ、ひとりじゃないけど、ユーリと一緒に作ったんだぜ! 美味いか?」
「へー、これをルークが。すごいね、とっても美味しいよ」
「だろ、だろ〜っ!? もっと食えよいっぱい食えよ!」

 純粋に褒められて、ルークは体をバタつかせて喜んでいる。乗られているディセンダーも同じように揺らされているが、それも懐しそうに受け取っていた。結局彼の膝の上で、カップケーキを食べさせてもらっていたので半分はルークが食べている。おいおい、目的と手段が入れ替わってるぞとユーリは苦笑したが、ケーキはまだあるので黙っている事にした。
 自分の事情をユーリとリタに知られてからこっち、ルークの我儘と笑顔はとんと減っていたのでこの光景をユーリはほっとした心地で見る。ちょっとばかり利用している気もするが、これも人々に笑顔を届ける救世主の仕事だと思って我慢してもらおう。
 しかし少々、帰ってきたばかりなのに膝を占領し過ぎているのでユーリは助け舟を出す事にした。カップケーキを5個、籠に詰めてルークに声をかける。

「ルーク、上手く出来たんだし科学部屋の奴らにもこれ差し入れしてやれよ。ほれ」
「あ、そうだな……中断させちまったし」
「気を付けて持てよ? 重くねーか」
「へーき、んじゃ行ってくるっ」

 すとんっ、と膝から降りて籠を受け取る。リタ達は美味しいと言ってくれるだろうか、そんな期待に頬を染めてルークは口角を曲げた。するとにゅっと、横から手が伸びてきて朱色のつむじをふわふわと撫でていく。ディセンダーが穏やかに微笑んで、ルークの髪の手触りを楽しんでいた。以前はそんな、感情を先行させた唐突な行動は取らなかったのに、やはり変わったものだ。
 成長というものを感じて同時、ルークとの差を一瞬考えてしまう。重荷があるからといって良い出来事にまで悪い考えを影響させては駄目なのに、つい思考がご主人様寄りになってしまう日々を、ユーリは自分でも呆れる。家来宣言をしたとはいえ、こうまで塗り替えられてしまうとは思わなかった。

「転ばないよう気を付けてね」
「コレットじゃあるまいし、転ぶかってーの!」

 ルークは少しだけ怒り、ぷいっと行ってしまった。それを食堂に居る人間は皆くすくす微笑み見送る。扉が閉まれば後は静かなものだ、騒がしさの大元が去ってしまえば落ち着きすぎた人材ばかり。リリスは洗濯物を取り込みに出て、ロックスとクレアは食器の片付けと夕方の仕込みを始めてキッチンに籠っている。
 テーブルに残されたディセンダーは紅茶を飲みながら窓の外の光景を嬉しそうに見つめた。隣に座り、ユーリは自分のカップケーキを味わう。材料を先に測って用意したのは自分なので、そう簡単に失敗なんてしない。けれどルークが頑張っていた姿を見ているのでその分が加味され、殊更美味しく感じてしまうのは身内びいきと呼ぶのだろうかやはり。

 ふと視線を感じ振り向いてみれば、ディセンダーがやけに熱い視線でこちらを見ていた。前々から全身で外の情報を吸収していた節があったので、ある意味慣れているといえばこの視線にも慣れている。だがその視線が明らかにユーリの首筋、髪型を見ていると分かったので少しばかりくすぐったい。今では短くなったこの髪型も船内では見慣れてしまったので誰も興味を持たなくなったせいか、久しぶりに興味深々、という視線を受ける。
 聞きたいのだろう事は容易に想像が付いたのだが、キッチンでロックスとクレアが忙しそうに動きこちらの音を拾えそうにないのを横目で確認しながら、ユーリは先に自分が聞きたかった事をぶつけた。

「なぁ、ラザリスはルークの事……何か言ってたか」
「ううん、何も。あの時のラザリスにはもう、そんな余裕無かったんじゃないかな」
「そう、か……」
「生命の場に何かヒントが無いかと思ったけど……僕がどうこうできる情報量じゃなかった。ごめん」
「謝んなって。ルークの為にサンキューな」

 感謝の礼をすれば、ディセンダーはまたもじっと見つめてくる。睨み付けられても意にも介さない胆力を持っているユーリだが、逆に純真な瞳には別段後ろ暗い事なんて無かったよな? と確認してしまう程度には狼狽えた。最近の自分の、通している我の様々を自覚しているので余計に。
 何もかも見通す瞳で忠告されるのだろうか、と思っていれば予想は外れてディセンダーは柔らかく微笑む。それは最初の頃とは随分違う、自然な表情だった。

「ユーリ、なんだか変わったね」
「ん、そうか?」
「うん、僕は久しぶりだからよく分かるよ。あ、髪の事じゃなくてね? でも結構似合ってる、不思議」
「はは、よく言われるわ」

 似たような事を、ユーリはフレンに言われていた。髪を整えてもらった時だ。シャキンシャキン、と幼い記憶を懐かしんでいると唐突に言われたのだ。そりゃアドリビトムの中ではフレンが1番付き合いが長いので言われるだろう事は分かっていた。だが騎士団を辞めた時でも出なかった言葉を、今出されるのは少し意外というかなんというか。いや、辞めた過去を知っているからこその言葉だろう。フレンは何故ユーリがあの場所を捨て去ったかよく知っている。
 人間一度嫌いになったものを、再度好きになるなんてそう簡単にはならない。ユーリはガルバンゾの騎士団が嫌いになった訳ではないが……落胆したというか、詳しくいえば結局嫌いになった、でいいのかもしれない。それに付随して昔からだった高位の人種というものに対する不信感は確立されてしまったし、どちらかというと身内びいきに偏るようにもなった。
 そんな色々を合わせてもルークの家来に、王族に従属するとは自分の事ながら嘘のような本当の話だなと今でも思う。もしルークの身分を最初から知っていれば自分はどういう行動を取っていただろうか。変わらず助けるだろう、と即座に答えは出る。だがその早さは今自分の中であの子供が占めている割合が大変に大きいからだ。もし髪を切る前、アドリビトムに来る前、ガルバンゾを出る前に知っていたとすれば? 考えても答えは出ないので、ユーリは自問自答を切り上げる事にした。
 大分遠回りしたが、付き合いの長い者と短い者相手に同じ事を言われて、ユーリはなんとなく複雑な、嬉しさ半分戒め半分な気分になる。ルークをご主人様と呼んで大事にする為に家来になった訳じゃない、その役目はガイだろう。自分はライマの人間に出来ない無茶を推し進める役割を買って出たのだ。例えルークの心を暴いても、危険に晒しても。それで宝珠が無くなれば喜んで踊る覚悟はある。
 だから変わったと言われては本来あまりよろしくない。もっと狡猾に冷酷に動かなくてはならないのだが、正直難しい。ジェイドやレイヴンのように仮面を完全に被るのは至難の業だと、今更ながら彼らをほんの少し尊敬した。どうせならばジューダスのように本当に仮面を被ってしまおうか。……いいや、ルークに肩車をしてやれなくなるから却下だな。

 それからぽつぽつと、ルークが戻ってくるまで最近のルミナシア事情を話した。その殆どが吉報なのは良い事だ、世界を愛するディセンダーには特に。ユーリの心の奥底ではまだ終わっていない、むしろあの時から始まった感情は綺麗に隠す。しかし彼の透き通った瞳の前では無駄な努力かもしれないと思ったが、それすらも見通されているのか共に当たり障りなく世間話を続けた。


*****

 ディセンダーが帰って来てからすぐの事。お祭り好きが集まるアドリビトムならばその展開は自然だったのだろう、つい最近開催した誕生パーティーが好評だった事と、その時ディセンダーが居なかったという理由、また何かイベントを開こうとまことしやかに……いや結構あからさまに聞こえてきた。というか、直接ギルドリーダーからのお達しなので最早決定事項なのだろう。

「慰安旅行? ……海に?」
「そう。”みんなお疲れ様休暇”って所かな。我らがディセンダーは帰ってきたけど、戦争の後処理は山積みだし、新しい生態系で依頼はむしろ増えてるし……」
「そういや依頼量自体は増えてるな」
「うん。緊急度合いの高い依頼はかなり減ってるんだけど、でもみんな働き詰めでしょ? 良い機会だからちょっと全体的に休憩して英気を養ってもらおうかなって」
「ギルドリーダーも大変だね、この人数の体調管理までしてんのか?」
「私が見張ってなくても、しっかり休みを取る人はいるけど……取らない人もいるじゃない? あらユーリ、どうして目を逸らすの。貴方の事だなんて言ってないよね私」
「……へいへい、最近依頼サボっててすいませんで」

 ライマの人間が帰ってからユーリはあまり依頼に出ていない。やはりジェイドに言われた言葉は棘のように引っかかっている。ガイや船員達を信用していない訳ではなく、自分の見ていない間に何かが起こったりしないか薄っすらと不安を覚えてしまい離れられない。しかしついに今日、リーダー直々に釘を刺されてしまい冷や汗が。

「リーダーとして、みんなを労るって意味も感謝も込めて……かな。流石に一気に船を空ける事は出来ないから、分割で行く事になるんだけど」
「それにしても海か……カナズチが数名居たと思ったんだが」
「海だけど砂浜があるから、泳がなくても十分遊べるじゃない? 大きな別荘も借りれる事になったから楽しんで来て」
「別荘? そりゃすげーな一体どこのだ」
「ウッドロウさんの国王様から今回の件で感謝状が届いたの。別荘付きプライベートビーチを暫く間自由に使っていいって」
「へぇ、ギルド相手に感謝状とは……」
「そういう訳で、全メンバーを大雑把に分割するつもりなんだけど、ユーリはルークと一緒の日にちでいいんだよね?」
「ああ、ついでにクレスやロイド達も一緒にしてくんねーか。あいつらルークの良い遊び相手になってくれるからな」
「はい、分かりました。詳しい日程は追って連絡するからよろしくね」

 クスクスと、親馬鹿を笑われているような気配。下手に言い募っても余計なボロを出すだけなので、ユーリはそそくさとその場を離れた。
 アッシュ達が帰った後、ユーリは眠る場所をライマ部屋へと移している。ベッドが空いてルークが寂しがるのと、ガイと交代制で世話をする為だ。とは言え半分は好きで世話して好きで移っている、レイヴンやジュディスが訳知り顔でニヤニヤ言葉無く笑顔を押し付けてくるのが少々気になるくらい。
 少しだけガルバンゾの頃を思い出すが、ガイが居るのであの時程手間面倒はかからない。それが物足りないような寂しいような、ユーリはついつい苦笑した。それでも変わらないのは、ルークが待つ部屋への帰路は楽しい、という事。ガルバンゾの頃は持ち帰った時の反応が面白くて様々な物を土産にしたものだ。バンエルティア号は生活空間が集約し過ぎて、ちょっとだけ物足りないかもしれない。
 やはり珍しい物を手に入れるならば外に出なければ駄目か。ちょくちょく依頼にでも出ようかね、とユーリは手段と目的が反対になっている事に気付く。これはとてもじゃないがリーダーには言えないな、と心に蓋をしてご主人様が迎えてくれる扉を開けた。




***

 アンジュの采配により、総勢80名前後の休暇は順繰りで行われていった。人数を分割しつつも休暇を辞退する者も居たので、ギルド運行に影響はほぼ及ぼさない。それぞれの土産話に花を咲かせ、最後のメンバーの期待を疲れる程詰め込むくらいだ。
 砂浜や海、バーベキューだの、それぞれ楽しむポイントは多々あれど、ルークは大勢で外に遊びに行く事自体が楽しみで、日々そわそわと落ち着かない。先に休暇を終えたメンバーから話を聞いて羨み、自分もやるのだと宣言して周囲に微笑まれている。おかげでガイが買い込む準備品が日々増えていき、部屋をだんだんと狭くしていた。
 そうして指折り数えて、待ちに待ったルーク達の番の日。残念な事に、丁度ライマへの定期連絡の日とぶつかってしまいガイは船に残る事になってしまった。それくらいいいのではないか、と思ったが宝珠に関する研究状況や大臣達への周知の広まり具合の報告も入っているらしいので、ユーリは口を閉じる。ルークも内容を察してか、我儘は言わず大人しく頷く。代わりに土産話を期待している、そう言ったガイの願いにルークはにっこりと笑顔だった。

 青い空、白い雲。どこまでも広がる海は雄大だ、この広さに対し自分はなんてちっぽけな存在なんだろうか……と、殊勝な感想が出る人間はこの場には居なかった。

「よーしっ、俺が一番乗りだぜっ!」
「待ってよロイドーッ」
「勝負とあっちゃ負けられねぇな、走るぞクレス!」
「ええっ? 海は逃げないよ!」
「ちょっとあんた達、荷持持ったまま海に入らないでよっ!!」

 ギルドの弾頭連中がトップスピードで海にドカドカ飛び出していく様はなんというか、鮭の激流下りを思い起こさせる。激流なんてどこにも無いが。若さ眩しい子供達を見つめる大半は冷静に、暑苦しい……リフィルの呟きに同意の頷きが返ってくる。

「ユーリ! 俺も、俺もー!」
「いててて、引っ張るなって。お前は着替えて準備運動してからだ、あと日焼け止めと帽子もな」
「いらねーってのそんなもん!」
「いやガイから頼まれてるからな……絶対にってよ」
「うううう面倒くせー!」

 肩車の上から足をじたばた、暴れすぎてルークの麦わら帽子がぽとりと落ちる。フレンがそれを拾い、準備運動は大切ですよと笑った。この日差しの中相変わらず白銀の甲冑は暑そうで重そうだ、隣のリタの方が余程参っている様子が可笑しさを演出している。
 最近科学部屋に籠もりきりだったのを、エステルのお願いに折れて参加したリタだが、久しぶりに浴びた太陽に苦しそうだ。その理由のひとつとしてルークの件があるので、ユーリは水筒を差し出して水分補給を促す。冷たい水で喉を潤し、泳ぐ前から煩わしそうなリタははぁーと溜め息をこぼした。

「遊んでる暇があったら研究進めたいのに……」
「そう言うなって、根の詰め過ぎは良くないぜ」
「そうそう、俺の事なら後回しにしてもいいんだぞ」
「あたしがどの研究したいかなんて、あたしの勝手でしょ」

 ぷいっとそっぽを向いて、リタはすたすた行ってしまった。ルークは怒ったのかな……そうしょんぼりしてユーリのつむじに指先で文字を書く。こそばゆいから止めてくれ、肩から懐に抱き直してユーリは背中を励ました。
 リタはあんな風に言っているが、夜遅くまでルークの体を研究している事をユーリは知っている。何しろ宝珠はエネルギー性質を拡散する、現在ドクメント展開すら出来なくてその調査は困難を極めている最中。ジェイドから渡された研究成果を、眉間に皺を寄せて眺めるリタの表情は大変に厳しかったのを覚えている。けれどリタはそれを表に出さず黙々と、機械や薬草多岐の手段を模索して研究を重ねるものだから周囲が心配するのも当然だった。
 だがユーリとしては、ルークの件なので止める事は出来ない。せめてデザートの差し入れや休み時を教えるくらいだ。必要な材料があればどんな場所でも取りに行くのだが、まだその段階に及んでいないという事実が口惜しい。

 先に別荘で荷物を下ろし、着替えてから砂浜へ。ガイが絶対に絶対に忘れないでくれよ、と念押しした日焼け止めもきちんとルークに塗り、フレン監督の準備運動をみっちりと。ルークは早く海に入りたそうにしていたが、クレスとロイドが参加してくれたので楽しそうな様子に誘われ、えっちらおっちら小さな手足を振り回していた。
 それからようやく開放されて、ルークは海へ向かって突進していく。チェスターが隣で、海に帰って行く子ウミガメみたいだなーと言っているのを聞いてユーリは頷いてしまった。
 大きな浮き輪をぷうぷう膨らませてから、波の攻撃で頭から海水を被っているご主人様の救出に向かう。足首が浸る程度の浅瀬で一体何をやっているのだろうか、本人は必死で足掻いているようだが浅すぎてクレスもロイドも救出しない程なのに。ユーリはドーナツ型の浮き輪を、暴れている上からガボッと被せて掬い、持ち上げて救出してやった。

「けほっ、けほっ! なんだよこの水しょっぺーぞ!」
「そりゃ海水だしな」

 大陸横断の最中は、海を眺めた事はあっても入る事は無かったのでルークが海水を体験するのは始めてだ。恐らくライマでも、軟禁状態だった為期待を持たすような事は言わなかったのだろう。その分嬉しそうに楽しそうに、ルークは目一杯はしゃいでいる。この様子をアッシュやナタリア達に見せてやりたかったな、とユーリは惜しむ。
 浮き輪のロープをしっかり持たせて、ゆっくり運んでやる事にした。クレスとロイドも付き合ってくれて、のんびり海というものを楽しませる。しかし子供の足が着かなくなる距離なんてすぐそこで、砂浜から離れて行けば行く程、ルークの瞳は不安に歪んでいくのが面白くてユーリは口元がむずむずしそうだった。クレスとロイドはもう少し先を泳ぎ、海底から昆布や貝を拾ってきてはルークに見せているが、歪んでいく表情に気付いて不思議そうにしている。

「どーしたんだルーク? もしかしておしっこしたくなったか?」
「ちちちちげーよ! だってこここ、こんな所落ちたら俺溺れちゃうじゃん!」
「ロープをしっかり握ってれば大丈夫だよ。もしもの時は僕達も居るし」
「そうだぞー、浮き輪に穴が空いて空気が漏れたり、オレ達がよそ見しない限りは溺れないって」
「そ、そそそそうだよな、浮き輪に穴なんて空かないしユーリがよそ見なんてししししないもんな!」
「お! ルーク大変だ浮き輪の空気がどっかから漏れて沈んでるぞ!」
「うぎゃあああああ溺れるううううううっ!!」
「ルーク、それ沈んでるんじゃなくて回ってるだけだぞー」
「止めなってユーリ……」

 くるくる浮き輪ごとルークを回し、青い空に悲鳴を轟かせる。悲鳴を聞いて慌ててやって来たフレンにユーリは叱られ、すごすごと砂浜に戻って来た。半泣きだったご主人様の機嫌を取り繕う為にも、何か献上しなければならないだろう。ユーリは特大サイズのイルカの浮き輪を膨らませ、飲み物を持って再度海へと突撃する。その後姿をエステルは応援し、リタは馬鹿っぽい……と呆れていたが最早届く距離ではなかった。

「ルーク、浮き輪も良いがイルカはどうだ?」
「うっわなにそれカッケー!」
「こらユーリ、反省が無いぞ!」
「してるしてる、悪かったってもうやらねーよ」
「でっけーイルカだなーそんなのあったっけ?」
「ガイが詰めた鞄を1番占領してたやつだからな。ほらルーク、こっち来いって。イルカに乗ってフレンに引っ張ってもらおうぜ」
「まじで! 乗る!」

 先ほどのユーリの悪行をすっかり頭からすっ飛ばし、ルークは嬉々としてイルカに乗り移った。ユーリの懐で、ジュースを飲みながら優雅に王様気分。その後は取っ手をぎゅっと握ってわくわく瞳を輝かせている。こんな視線を向けられて、断れるフレンではない。仕方がなしにイルカの口を持ち、ゆっくりと牽引し始める。しかしフレンなので当然に安全運転、スピードなんてスリリングの欠片も出さないのですぐに不満が上がった。

「フレンーもっと早く! びゅーんって!」
「おらおら、天下のルーク様の頼みだぜ」
「ユーリ、君って奴は……っ」
「俺が後ろから押してやるよ! いくぞルーク!」
「手を離しちゃ駄目だからね」

 ブーストを後ろにも付け、人力ではあるが中々の速さでイルカは海の上を滑る。せめてもの抵抗か、砂浜へと進みぐんぐんイルカに乗ったふたりは近付く。砂の城を作っていたりパラソルで涼んでいたりしている皆の光景がはっきりと見えてきて、コレットとアーチェが大きく手を振っているのが分かる。

「着水するぞ! ルーク、対ショック体勢を取れよっ」
「えっ、なになに、どーやんの!?」
「しっかり掴まってろってこった」
「お、おーっ!」

 ユーリはイルカの取っ手を、ルークの小さな手の上からしっかり握る。前傾姿勢で懐のルークを守るように自身の体で覆い、ロイドにスパートを頼んだ。

「ロイド、思いっきりやってくれ!」
「任せろ! いくぜっ、獅吼旋破あっ!」
「ええっ!? ロイド、ちょ……それ奥義じゃないのかい!?」

 ロイドから放たれた闘気は獅子を型取り、ドォンと大きな水飛沫を上げてイルカを後ろからふっ飛ばした。前のフレンの頭をジャンプ台のように滑り上がり、文字通りイルカは空を飛んだ。ユーリはイルカの上から、砂浜の皆が呆然とこちらを見ているのを目にする。懐のルークは、大きな声で爆笑した。

「すっげーーーーっ!!」
「イルカが空を飛んだ記念すべき日だな!」

 主従揃って夢見がちに笑い、迫ってくる地面に気が付かない。フレンの声が聞こえてきたと思った瞬間、目の前には砂が。ユーリは慌てて取っ手を離し、ルークを抱えイルカを蹴り飛ばしてジャンプする。最到達地点を随分遅れて飛んだ為、思いっきり砂浜に擦れ転がった。
 ゴロゴロゴロッと派手に転がるが流石王家の別荘付きプライベートビーチだ、ゴミも石も無かったのでそこまで痛くない。だがゴールとしてゴンッ! とパラソルの骨組みにぶつかりぼっきり折ってしまうとは予想外だった。

「いてて、ルーク怪我はねーか?」
「全然っ! びっくりしたけど面白かった、もっかい!」
「いやまあ、流石にもう1回は無理だろ」

 刺々しい視線に急かされて顔を上げれば、迎えるのはリフィルの角が生えた迫力ある笑顔。その後ろではリタが詠唱を開始しているのが聞こえ、海からは海藻を頭から被っているフレンがオーラを纏いながらゆっくりとこちらに向かっている。なんという四面楚歌、ユーリはキョロキョロと助けを期待して周囲を見渡すが、パフォーマンスが派手過ぎたようで誰も同情してくれそうにない。
 レイヴンやゼロスは爆笑しているし、ジュディスも涼しい顔で笑っている。戻って来たロイドはクラトスの説教で正座コースに入ってるのが今見えた、クレスも巻き込まれており少々気の毒かもしれない。
 なんとかこの場を逃れる方法は無いだろうか。ユーリは姦計を巡らせる。そうだ、こういう時こそルークの可愛さを最大限に発揮するべきじゃないか。肩を小さくして眉を下げ、怯えた瞳の上目使いでお願いすれば大抵の人間はノックアウトされる。なにせあのリカルドにも勝ち星を上げた必殺技なのだから、他ならばもっと楽勝だ。ある意味強面な人間にこそ倍率を上げているような気がしなくもないが。
 いけ、ルーク。お前の可愛さでメロメロにして有耶無耶にしろ! そうユーリが目配せすれば、我がご主人様はきっちり背中に隠れ、隠れていない頭を必死で隠している。容赦無いリフィルのお仕置きを知っているので、ガタガタ震えて縮こまっていた。
 ……しまった、こういう時のルークは誰よりも頼りにならない。ガイとのやりとりを見て十分知っていたのに、なんたる失策。ユーリは覚悟を決めて、リフィルのフォトンとリタのファイアボールを受け入れた。

「んなに怒る事ねーじゃねーか、ルークに海を楽しんでもらおうと思ったんだよ」
「だからって危険な事やってんじゃないわよ! あんたは平気かもしんないけどルークが怪我したらどうすんの!」
「リ、リター……ごめんってばー」
「あんたはまだ埋まってなさい!」
「うう、あついよーくるしいよー」

 お仕置きとしてルークは砂浜に埋められている。麦わら帽子を被ってエステルからジュースをストローで差し出されており、暑さに呻いた声がなければパッと見バカンスだ。ユーリはフォトンとファイアボールをもらった後、正座の上に大きなスイカを乗せられて拷問に掛けられている最中。先ほどまでしっかり冷やされていた重量感のあるスイカは地味に辛い。
 あまり口答えすると後方のフレンから木刀が飛んでくるので下手な事も言えなかった。なんでそんなもん持ってきてんだよ、と言いたかったがスイカ割りの為に用意したのは確かにガイだ。自分の膝の上でスイカ割りが開催されるのは勘弁してもらいたいので、ユーリは大人しく罰を受け続ける。今度ルークを海に連れて来る時は、うるさい面々には秘密にしておこうと心に決めて。そんな考えをしっかり読まれたのか、ユーリの肩にビシイッ! とフレンの一撃が厳しく打ち据えられた。


 昼を少しだけ過ぎた頃だ。しいなとミントが昼食の完成を知らせにやって来てようやくお仕置きは終了した。ユーリの膝の上を占領していたスイカを退ければ、足が痺れてすぐには動けない。そこへレイヴンが面白がって突付こうとしてきたので、スイカの重さをその身に教えてやった。
 開放されたロイドとクレスの助けを借り、ルークもようやく砂の中から掘り起こされる。穴の深さは殆ど無く、手加減して盛られていた跡が見えた。全身にまんべんなく細かい砂の粒が貼り付き、ルークは犬猫のようにぶるぶると体を振るわせて飛ばす。それでも全部は取れないので、シャワーを浴びる! と半泣きで迎えのミント達に向かって突進して行った。

 その時だ、走るルークの足元がキラリと一瞬光ったのが見えた。陽の反射か? と訝しんで目を凝らすが、改めて見ても特に何も無い。足首の周りに貝やアクセサリーなんて光る物は無いし、見間違いかもしれないと考える。ルークはミントと手を繋ぎ、メニューは何だと嬉しそうに尋ねていた。
 ……気のせいか? ユーリは立ち止まって別荘へ戻る子供の後ろ姿をじっと見る。水着なので怪我や変化があればすぐに分かるし、子供の小さな手足では隠し持つ事も不可能だろう。
 しかし、なんとなく気になる。ユーリは経験上自分の小さな引っかかりは重要だと知っているので、眉間に皺を寄せて考えた。周囲の皆は食事という事でどんどん別荘に戻って行き、砂浜にぽつんとひとり取り残される。

 ルークが埋められていた周囲をざくざくと掘り返すが、何も出てこない。後どこか近寄った場所はあっただろうか、思い返すが特にも無い。分割されたおかげで今日のメンバーは全体数からすれば少ないが、その分集まってひとりきりになる機会は無いといっていいだろう。
 何が気になるのか、ユーリは一旦自分の中を整理した。1番気になるのは当然、帰り際ジェイドが言っていたあの言葉。ルークにはまだ隠している事があるはず、と。それは一体何だろうか、その正体があやふやで引っかかっているのだ。
 成長しない事、死を迷っている事、他には? 今までの情報を総浚いして考えるが、ユーリには閃くものが無かった。こういう事ガイが居てくれれば相談できるのだが、タイミングが悪い。ジェイドもジェイドで、言っておいてくれればいいのに、と思ったがそれが分かれば苦労は無いか。

 静かな波音が耳に触れて、ふと海を見た。青く透き通りどこまでも続いている、遠くの水平線が空に融けて綺麗だ。遠くでウミネコが高く鳴き、穏やかな風が肌に心地良い。海も別荘も流石王族所有の土地で、どこからでも見晴らしが良く爽快だ。怪しい人間が居ればすぐに分かるし、ルークの近くには常に誰かが居るので刃を仕向けられても自分で握ってもすぐに分かるはず。
 ラザリスが倒されたあの日から今日まで、ユーリは言葉や行動でさり気なくだが常にルークを励ましてきた。オレやリタ達が力を貸す、誰かに助けてもらう事に躊躇なんてしなくて良い、と。リタにルークの事を告白した際、やはりもっと早く言えと怒られて、今では積極的に関わってくれている。それをルークは時々申し訳無さそうな顔をするので、ぐしゃぐしゃっとかき混ぜて笑い飛ばす。リタもそれに気が付いてつい言葉尻を強くしてしまう場面が幾つも。
 ルークは内側に入れば入る程、その弱い心を晒す。気を許しているのだと嬉しい反面、どこか卑屈でネガティブな面を何度も垣間見た。愛されているその裏側で憐れまれているという自覚から形成された基盤は複雑で、いっそ気を張って意地を奮っていたままの方がルーク自身には良かったのかもしれないと思い直してしまう程。そのクセ妙に頑固で頑な、あまり人の意見を聞き入れない。ユーリやリタの励ましにルークが頷いた回数は片手で足りてしまう。成る程、確かにこのルークを見守り続けていればジェイド達は慎重にもなるだろうと思わせた。
 それでも、少しでもルークの意識を良い方向へ持ってもらおうと今日は殊更はしゃいで見せた。傍から見れば痛々しかったかもしれないが、ルークの笑顔が見れたのだから気にする事ではない。しかし時々、本当に自分の言葉や行動は響いているのかどうか疑ってしまう時がある。表面上では見えないその心、ルークは今どう考えているのだろうか。

 あんなに楽しかった水際の浜辺、その名残を忘れて今どこか虚しい。だがユーリはそれを無理矢理振りきって、別荘へ歩き出す。シャワーを浴びたルークを拭いてやらねば、何時まで経っても自分で髪を拭かないので床をびしょ濡れにしてしまうのだ。
 その後は昼寝をさせて、夕方のバーベキューの準備を一緒にして……。折角の楽しい機会をもっと満喫させれば、ルークの気分も上向くはずだ。そう自分に言い聞かせてユーリは歩き出した。






  


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