この世界を否定した |
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カチャカチャカチャ……器具がぶつかる軽快な音がキッチンに広がっていた。その音を背中に、ユーリは今小麦粉を振るっている最中。さらさらと雪のように降り積もる粉はきめ細かくボウルを彩っている。 *****
ディセンダーがジルディアと共生の道を歩む為世界樹へ還り、新たな産声の花びらがルミナシア中に舞い散る中。ユーリはルークの口から直接過去を聞いた。どうして、なぜ、なんで自分が……疑問から始まり、もう、やっぱり、どうしようもない……そんな諦めの連なり。想像通りユーリと出会った時から、ルークは既に諦めていた。
喉まで出かかって、ユーリの唇は閉じてしまった。ぽたぽた腕に触れる、痛い水滴。今まではっきりユーリの前では見せた事のないルークの泣き言が、形になったもの。その悲しみに触れ、どの口で言えというのか。
ほんの僅かでも、その負担を軽くする事が出来れば。そんなささやかな願いを迷わせている間に、ルークの呼吸は落ち着いて涙の線は途切れた。ぐす、と鼻を啜り真っ赤な頬をごしごしと擦る。
ユーリは全てを、確かに聞いた。だからと言って何か、特別変わるものはない。ただ何時も通り、今まで通り、ユーリがやる事になんら変わりはなかった。そもそも最初からだったのだから。
後ろのルークは踏み台に上り、ボウルを冷やしながら生クリームを立て続けている。昼下がりのバンエルティア号、船内の空気は穏やかで優しい。世界の危機が去り、人間間の戦争も自然鎮火している今、新たに発見される生物や進化で科学者達の忙しさは火を噴いている。
「ユーリ、もう腕が疲れちまったよ!」
デザート作りは繊細な見た目に反して体力勝負、筋力も結構に要求される。特に生クリーム立ては早さも必要とするので、本来ルークひとりの人力では難しいだろう。だがユーリは手を貸さず、言葉だけで励ます。一度任せたものに手を出す程、ルークは頼りなくない、そのつもりで。
食堂に広がる甘い匂いはオーブンを開ければもっと濃くなる。ユーリは四角い型を取り出して底を冷やし、ガンッと衝撃を加えてパウンドケーキを出す。弾力を感じさせながら跳ね、ほかほかと美味しそうに焼けている。ほんのすこーしだけオレンジ色も混ざっているが、焼き色と言って誤魔化せる程度。パンナイフでさっくりと厚めに切り分け、皿に行儀良く乗せた。それから、ルークが頑張った生クリーム。結局立ちが足りなくて、ロックスにルークを任せている間こっそりとユーリが仕上げておいた。味見をして、いい具合。表面が隠れるくらいの量を乗せ、ベリー2種と、彩りにミントを。
「ユーリ、腕の震えが止まらないんだけど! なんでだ!?」
筋肉痛になるまで体を使った事が無かったのだろう、お坊ちゃまでお子様ならば当然か。ユーリは笑いながら、ルークの隣に座りフォークを取ってケーキを一口大に切り分ける。そしてゆっくり、ガイ達のように口元へ運んでやった。奉仕される事に慣れたルークはあーん、と喉が見える程口を開けて待っている。これを……さっと避けてやったらどうなるだろう。ユーリはとてつもない誘惑を感じたが、吹き出しそうになる笑いを噛み殺しながら我慢した。
「うんまぁ〜、マジ美味い! オレ才能あるんじゃね?」
褒めれば調子に乗るのが見えていたので、ユーリは程々に抑えるがそれがご不満らしい。ルークは膨らませてもあまり変わったように見えない頬をぷくーっと丸めて、ユーリからフォークを奪い取ろうとした。だがそれをあっさりと躱し、次の分を切り分けて口元に運ぶ。半眼が見上げてくるが、ユーリはニヤニヤと笑ってケーキで突っついた。ぺちょりと生クリームを端に付けられ、ルークは諦めて口を開く。ふわふわでしっとりのケーキが入っていけば、どうせすぐその顔は崩れてしまうのだろう。予想通りの表情は、あっという間に現実になった。
パウンドケーキを半分以上、ルークの口の中へ収めた後だ。ナタリアやガイ、他の面々からよくお菓子を貰うルークは今更ながら、このケーキの色合いと甘さに気付く。砂糖や蜂蜜、生クリームだけの甘さじゃない。舌の肥えたルークは違和感にざらついた舌で、不思議そうにユーリへ尋ねた。
「キャロットケーキって……ニ、ニンジンって事か!? ニンジンなのかっ!?」
ルークは顔を顰めたいのか喜びたいのやら百面相。ニンジンが入っているのは嫌だが自分が頑張ったケーキ、しかも美味い。何度もユーリとケーキを見比べて、最終的に騙された怒りに落ち着いたようだ。事の本質を見逃さない賢さは相変わらずで、ユーリは勝手に満足気。
「お前このー!」
ぽかぽかと軽い拳を、口元にクリームを付けたまま奮ってくる。ユーリは笑いながらルークを抱き上げ、自分の膝に座らせた。よしよし、と後頭部を撫でて犯人である自分が慰める。口元を汚しているクリームを親指で拭い、ぺろりと食べればやっぱり甘い。こんなに良い出来で、ルークが怒る意味が分からない。いやニンジンを入れたのは自分だが。
「まぁそう言うなって。これを機にニンジン嫌いが治ったら、アッシュやヴァンが褒めてくれるぜ?」
ほら、たった二言でルークは簡単にグラグラ揺れている。アッシュの為、後出しせずに鼻頭に突きつけてやれば後はもう、頷くしかない。加えて背中を軽く押してやれば、赤子を騙すより簡単だ。
「このケーキにゃ確かにニンジン入ってるが、そんな言う程不味いか? ルークがひとりで頑張った生クリームたっぷり乗せても食えそうにないのかよ」
ユーリは新たにケーキを一口、クリームも付けてルークの口元へそっと運ぶ。尖った唇は迷いをそのままに表してもごもご、波打っているが次第に開けて、ぱくり。ゆっくり味わっている。今度は材料を知りながらも。もぐ、もぐ、もぐ、と時間を掛けて噛めば甘さはもっと強くなるのに、そうとは知らずルークはしっかり噛んでいた。
「……うまいぃ」
ふぇーん、と嬉し泣き。複雑なのだろう、見ていて面白い。ユーリはそのままルークを膝から下ろさず、残りのケーキも食べさせてやった。うまいよー、でもニンジンの味もするよー、とちっとも黙らない行儀悪さだが、この場にナタリアやアッシュは居ないのだから見逃されている。
結局一皿食べた後、悩んでおかわりを少しだけ。やっぱり美味い、と結論を出して穏やかな午後だった。食堂の扉が開かれ、騒がしい声と空気が一緒くたにやって来る。普段以上にご機嫌が続いている、マオがやっほー! と挨拶と同時に入ってきた。
「ねーねーちょっと聞きたいんだケド! この中で誕生日近い人いる? 過ぎてても近かったらいいよ!」
騒ぎも元気も持ってくる年少組は相変わらず突然の嵐。ユーリはマオが屈託なく使う、誕生日という単語に、表には出さずどきりとした。膝に座るルークからの反応は無く、きょとんとした表情のまま。
「ほらーここって人数多過ぎるから普段誕生パーティーってやんないでしょ? でもさー新しい世界の誕生会って事で、近いみんなの分も集めて一気にやりたいねーって話してたらさ! じゃあやっちゃおーよって事になって!」
アバウトな説明だが、言わんとする事は分かる。アドリビトムのメンバーは多い、いちいち誕生日の祝い事なんて費用的にも時間的にもやってられないのだ。しかし大人はともかく子供達はまだまだ、そういったものに夢と期待を持っていてもいいだろう。むしろ気を使って言い出さなかった今までが謙虚だと言える。
「私の誕生日はもう少し先なのよ」
あっさりと明るく言うマオに、ルークは頭をこてんと倒す。それから少し考えて、……もうすぐ、と小さく恥ずかしそうに言った。
「ほんと、んじゃルークも一緒に祝われる側ね! あ、でもプレゼントは用意してよねー他の人用にさ」
元気良く言って、マオは嵐のように去っていく。何時でも元気を周囲に振りまく子供だが、最近は特に元気が有り余っている様子だ。微笑ましいような、ちょっとは落ち着けと言いたいような。ラザリスの問題が片付いてからこっち、世界情勢はトントン拍子に良くなっていた。オルタ・ビレッジの経過も順調だと聞くし国家間の戦争は終戦宣言が次々と上がっており、難民救助にも手が回っている。まぁ、顔を曇らせる理由なんて無いだろう。……普通は。
「……もーすぐ」
小さな頭をますます小さく、俯かせてルークはどこか気まずそうに続ける。言葉の先をユーリは読めたが、あえて止めなかった。
「だって、歳とっても俺はどうせ変わんないし、それに……どんどんもうすぐなんだって、迫っているみたいで。……怖いじゃん」
ふと思い出す。以前アッシュが部屋で読書していた時、妙に似つかわしくない押し花のしおりを見た事。ガイが時々、机に向かって嬉しそうな顔でくたびれた手紙を読んでいた事。日常の些細な欠片に、お互いの影響が色濃く感じられる。そんな関係がとても好ましい、そうユーリは思う。
近付く誕生日はタイムリミットを突き付ける。だからルークは誕生日を好きじゃないのだろう、その分余計にガイやアッシュ達は祝おうとしていただろうとも予想出来た。だからこそこうやって、ルークの顔は複雑そうだ。キャロットケーキを食べた時のように、喜んでいいのやら悲しんでいいのやら。
「ま、でもそんなのお前ん家の話じゃねーか。今はアドリビトムに居るんだから、素直に喜んどけって」
不意にクスリと、ルークは小さく笑った。吐息だけで笑う線の細さ、ユーリはそれを振り切るように小さな背中を抱きしめて頬ずりする。くるしいだろ、呆れたような声が下から不満を漏らすが無視した。腹に回した腕は簡単に1周してしまい余るくらい。その頼りなさと暖かさに、ユーリは溜息を微か。
「プレゼント、どうすっかなー」
ルークの声は少し困っている。今までとは違い出歩ける範囲は広く、金額もある程度自由になる環境。かと言って豪華な物、もルークでは思いつかないだろう。何しろ金銭の存在は知っていても価値を知らなかった期間が長かったのだから。今度は正真正銘困り、眉根をぎゅーっと寄せてユーリに聞いてくる。
「ユーリは? お前何プレゼントするんだ?」
恐らくマオはあの調子で船内中を回り、結局船員の殆どを巻き込むのだろう。つまり総勢80人のプレゼント大交換だ、ユーリは想像するだけで疲れる。となれば誰に渡っても喜ぶような物、なんて考えるだけ無駄だ。ならば自分の得手から選択するのが冴えたやり方。
「何言ってんだ、80人分のケーキ作りだぞ? どんだけの重労働だと思ってんだ」
実際は手伝う人間が多く出てくるだろう、このギルドには料理自慢も多い。だがそういう部分は巧妙に出さず、ユーリはまだぷるぷるしているルークの腕を取って、空中で生クリームをかき混ぜる動作を作る。するとルークの顔は思いっきり歪み、やめろばか! そう叫んで振りほどく。
「どうしよっかなーガイに相談してもいいよな?」
そう言ってやればルークの頬は目一杯膨らんでから、ふにゃっと嬉しそうに緩む。それからすぐにハッとして、やっぱりまた頬をぷんぷんと怒らせた。けれど目元が戻っていないので余計に可笑しい。ユーリは笑いながら崩れてガタガタになっている眉の位置やほっぺたを戻してやれば、ルークは恥ずかしそうに、悔しそうに唇を尖らせる。
「みんなは俺に優しくしてくれんのに、ユーリはいつまでたっても意地悪だ……」
ぽつりと零す声は拗ねているが、嬉しそうな顔色は戻らない。まるで先ほどのマオのような表情。他と違っていた事が自分の味方になってくれた、そんな思わぬ喜びに小さな体は正直に反応している。それが伝染している事を悟られぬよう、ユーリも表情を作って言った。ぷにぷに、とほっぺたの膨らみを潰しながら。
「お前の手が誰にでも通用すると思ってんなよ? 少なくともオレから見ればルークもアッシュも全ッ然ガキだっての」
軽く馬鹿にするように笑って言えばルークの顔はあっという間にまたムカッと怒らせて歪む。けれど一度視線を外し、突然思い出し笑いで体を揺らした。顔を見せぬようにだろう、ルークはユーリに抱き着いてぎゅうーっと胸元に押し付ける。それでも肩が小刻みに動くし、くすくすと笑う吐息が吹きかかってこそばゆい。何よりも耳たぶが真っ赤に染まって、ちっとも隠れていなかった。
昼間の日差しが暖かくて、なんだか汗ばむな。急にユーリはそんな事を思う。窓から差し込む光は眩しくて直視出来ない、どこに居ても2色の世界樹が見えれば特に。ラザリスは還っていった、ルミナシアに解けて。雫の奇跡は幻になってしまったその、結果がこの暖かな世界。 たったそれだけの事で、どうして。 瞬間、ユーリは今すぐ懐の小さな子供を抱えて逃げたくなった。世界もライマもファブレもローレライも、もうどうだっていいじゃないか。全て捨てちまえ、無かったんだよ最初から! ぶち撒けたい衝動は業火となり一瞬でユーリの心を灼き尽くす。それを、ルークの髪をさらさらと梳く事で台無しにした。冷たい糸を指に絡めて、でも頭を撫でれば子供らしい少し高めの熱。何度も繰り返していけば段々と落ち着く。 世界に花びらが散ってからは、一日に数回こうやって、ユーリは自分の感情を黙々と冷淡に処理する。足元に残った煤は積もり積もって消えずに残り続け、今ではそれに埋もれそうだった。目を閉じて暗闇に沈む。以前はそうして静かになった感情は、奥に仕舞い込まれるだけで消えず炙り続ける。 けど、これでいい。ルークの前では大人であれ、それはきっとガイやジェイド達の共通認識だろう。それにユーリも習った。そうするしかない。
静かに沈んでいく自分の心を自覚しながら、ユーリは足掻く。言葉だけじゃないものを探して。 |