25〜28

25///天使はいたんだ5
26///天使はいたんだ6
27///天使はいたんだ7
28///天使はいたんだ8




















25///天使はいたんだ5

 翼が生えようがルークは基本的に変わらない、流石に大っぴらに街へ出る事は無くなったが、普通に依頼を受けてダンジョンで戦闘もする。ただし翼の抵抗力のせいで今までどおりの戦い方は一切出来なくなり、相変わらずよく羽根をぶつけたり扉に挟んだりしていた。
 本人は痛がるくせに、よくよく翼の存在を忘れるようで、むしろ周りの人間が気を使っている。飼育係に任命されたユーリはルークの背中を見るクセがついてしまい、間抜けな悲鳴に過敏になった。本当にそろそろ学習してもらいたい、と思う。
 毎朝部屋で翼を撫でてやり、余分な羽根を落とす作業も日常になってきた。ティアが羨ましそうに見つめてくるので是非変わって欲しいのだが、人によって撫でる加減が違うらしい。その点ではユーリが一番上手い、と嬉しそうに言っているので微妙な気持ちになる。まさか下町の爺婆達の背中を擦ってやっている動きなんだ、とは言い難い。
 ルークの兄貴分兼従者であるガイが合流するまでの辛抱だ、そう微かな期待を胸にユーリは今日もペットの鶏……じゃない、ルークを世話してやっている。


 昼食、翼が邪魔なので時間を少しずらしてルークと共に食事をする事にしているのだが。今日のメニューはルークの好物で、嬉しそうに食べている。羽根は毎朝ユーリが落としてやっているので、もうぽろぽろと落ちる事は無い。
 その場に居合わせた全員が、ルークの食事風景を微妙な顔で見ている。言いたい事はあるが、言えば恐らく悪い方向にしかいかないだろう事を予測出来た。だからあえて黙っている、大人の対応だ。その事にユーリは感謝する。
 昼食の時間を遅くにズラしたのも原因の一つ。普段食事のメニューは2・3種類用意しておりその中から選ぶ形を取っている、ルークに翼が生えてからロックス達の気配りでこうならないようにさり気なく避けていたのだ。けれど今日は偶々偶然、手違いが起こりそのメニューしか無くなっていた。
 ユーリは外食するか? とさり気なく誘ったのだが、メニューを知ったルークは速攻で席に着いてしまったのだ。やはり本人だけが気付いていない、気を使うのは周囲ばかり。
 ロックスが恐る恐る食事を出して、ルークは久しぶりのそれを、喜んでパクパク食べている。流石腐っても王族、食事の作法は洗練されていて大人しく食べていく。その様子にこれならば大丈夫だろうか、とユーリはホッとして自分の分に手を付けた。周りの面々も食事を再開し始め、このまま平和に事が終わると思っていた。
 そんな時、扉が開いてティトレイとヴェイグが入ってくる。

「あ〜、腹減った腹減った!」
「まだ残っているか?」
「お帰りなさいませ、ヴェイグ様、ティトレイ様。勿論残っているのですが、1種類しかありませんがいいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「お、ルーク! 隣座るぜ」
「お前、入ってきた瞬間からうっせーんだよ……」

 一人居るだけで騒がしいティトレイが、ルークの返事を待たずに隣の席に座る。ヴェイグはクレアから水を受け取り、向かいの席に座った。

「うんまそ〜、ルークは何食ってんだよ」
「何食ってようがいいだろ、やんねーからな!」

 陽気なティトレイが顔を覗きこみ、ルークの皿にちょっかいを出そうとする。それを嫌がり、ルークは翼を広げてガードした。手は届かなくなったが、皿のメニューはしっかり目に入ったようで、ティトレイは歓声を上げる。

「お、照り焼きチキンか! って事は俺らのも? なぁロックス」
「え、ええ……。牛と豚もあったのですが、全て出てしまいまして」
「照り焼き美味いよなぁ〜。にしてもルーク、いいのかよ?」
「あ? 何が」

 ルークのウザがっている態度を物ともせず、ティトレイは親しそうに話す。それは何時もの事なので、周りはあまり気にしない。だが今日この時だけは、それが裏目に出てしまった。ティトレイの問いかけにルークは不思議そうな顔をして、ハテナ顔で困惑する。普通に食事しているだけなのに、良いも悪いも無いはずだ。
 しかしティトレイの裏表ない正直な性格が、知っていて黙っていた爆弾をごく普通に直球で投げつけた。

「だってそれ鳥だろ、共食いにならないのか?」

 ぴしり、とその場の空気が凍る。

 ルークの全身がびたりと不自然に固まり、まるでタイムストップを受けたように表情も無になった。隣のユーリは……いやその場の全員が無言となり、食堂はシーンと静まり返る。その異様な空気を全く読まず、ティトレイは腹減った〜と陽気に食事を待っていた。
 空気を読んだヴェイグはガタリと立ち上がり、無言でティトレイを引っ張り食堂を出ていこうとする。ティトレイは訳が分からず抵抗するが、大剣を扱うヴェイグの力と空腹によりずるずると引っ張られていった。

 気不味い空気が食堂を包み込む。ユーリはごくりと唾を飲み込んで、そうっと隣を覗きこんだ。ルークの口元は歪んでいるが、少し可笑しそうに笑っているようにも見える。引き攣った笑いが本人の口から出て、苦笑を含めて普通そうに言った。

「は、はは……。共食いかぁ。そう言えば俺、羽根生えてるんだよな。でもよ、翼があるからって別に鳥って訳じゃねーし。共食いは無いよなぁ」
「あ、……ああ。もちろんだ、ただ翼があるってだけで、ルークは人間だからな」
「ええそうですとも! と、共食いだなんてあり得ません」
「だよなー、全くあいつはよぉ。でもちょっと上手いよな、共食いだとか。鳥だけに。ははは」

 ちょっとばかり違和感はあるが、ルーク本人がそう言って笑う。これは周りが思っていたよりも、特に気にする事では無かったのかもしれない。気を使い過ぎた事で高まった緊張が抜けて、食堂は一瞬和やかになる。
 だがその空気の中、ルークが両手のナイフとフォークを静かに置いた音がやたらと大きく響く。口元を軽く拭いて立ち上がり、そして真っ青な顔と死にそうな声でこう言った。

「ごめん、トイレ……残りいらない」

 覚束無い足取りで、ふらふらと出て行く。ユーリはそれを静かに見送って、悔やむような声で言った。

「……だよなぁ」

 すぐに立ち上がり、ルークの後を追いかける。この日から数少ないルークの好物であったチキンは、食べられない類に仲間入りする事となった。





























26///天使はいたんだ6

 陽が暖かい日中、甲板の照り返しで汗ばむくらいの陽気の中ルークは仁王立ちしていた。翼をばさりと広げる様は風格を感じさせ、見た目だけならば天上の使いのよう。
 場所は街近くの停泊場所、視線の先はいつも通り一面の海が広がっている。バンエルティア号の最先端部首でルークは意気揚々と今日の意気込みを語った。

「俺は鳥になる!」
「もうなってるじゃねーか」
「ルーク、危ないよ? もうちょっと浅瀬の所にした方がいいと思うけど」
「頑張れルーク!」

 ユーリと、クレスとロイドが思い思いに声援を贈る。ルークは自信満々の笑みで羽根をふわりと広げ、軽く羽ばたく。最近やっと思い通りに動かせられるようになった、と言っていたらこれだ。翼があるんだから飛ぶのは当然の流れだろ! と言うその気持ちも、まあ分からなくもない。けれどそれをルークがする、となるとどうしてか付きまとう不安が消せなかった。
 ルーク専属飼育係として最近自覚あるユーリは、半分止めさせたいが半分やらせてやりたいという複雑な心境。どうせ言い出したら聞かないのだから、自分が止めても無駄だろう事は知っている。けれどルークは案外、真剣に案じて頼めばきちんと言う事も聞く。だからこそ迷う、飛ばせるべきか止めさせるべきか。

 あまり翼に慣れ親しむと、本当に翼を切除しなくなるのではという懸念がある。なんだかんだ言ってもルークは王位継承者なのだし、このままでは人前に出る事も困難になっていくだろう。今はアドリビトムで好きなように出来るが、将来的には必ず切らなくてはならない。
 翼を自分の一部として認めてしまえば、その時余計に苦しんでしまうのではないか。ユーリはその事を危惧しているのだ。痛みもそうだが、自分の一部が欠けるという喪失は思った以上に精神のバランスを崩す。それが特別なものであれば余計に。
 飛べるようになり翼の有用性を実証してしまうと、それを推進してしまうのではないか。そんな保護者のような心配が尽きない。

「よぉし、いくぞーっ!」
「重い物は外しなよ、剣は置いた?」
「気合だルーク! 飛んだ瞬間が大事だってコレットも言ってたぜ」
「おい、せめて救命胴衣を着けろ」
「いらねーよ、何しろ俺には翼がある! むしろ邪魔!」

 海面は穏やかで、天気も良い、風も少ない。けれどバンエルティア号は船体自体が大きいので、ここから飛び込むと結構な高さになる。入水角度を調節出来ればいいが、もし体全面で水面を打てばかなりの衝撃になるだろう。
 そもそも翼があるだけで飛べるのか、人間の重さに耐えられるとは思えない。ウィルとてルークの翼では無理だと言っていたのだから、こんな事無駄だろう。けれど案ずるより産むが易し、とも言う。実際やってみなければ分からない事もあるだろう、ルークの場合で言うと実際やって失敗を体験させなければ理解しない。
 ユーリは溜息を吐いて、ばさばさと元気良さそうに羽ばたくルークの背中を見つめた。

「でりゃあああああっ! ルーク、いっきまーーーーすっ!」
「飛ぶ前に転ぶなよー」

 ダダダダッと助走をつけ、ルークはダンッ! と船首部から勢い良くジャンプした。
 空色の空間に、ルークの朱金がきらきらと反射し背中の羽根が全開に広がって羽ばたく。その姿は一枚の絵画のように完成されており、ユーリは言葉を忘れて見惚れた。天使と言うには神秘さは足りず、けれど鳥のように自然へ溶け込んでいる訳でもない。上手く言葉にする事は出来なかったが、この姿そのままがルークという存在なのだろう。

 ルークは背中の羽根をばさりと伸ばして風に乗り、そのまま鳥のように飛んで……行くのかと思う程優雅なポーズだった。そんな優雅なポーズのまま、斜め鋭角でばしゃん! と思い切り海に落ちる。恐らく空中10秒も保たなかったのではないだろうか。
 乗る風すら無く、高いと言ってもルークの体重ではやはり重すぎた。そして何より翼の使い方、ぶあっさぶあっさと無意味に一生懸命羽ばたいて、自ら落ちるスピードを早めたのだ。

「ルーク!」
「ルーク、大丈夫!?」
「船体に梯子があるから、それに掴まれ!」
「あばばばばばばっ!!」

 ルークはばしゃばしゃと暴れて、ほぼ溺れている。羽根の浮きでなんとか持ちこたえているようだが、あの暴れっぷりではすぐに海水を含んで逆に重りとなってしまうだろう。

「あいつ泳げないのか!」
「う、浮き輪! 浮き輪を投げなくちゃ!」
「俺が助けに行く!」
「待て、濡れた羽根ごと持ち上げるには無理がある! えーと……セネル呼んで来い!!」

 一瞬パニックになるが、ユーリの言葉でロイドが船内に走ってセネルを呼びに行く。クレスは近くにあった浮き輪をルークの近くに投げ大声で声をかけるが、必死なルークが大暴れする波の動きで遠ざかってしまう。

「あんの馬鹿、泳げないなら先に言え!!」
「そうだ、僕が次元斬でルークの真上に飛べばいいんじゃないかな!?」
「ルークが真っ二つになるから止めろ!」
「けどルークが……! あ、あー! 沈んでる、沈んでるよっ!」
「ああもう待ってられるか!」

 がぼげべごぼ……と無情にもルークは沈んでいき、白い翼があっという間に海の底へ飲み込まれていった。ユーリは辛抱堪らず飛び込み、近くに浮いている浮き輪を掴んでルークの近くまで泳ぐ。海面近くに羽根が散らばっていて、ゾッとする。
 ユーリは慌てて潜り、水中で未だ手足をバタつかせているルークの羽根を引っ掴んだ。そこから引っ張り、腰を掴む。やはり羽根の分かなり重い、だがまだ水中の浮遊が効いている分マシだ。なんとか力を込めて海面まで上がり、浮き輪を掴んでルークの体に掴ませた。

「おべげえええええっ!」
「はあ、はぁ……。泳げないのに、……海の上で…ゼイ、飛ぼうとするんじゃねぇ!」
「らって、……羽根があるんだがら大丈夫だと思ったんだよぉ……げほ、ごほ!」
「お前はあほかああああああっ!!!!」

 ユーリの心の底からの罵倒が、空高く一帯に思い切り響き渡る。救命胴衣も断るし自信満々だったから、最低限大丈夫だろうと信用した此方が馬鹿だったのだ。ルークに常識は通用しない、今回の件でユーリはそれを嫌になる程思い知らされた。

 その後慌ててやって来たセネルに救出され、ルークは盛大に叱られた。ウィルとアンジュとジェイドとアニーと……まあ船員の殆どの大人たちに叱られたのは言うまでもない。けれど同時に、飼育係であるユーリもしっかりばっちり怒られ、なんとなく理不尽さを感じずにはいられなかった。
 ガイとやらが来るまで待っていては、自分にとばっちりが甚大にやってくる。その事を身に沁みて実感し、ユーリは恨み拳を握り締めたのだった。





























27///天使はいたんだ7

「さむい、さむいぃぃぃ〜っ」

 がたがたた、とルークは可哀想なくらいに震えている。バンエルティア号は現在、ロニール雪山付近に停泊していた。その煽りを食らって、ある種鉄の要塞であるこの船内の冷え込みは痛いくらい。
 ルークは朝一番に廊下でユーリを直撃し、がしりと抱きついた。背中の羽根をふわりと広げて纏い身に纏わせる。ユーリは呆れながら、無防備に露出している腹と背中部分を撫でてやった。

「お前、腹出してるから……。長袖着ろ長袖」
「長袖着ようが羽根があるから、どっちにしろ背中は寒いんだよおおおおぉ」
「ああ、……そりゃどうしようもない」

 ぐりぐり、とルークは頭をユーリの胸元に擦りつけ、寒さからじっとしていられない。ユーリは仕方なく部屋に戻ってベッドに座り、抱きついているルークごとシーツを被せて暖を取った。

 翼が生えたせいでルークの背中は全開だ、裁縫のできるルーティに頼んで元の服を改造している。けれどそれ専用にするのも難しいので、結局の所丈を短くして肌を出しっぱなしにしているのだ。それでは寒い気温の時は中々に辛いだろう、それに翼のせいで空間を取ってどうしても隙間が出来る。ぺたりと畳んでも骨格の問題で、どうしても鳥のようにぴったり閉じれないのだ。

「さむい〜、ユーリ寒いんだよぼけええええっ」
「暑さ寒さに文句言ってもしょうがねぇだろ、諦めろ」
「暖炉くらい設置すればいいのにいいい! へっぷし!」
「お前、また羽根ぶつけてるぞここ。気付かなかったのか?」
「寒くってあんまり痛み感じないんだよな……。ある意味便利だ」
「よくねぇだろ、ったく」

 ユーリは正面から温めるように抱き締めつつ、背中の震えている翼をチェックする。朝の間にまたどこかでぶつけてきたのか、羽根が所々乱れていた。それを丁寧に整え直し、ついでに余分な羽根を落としていく。その後は羽根を撫でたり背中を擦ってやれば、摩擦熱で少しずつルークの震えは治まっていった。

「もう俺、ここに停泊してる間は部屋から一歩も出ないからな!」
「じゃあ水浴びも風呂も無しって事か、ああそれに食事も」
「風呂は入る! 飯は持って来い!」
「氷風呂に入りたいらしいな、お前」
「しゃぶいいいいぃ! あーもう止めろ止めろ寒そうなセリフ言うんじゃねえ!」

 ルークはシーツを両手に持ってユーリの胸元へぎゅーっと力いっぱい抱き着き、亀が甲羅へ引き籠もってしまったような形を取る。ユーリは呆れるが、まあ確かに今のルークではこの寒さは辛いだろう事も想像出来た。
 それに翼を纏い正面から抱き締め合うと、羽毛の効果なのか思った以上に暖かい。以前に背後からの翼でぶつけられた時、口に羽根は入るはばっさばっさうっとおしかったのだが……。慣れるとまぁ、案外可愛いものである。
 なのでユーリも自分の暖を取るために、ルークを締め過ぎない程度にぎゅっと抱きしめてやった。すると嬉しそうに、引っ込めているシーツの中からうへへ、と怪しい笑い声が漏れている。それに苦笑して、シーツの上から優しく翼を撫でてやった。


 その光景を、傍から見ているフレンは正直戸惑う。怒るべきだろうか、だがルーク様が寒そうなのは確かだし……。うーんうーんと悩む横では、エステルとジュディスがキャッキャッと喜んでいた。

「鳥達が身を寄せ合って暖を取っているみたいで可愛いです!」
「そうねぇ、小さい生き物達が重なりあっているのは可愛らしいわね。彼らは結構な大きさだけれど」
「毛布を持ってきて差し上げた方がいいのだろうか……」

 フレンの気遣いで毛布を渡したが、どちらにせよ二人抱き合う状態は変わらずむしろぬくぬくとなって強固になったと言う事だけ言っておこう。





























28///天使はいたんだ8

 躾は重要だ、悪い事をしたらすぐに叱る。何故いけない事なのかきちんと教え、どうすればよかったのかと自ら考えさせれる事が出来れば一番良い。感情的に怒ってはいけない、相手は良くも悪くも素直なのだから。
 と、いう考えの元でやっていたユーリの堪忍袋の緒も、ついに切れた。何度言っても直らない、止めようとしない。叱ればその時は唇を尖らせながらも反省のポーズを取るのだが、次回は忘れて同じ事をやる。
 ユーリは結構キツ目に怒っているつもりなのだが、怖さが足りないのだろうか。例えばルークは、ジェイドがあの笑顔で叱ればすぐに反省して止める。時々忘れてしまう事もあるが、基本的には二度としない。
 だが恐怖で縛る、というのもあまりユーリは好みでは無かった。出来れば自分で辿り着いて欲しいのだ、どうしてこうも叱っているのか。だから今まである程度許容して見守ってきた、成り行きとは言え飼育係として任命され出来る範囲の事はしようと。

 それがぷっつりと切れ、こうなるともう実力行使しか無いという結論に出た。

「やーめーろーふやけるううううっ!!」

 ルークはばたばたと暴れるが、翼を捕らえられて身動きは僅かなもの。必死に手足で背後のユーリを振り払おうとするが、悲しいかな届かない。むしろ暴れれば食い付きは強くなり、背中の皮膚にびしりと引き攣りが走る。

 翼が生えている肩甲骨の辺りは敏感で、弱点だ。触れられると弱いし、根本を持たれると取れてしまいそうで怖い。なんというか、抜けそうで抜けない歯、みたいなものなのだ。だからルークはこの箇所を滅多な事では人前に晒さないし触れさせない、ライマの人間とクレスとロイド、後はユーリくらいだろうか。
 逆に言えば見せたり触らせたりするのは余程信頼していて、安心を任せている相手。痛い事をしないと思い信用しきっている人間だ。だからそれを裏切られるだなんて、思ってもみなかった。その衝撃たるや、人前で格好悪い事は絶対にしないと心から誓っている誓いをあっさり投げ捨ててしまうくらい。
 それ程今ルークは、涙目でばたばたと暴れて抵抗していた。

「やめ、やめろばかあああっ! ふやけるから、うぎゃああああああっ!」
「じゃあもう水浴びした後、羽根を拭かずに逃げないな?」
「めんどくせええええええっ! 広げれば一発じゃんか!」
「それを船内で、わざわざ人が集まってる所でやるんじゃねぇ! 今日と合わせて今まで何回叱ったと思ってんだ反省しろ!」
「だって、だって水滴で羽根が重いからすぐにやりたいんだよおおおおお! うあ、やうっ……! 根本噛むの止めろおおおおおっ!」

 背中の翼付け根辺りは、何度も言うが敏感だ。ユーリはルークの翼を両手で押さえ、その付け根部分をあぐあぐと噛んでいる。翼の根本骨に当たる感触がルークに鳥肌を立てさせ、とにかくじっとしていられない。唾液でじゅくじゅく濡れて少し重くなっていく感覚もしっかり感じ取れるくらいなのだ。
 海で溺れてから、羽根が濡れる感覚に過敏になっている。ずっしり重くなるあの背中の引き攣りは恐怖を呼んで、正常で居られない。だからルークはひたすら取り乱し、ばたばたと泣き叫んで暴れた。けれどユーリはルークの第二の飼育係と名高く、扱いはかなり手慣れられてきている。死角かつ手の届かない位置、身動きを一度に封じる手捌き。まさしくルークは羽根をもがれた鶏だ。

「はう、うぅ……。だめ、ゆーりそれやだっ」
「悪い事したんだから、ちゃんとごめんなさいするまでは許さねーぞ」
「ううう、だってよぉ〜。うびゃー! わかったわかったから噛むのやめろ千切れるっ、出汁が出るうううううっ! ごめんなさい、ごべんなざいーっ!!」
「もう二度としないか?」
「しない、しないからー! ちゃんと拭きますううううっ!!」
「約束するな? もし次したら……カイウスに羽根を噛んでもらうからな」
「やめて食べられるうううううっ!! 約束するってば、あ、あ、ああっ……! いぎゃーーーっ! はなせえええええええっ!!」
「約束は約束として、とりあえず罰はきちんと受けてもらおうじゃねーか。あぐあぐ……」
「ごーめーんーなーさーいぃーーーーーっ! あーっ! チキンになるううううっ!!」

 ユーリの体当たりな躾の現場を、アンジュはびしょ濡れのまま微妙な気持ちで見ている。周りの人間も同様だろう、ルークの翼に付く水滴の量は見た目以上に多いので犠牲者もそれなりだ。けれどそれ以上に、この目の前の光景にどうしていいのか分からない。
 躾は、まあ重要だ。毎回ルークに犬っころよろしくブルブルされては困る。だがいくらなんでも、エントランスホールで多人数が見ている中やらなくてもいいと思うのだ。すぐに叱らないと忘れてしまうから、と言う理屈はちょっとばかり動物過ぎていると思う。ユーリは飼育係として相応しいかもしれないが、本人思う以上にハマリ過ぎているのではないか。

 ルークの翼根本をあぐあぐと噛んで躾をしている黒衣の断罪者さんは、一体どこへ向かっているのだろう。恐怖に慄き震えているルークの声は、時々甲高くなってそこだけ聞けば誤解させてしまいそうだ。船員全員が利用するこのエントランスホールで、15歳未満入室禁止指定なんて掛けれる訳も無い。
 一先ずこの姿を何も知らない依頼人に目撃されない事を、ただ祈るだけである。








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