chicken or the egg








1
-二度目の最初-



 朝と例えるには少しばかり首を傾げる時刻、自室のライマ部屋からルークはコキポキと首を鳴らしながら出た。いくら寝汚いと言われる己でも、少々寝過ぎて体が痛い。そんな自業自得にティア達は起こす事も放棄したらしく、今朝気が付けば部屋に一人。
 ぶつくさ愚痴りながらものそのそと着替え髪を適当に整える、それを身支度と言うと、本人の代わりに日頃整えているガイが嘆きそうな有様。しかしそうやってガイが手伝ってしまうせいで、本人がやらなくなるという悪循環なのだから、主従揃って仕方がない話だった。

 早起きは無いがここまで遅起きなのも珍しいルークの頭の中は、あれだけたっぷりと睡眠を貪っておきながらいまいちスッキリしていない。何故なら昨夜ルークの頭の中をモヤモヤで埋め尽くして寝不足にした原因が、結局何の解決もしていなかったからだ。一晩気が済むまで眠れば翌日忘れているなど都合のいい仕様になっていない、こればかりはそうそう表に出さないルークの繊細さが仇となっていた。



 それはこのアドリビトムでは恒例になりつつあった光景の一つ、ルークとユーリの喧嘩。喧嘩、と言うにはあまりにそれらしくは無いのだが、ルークは喧嘩だと思っている。双子の弟とする様な険悪さではなく、カイウスとルビアが行うような痴話喧嘩でもない。あれはそう、冷戦だ。仁義なき戦いなのだ。

 ルークが何か発言すれば、その足元を取ってユーリが皮肉で閉める。傍からの見解は我儘を言う子供に、大人のお兄ちゃんが少し意地悪して諌めている、そう映るらしい。全くもって遺憾だ、憤慨モノだとルークは思う。あれはそんなのほほんとしたものではない、ケチなイチャモン付けだ! あの真っ黒野郎が同席するとルークの気分は急降下する、というのが最近の常だった。
 昨日だってそう、何が原因だったか忘れてしまったのだが酷いものだった筈。頭の中でイライラムカムカしすぎて、事の発端を忘れてしまったのだ。覚えていないという事はどうせ大したことではないのだろう、そんな大した事のないものでルークは一晩深夜までモヤモヤして眠れなかったのだから、なんというか。きっとジェイド辺ならば「馬鹿の考え休むに似たり」と切り捨てるだろう。ガイは勝手な心配を勝手にして、ルークに「一緒に謝ってやろうか?」などと言い出すのだからより腹立たしい。

 どんどん怒りがかさ増しして、ルークの怒りは倍々に跳ね上がる。大体あいつが悪いのだ、毎回毎回気に入らなければ関わってこなければいいのに目ざとく口を挟んでくる。あいつは舅か! 昔の何でも怒ってきたアッシュの再来のようだった。ちなみ現在の弟はその期間を通り越して極寒期だ、溶ける春は訪れそうにない。

 ふぅ、と無意識に溜息。……そんなに俺の事嫌いなら、無視すればいいのに。毎回ユーリはタイミングが良いのか悪いのか、図った様に現れる。その度にギャンギャンと一方的な喧嘩だ、これが殴り合いならばまだ実力不足で負けを認められるだろうに。そんな事をこの船内で出来る訳も無くそもそもユーリが乗ってくる筈も無い。勝手にこっちがフラストレーションを貯める一方で、いい加減消化不良を起こしそうだった。



 頭をガシガシと掻き乱し、その場で地団駄を踏んだ。くそむかつく、俺が無視してやる、絶対してやる、謝ってきてももう許してやんねーからな!! そうプリプリ怒りながら廊下を歩いてエントランスへの扉を開けようとすると、勝手に開いた。あちら側から誰かが開けたのだろう、正面を見ると真っ黒が広がる。
 ……いや違う、それはユーリだった。さっきまで心の中でとは言え思いっきり罵倒していた張本人が目の前に現れて、ルークは少しばかりの気まずさで戸惑う。しかし無視するのだと先程一人で宣言したばかり、無視だ無視! と呪文の様に念じながら顔をわざとらしく反らしてやった。
 どんな皮肉が飛んでくるのか、王家のお坊ちゃまは目が横に付いているらしい、だとか言われるんじゃないか。いやそれは3日前言われたセリフだった、ルークは無視する事を忘れて緊張しながら無視した。

 すると何故かやってきたのは皮肉でも朝の挨拶でもなく、……堪えるような笑い声。クック……と、隠しきれていない声が余計に目立って聞こえた。

「な、なんだよ」

 ぎょっとして振り向けば、ユーリが手で口元を押さえつつも、体を曲げて笑いに耐えているではないか。この男がこんな笑い方をするのは見たことが無い、ルークは逆に少し怖くなった。しかし冷静に考えなくとも失礼な態度だ、出会い頭に笑われるとはなんという屈辱。これは流石に無視できない。先程誓った宣言を即刻破って、朝一番の大声で噛み付いた。

「ちょ、ざけんなお前! いきなり人の顔見て笑うって……失礼にも程があんだろーが!!」

 着火したように怒り出すルークに、その声を聞いてますますユーリは吹き出した。ぶはっ! とはっきりと声まで出して、体をぶるぶる震わせている。こんな姿、むしろ見たくなかった……。ルークはどこかやり切れない怒りを沈めて、今こいつに何を言っても無駄だと判断する。
 当初の予定通り無視だ、そう決意を新たに横を通り過ぎようと歩くと、がしりと腕を掴まれた。ユーリ本人はまだ笑っているというのに、ルークの行動はしっかり見ていたらしい。若干強く握られたそれを振り解こうとするが、どうにも外れそうになかった。

「離せよ、うぜぇ」

 キッと睨み付けるが、相手はまだ顔を反らせて笑っている。お前ちょっと笑い過ぎだろ、キャラ変わってんぞ……! イライラが頂点に達して、いっそ蹴りつけてやろうかと思った。というか蹴った、瞬間的に。しかしそれは相手に軽々と躱され、弧を描いてつま先が空に飛んだ。

「うおっ!?」

 予定していた着地点が無くなりバランスを崩したルークは、情けない声を上げて後ろへ倒れこみそうになった。しかし背中に当たるのは床の冷たくて硬い感触ではない、誰かの腕。
 え? と視界が反転しながら混乱に撒かれるルークは訳が分からない。天井の電灯が見えたかと思ったら、黒いカーテンみたいなものが視界を遮って、最後はニヤリとしたやたらと自身満々な笑み。

 え? え? と思っていたら、その顔が驚く程近づいて来て、ルークの顔にくっついた。

 ――え? え? え?

 頭の中で”え”と”?”が盛大にパーティを開いて、タンゴを踊っている。そこでメロンとトロピカルピザが楽しそうに談笑していた、今後の地価沸騰がうんたらかんたら、までは聞こえた。

 ふにゃんと柔らかな感触、唇から。少しグミに近いか、けどもっとやわこい。ルークは昨日食べたミラクルグミを思い出しながら今この触れているものと比較した。

 ……ってえ違うだろうがああ! 今グミなんかどうでもいいんだよ! ちげーだろ、なんなんだよ! どうなってんだよ!!

 ルークの視界には、黒く長い睫毛しか映らない。白と黒の境界線で揺れる影が輪郭を作って、そこへさらさらと紫黒の前髪が横断している。電灯に反射して人工的な光を纏っているのに、妙に妖しい雰囲気を思わせた。相変わらずこいつは無駄に綺麗で……いやいや、なよなよしいってんだ!



 ルークは迷走する自分の思考を無理矢理中断し、思い出したように暴れた。けれど背中の腕は片手のクセに中々外れそうになくて、焦りを呼ぶ。防がれたままの口で、んがーっと怒りを籠らせて叫んでようやっとユーリの皮膚は離れていった。
 ホッとした瞬間、ペロリと上唇が濡れた感触。驚いてクワッと目を見開くと、また驚く程近い正面に黒曜石の瞳。ニヤリと笑ってイタズラが成功したような顔で、ルークの下唇を左から右へ遠慮無く舐め上げてから今度こそ離れていった。

 呆然として、ユーリに支えられて立たされ、ついでに髪も手櫛で梳かれる。よし、んじゃ行くか。そんな呑気な声を耳に入れて、ルークはハッとした。そして今朝から今までの出来事を頭の中でリピートし、ついさっきまでの事件を再生しようとする所で止まる。衝撃的すぎて覚えていない、人は余りに驚くと記憶が飛ぶらしい。
 しかしそれを裏切るように濡れた己の唇、目の前の男。どうした? なんて声で妙に優しい顔。ルークの前髪をパラリとはねさせ、額に手を当てて熱を測られる。その触れてくる手の温かさに、停止していた映像が再開された。頭の中で自動的に流れる画面に血圧が上がり、怒りと驚きと割れたプライドとグミの元がごっちゃに混ざり合う。そしてそれが割れた風船の様に爆発して、腹の底からの大声が廊下に響き渡った。

「な、な、なん、なに、おおおおおおまええええっ!?」

 ずざざざ、ドン! 煙を上げる勢いで後ろの壁まで後ずさる。後頭部を打ったが気にしていられない、驚愕が痛みすら凌駕したのだ。混乱して何がなんだか分からない、いや何をされたのかは分かっている。男相手にキスされたのだ、こいつは頭がおかしいのか。
 そりゃこの歳でファーストキスだとか馬鹿な事を言うつもりはない、男相手なんてノーカウントだというのもあるが。もし男もカウントしなければならないなら、ファーストキスは恐らく父親か母親だろう。ちなみにセカンドキスならばこれもやはり両親どちらかか、アッシュになる。

 ……そうじゃなくて。思考が飛び飛びになっている事を自覚しながらもどうにもならない。分かっていても足にバネが着いたように考えがアチコチにいく、目的地に辿り着くのを嫌がるように。

 そう、キスはこの最もういい、事故だ。そういう事にしておけ。そうでないと根本の大事な何かがガラガラと音を立てて崩れてしまいそうで、あまりにも危険だった。けれど問題はその事故がこの男と起こって、しかも仕掛けてきたのがこの男だという事だ。
 何を考えているのか、昨日喧嘩したばかりではないか。というかこいつは女みたいな顔して、やはり女だったのか? ……いやいや、女が出会い頭に唇にキスをしてくるなんてそれこそ問題だ。エントランスで転職する度に下着姿になるディセンダーも大概だが、いや今その比較はいらないだろうが。



 罵詈雑言を浴びせたいが、声が出てこない。ぱくぱくと口を開いて震える指で指し、壁のもっと後ろまで身を守らんとべたり貼り付くルーク。そんな姿に目の前のユーリはきょとんとしている。なんだこいつ、”何がおかしいのか分からない”って顔しやがって、にしてもやっぱこいつの目デケェ、ティアよりでかいんじゃねーの? なんてまた思考が飛んでは帰ってきて、目の前の男が整えた部分の存在が許せないと言わんばかりに、ルークは自分の頭を掻きむしった。

「何しやがんだテメェー! へへへへへ変態かっ!!」

 そんなルークの暴言にも、ユーリは何故かまた笑い出す。なあっ!? 変態だと言われて笑うとは、……もしやこの男の頭はどうにかなってしまったのではないか。昨日までのユーリならばこれにタップリの皮肉と少しばかりの嫌味を込めて返してくるはずなのに。いやそもそも昨日までのユーリならばこんな自体丸ごと起こらないだろうが。

 そもそもここアドリビトムには位が高い人間は地味に多い、なのにユーリが何かしら口を挟むのはルークにだけ。その内容も態度が派手なルークをからかって諫めるものなのだから、フレンの胃を少しばかり痛めるだけで周りとしては微笑ましく見ていた。

 しかしそれ自体がルークからすれば納得がいかない、ユーリの評判は悔しいがやたらと高く自分が抗議してもマトモに聞いてもらえないのだ。貴族嫌いと評判のユーリが自分以外の貴族王族にも同じ態度を取っているならばともかくどうして自分だけ、まるで自分がこの地位に相応しくないと言われているようで非常に腹立たしい。

 どちらにしても昨日とあまりにも違いすぎる、まるで人間が裏表へとオセロの様に引っくり返ったみたいだ。しかし人間はオセロではない、これは本格的に医務室で見てもらったほうがいいのではないか。いや頭の問題ならば科学部屋か? あのマッドサイエンティストに解剖されてしまうのか……こ、こいつはそこまでやばかったのか!? と想像の翼を広げて旅立つルークに、ユーリはいつの間にか目の前まで来ていた。

「や、やんのかよっ!?」

 目の前に黒衣と開いた胸元、いつもの端正な顔。口では威勢のいい言葉を吐きながら冷や汗を背中に滲ませる、体は正直で無意識にこの意味不明な存在から逃げ出そうと後ろの壁に爪を立てて焦る。すり足で横へ逃げようとすると、ユーリの足が先回りした。
 足元へ視線を向けると、頬に誰かの手が触れてくる。誰かなど考えなくとも分かる、目の前の人間はユーリ・ローウェルしかいない。顔を上げれば視線がかち合う、今日何度口に出さずに疑問符を上げたか分からない、しかし今日一番の大物が飛び出たのはすぐ。



 触れてくる頬の手が流れるようにするすると動いて顎を取って上向かされる、あ、と思った瞬間口内へぬるりと侵入する無礼者。真っ赤に焼けた火掻き棒でも突っ込まれたのかと思う程熱い塊が、ルークの口内も思考も掻き回した。
 何も書かれていないまっさらな羊皮紙にインクを全部ぶち撒けたような心象が広がる、それか身長と同じ高さまで苦労して積み上げた積み木が一斉に崩れたか。どちらにしろガチャン! という耳障りな高音が脳内中に響き渡る、城のパーティホールを照らしていた豪奢なシャンデリアが落ちてきたかのように。

 秒針が隣に歩く間を1時間のように錯覚して、気が付けばルークの手が出ていた。魔神拳を超至近距離でユーリの腹へぶち込む、この最相手の事などどうでもいい。口元から垂れる唾液を手の甲で拭い、轟々と緑碧を燃やして睨みつけた。
 しかし強襲を受けたユーリはケロリとしていて、長髪を揺らめかせただけ。そして事も無げにこんな事を言い出すのだから、元々短いルークの堪忍袋の緒は切れた。

「どうした、何怒ってんだ?」
「怒るに決まってんだろうがあああああっ!?」
「……昨日の事まだ引きずってんのか、しゃーねぇなお前」
「な、それはっ……」

 確かに今朝起きてからついさっきまで気にしてはいたが、今の出来事で帳消しというかオジャンだ。ユーリとて普段そう物事を引きずったりしない、良くも悪くもサッパリしているのが彼の持ち味だった。けれど昨日はそれ以上に怒っていたようにルークは感じたのだ、だからこそ一晩経っても忘れられず、モヤモヤとしていたというのに。
 けれど目の前の男はフッと柔らかく笑い、近付いて来て乱れたルークの天辺を勝手に整えだす。

「昨日はオレが悪かったって、そんな怒んなよ」
「……え」

 しかし予想外にあっさりと謝られてしまった、相手の手は撫で付けてクセ毛を整えながらも時折項へそろりと悪戯される。
 声色に納得いかない部分があるが、相手からの謝罪が入ってしまえばそれ以上詰め寄る訳にもいかない。ハリネズミのようになっていたルークの朱色を整理整頓して、これでよし、と上から声が。

 9cm差というのは相変わらず憎々しい、まだ驚愕が抜け切らない思考で少し上のその顔を見上げる。するとそれに気付いたのか、今日何度見ても違和感を感じる今日何度も見ている柔らかな笑顔を向けられた。
 その表情はまるで愛しい者でも見るような眼差し、両親、特に母親から受ける慈愛の瞳と似ているようで違う面差し。感じたことのないそれに、ルークの混乱は最高潮を通り越して一周する。表情も声も優しい、行動もだ。昨日までの少し冷たい視線と言葉が嘘のように。ほら、行こうぜルーク。そう言って手を捕られる。

 ルークは我が耳を疑った、この男から自分の名前が出てくるとは。いつもお坊ちゃまやら貴族様だとか呼んで、名前など”L”の一音だって出たことがなかったのに。しかもその響きが自然で、何百回と呼んだかのよう。
 おまけに手を握られている、指を絡めて、手の平が熱い。牽かれる強さにたたらを踏めば、何やってんだ、と苦笑が降ってくる。また髪を梳かれて額へ触れてくるユーリの唇、それらのワンステップ毎を他人事のように見つめて。



 エントランスへの扉が思い出したように開いてユーリが一歩足を進めた瞬間、ルークは繋がれた手を強い力で振りほどき、おもむろに無防備な黒い背中を力いっぱい蹴りつけた。うおっ! と少し慌てた声を無視して駆け出し、全速力で自室に逃げ戻る。
 部屋のソファや荷物をドカドカと扉の前に集めて重ね、バリケードを築き上げた。一番手近のベッドすら運んで立て掛けた、これが誰のベッドだったか考える余裕が無い。ヴァンならば謝ろうと考えつつもそれを戻すつもりは無かった。

 ゼェハァと息を荒げて、一仕事終えた後は一番奥の自分のベッドへ飛び込む。頭からシーツを引っ被り、そのテントの中で枕をぼすぼすとぶちのめす。扉の外から聞こえてきそうなあの声の幻聴が嫌で、ルークは頭の中であの紫黒の塊にひたすら全力全開で秘奥義を浴びせ続けた。





 それは夕刻、部屋に戻って惨状を見た後、ヴァンが声を掛けるまで終わらなかった。







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