不思議な事は扉の中で








3
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 夜、ユーリは帰宅して玄関の鍵を開けた。流石に今夜は扉から水は流れてこなかった、当然だが。しかし代わりに鍵を開けるにも苦労した。今日は何故か行く先々で無料キャンペーン配布をやっていたり、落し物を拾って届けたらその場で持ち主が現れて数々の品物をお礼として渡されたり、料理の味を見てくれとタッパーを渡されたり、バイト先で数人別々からお土産を渡されたり……。やたらと物を貰う日だった。
 しかし何となくだが、この状況の犯人は分かっている。今日一日謎の幸運が起こる度に、何か青っぽい妙なものを目にしたのだ。こんな不可思議な事、思い当たる事と言えばルークしかいない。今朝あんな事を言って、ユーリの気持ちを動かそうとしているのだろうか。

 確かに今日起こった事はあり得そうな範囲の幸運で、ちょっとラッキーという程度。あれが別々の日に起これば、の話だが。些かあからさま過ぎて逆に迷惑だ。そしてあれも誰かの手で仕向けられたと知っていては、素直にただの幸運とも思えなくなってしまった。こういう所が小市民すぎて向いていないのだとつくづく実感する、取り敢えずルークに一言文句というか叱っておかなければ気が済まない。今夜帰るというのに、最後くらい気持ち良く送り出させてほしいものだ。

「おいルーク、お前何やったんだ?」

 ガチャリと玄関を開けて叫ぶと、キッチンもリビングも真っ暗だった。しかし暗闇の中、どこからともなく小さな囁き声がする。不思議に思ったユーリが傍のスイッチを点けると、ぎょっとした。
 床中に青いふよふよした輪郭の無い妙なモノがわんさか蠢いている。それは青い液体のような気体のような、掴みどころのないモノ。ミュウミュウと囁くように鳴いているのは分かるが、音の発生源が分からない。狭い部屋で音を四方八方反射させているような奇妙な感覚。そしてその青いモノはユーリが今日一日中目の端に捕らえたモノで間違い無く、やはりあいつの仕業かと確信した。

 しかしキッチンにもリビングにも、その肝心なルークが居ない。コタツの中をめくってもベッドの中も居ない。コタツの上に置かれた皿は空になっていて、同じく空のコップがコロコロと倒れて転がっている。それに青いモノが遊ぶように数匹纏わりついていた。見た感じ悪いものでは無いのは分かるが、じっと見ていると現実の柵が壊れそうになるのであまり見ていたくはない。

「どこいった、まさか帰ったとか……?」

 こんな訳の分からない変なモノ残していくなよ! と焦る中、カタリとバスルームから物音がした。一瞬物取りかと考えて、すぐに否定する。この家に価値のありそうな物は置いていないし、通帳と判子の場所もトップシークレットで親友しか知らない。そうなるとルークしかいない、だが風呂に入るにしても電灯も水音も何もしないのはおかしい話だ。
 考えながら明かりを点けバスルームの扉を開けると、タイルに転がっている朱色と白色に驚く。ルークが顔を真っ青にしてぐったりと倒れ、傍には吐瀉物。

「お前、吐いたのか……!?」

 その量は少なく、消化も殆どしていなかった。今朝ユーリが用意した目玉焼きの白味が形を保っているのが見える。リビングの皿は空になっていたのに、全て戻したらしい。
 弱い呻き声が上がり、ユーリはしゃがんで表情を伺う。白熱灯の下の顔色は洒落になっていない、鮮やかな朱色の前髪が余計にその色を引き立てた。

「……きもち、わりぃ」
「しっかりしろ、全部吐いたか? お前薬飲めるか?」

 頬を軽く叩くが目を開ける事すら辛いようだ、カサついた唇をぶるぶると震わせて脂汗も酷い。散らばる長髪を纏めてやり、シャワーで汚れた口を清めた。肩を取って体を支えるが妙に軽い、不安な気持ちを使命感でかき消してルークをベッドへ運ぶ。
 ぐったりと沈むルークの息は浅くて早い、素人目ではよく分からないがそれでもあまり良さそうな状態でない事は一目で分かった。救急車を呼ぶか……? そう考えてポケットから携帯を出すと、邪魔するように腕を取られる。薄っすらと目を開けたルークが、邪魔というには軽すぎる重さで、小さく掠れた声を上げた。

「……まて、先に。……願いを、……言え……」
「こんな時まで馬鹿言ってんじゃねぇ、先に病院だろうが!」
「人間に……、分かるかっての……。俺は精霊、……だぞ……」

 それは、確かに今朝そう言ってはいたが。ユーリは言葉が引っ掛かり、上手く言葉が出ない。半分人間と言っていたが、半分は精霊だと。今朝のルークの体調におかしな所は見受けられなかった、それが今目の前の体はおかしいくらい弱っている。げっそりして頬も若干痩せ、変化が急激すぎて理解が追いつかない。考えつくならば朝食だ、確かに全て吐いているが……。あれがルークにとって毒だったとして、どんな作用を及ぼしているのか。
 体に残る微かな力をかき集めるような必死さで、ルークはユーリの腕に縋り付いて喋る。

「魔力の補給が、出来ないから……。体の維持が、……できない……っ。もうすぐ……解けちまうから、……だからその前に願いを……」

 小さな声で区切った言葉の意味が分かるような分からないような、ただ一文だけ、もうすぐ解けるという事だけは分かった。解けるとはどういう事なのか、消えてしまうのだろうか? 解けると帰るとでは意味は違うのだろうか? しかしこの状態で今言った体の維持が出来ないという言葉、同じ意味とはとてもじゃないが思えない。
 ルークの体は青いを通り越して少し透けていて、それに気付いたユーリをぎょっとさせた。

「お前、透けてるぞ……!」
「分かってる! だから、……早く言え……!」
「馬鹿野郎、んな事言ってる場合か!」

 吹けば飛びそうな姿に、昔の掠れた記憶が吹き出す。幼すぎて遠い、居なくなるという感覚。どうしようもない不安にじっとしていられない、縋る手を振り払って携帯を手にベッドから離れる。そして119を掛けようとしたその時、足元から甲高い音。床を見ればあの青いモノが、ミュウミュウと訳の分からない言葉で騒いでいた。
 今日一日を思い出す、コレを見かけると幸運がやってきたのだ。ルークが何かしたのは間違いないだろう、もしやそのせいで力を使い果たしたのか……? そう考えたユーリがハッとして、しゃがんで近付き話し掛けた。

「おい、お前ら! お前らのご主人が消えそうなんだ、何とかできないか!?」

 しかし返ってくるのはミュウミュウという鳴き声の輪唱、残念ながらただの人間には理解できそうにない。やはり駄目か……、そう項垂れて通話のボタンを押そうとしたその時。
 青いモノ達がコタツの上へ次々と登っていく。それは先程までただ床に密集していた様子と違い、ユーリの言葉への意志を感じさせた。携帯を耳に当てたまま、少し呆然とそれを見る。2・30匹程テーブルを占拠し、そして。空になって倒れているコップの周りを囲い込み、一音高くみゅう! と鳴いた。

 ユーリは携帯を放り投げて、それに近寄る。コップを手に取りこれか……? と問えば、みゅうみゅう! と嬉しそうに上下に飛び跳ね、輪郭のぼやけた体をもっと拡散させながらそう返事が。

「コップをどうしろってんだ……?」

 くるくると回してもそのコップは何の変哲も無いただのコップだ、ユーリが2点150円で買った柄も何も無い透明のコップ。普段から自分でも使っていたし、欠けた箇所も無い。どう考えてもこれがルークの状況を助ける物になるとは思えなかった。
 しかし言葉を持たない青いモノ達は、これだこれだと四方八方集まって来る。イラつき出す思考に、ユーリはまたハッと気付いた。

 そうだ、確かルークが現れた一番最初。あいつは茶を飲んだではないか、不味いと言って半分残したのを覚えている。そういえばルークが固形物を食べた所を見たことがない、しかし水分ならこの目で見たのだ。今朝も確かにお茶を飲んでいた、間違いない。思い至って、ユーリは台所に走って水を汲みすぐにベッドへ戻った。

 ベッドのルークは苦しそうに息をゼイゼイと掠れさせ、その足先が消えかけている。おい待て消えんな! そう叫びながらユーリはルークの鼻を摘んで口を開けさせ、コップを傾けて無理矢理水を飲ませ始めた。

「ゲホゲホ、ちょ……待てテメェ……! ゲホ!」

 ユーリの手ごとコップをがしりと掴んだルークの手は思いの外強かった。重なる手が妙に冷たいと思った瞬間、コップの中の水が薄い緑色に染まる。キラキラと何かが輝いているような揺れているような、じっと見ていると目を回してしまいそうに。その不思議な状態のまま、液体がルークの口の中へ消えていく。

「……今の」

 昨日の水浸した床を一瞬で何とかした時のような、不思議な現象を目にしばし思考が止まる。呆けた体に下からすぐに声がかかった。

「……もっと、持ってこいアホ……」

 そう言うルークの瞳には力が戻ってきており、息も少ししっかりしてきた。消えかけていた足元を見れば色は薄いが輪郭はちゃんと元に戻っている、ユーリは安堵の息を吐く。へいへい、そう言いながら数回往復して気が済むまで水を飲ませれば、その日の内にルークのやたら生意気な口ぶりが戻るまで回復した。





*****

 あれから数日、ルークは結局まだユーリの部屋に居座っている。あの時のルークの状態は魔力切れ、言うなればただの空腹だった。

 3次元変換をして肉体を保っているのが魔力らしく、その魔力切れを起こして肉体が解けかけていたらしい。何故切れるまで放っておいたのかと問えば、元の世界では”食事”という補給の概念が無いらしく、減っていたエネルギーに気付いていなかったと。なんとマヌケな話だろうか。
 そして問題がもう一つ。半分人間半分人間じゃない、その”じゃない”方が問題で、ルークの体は固形物を受け付けなかった。胃に入れる事は可能だが、そうするとあの時の様に吐いてしまう。吐くと体内の魔力も一緒に流出してしまい、完全にダウンする。あの日唯でさえ魔法を使ったり青いモノを喚んだりして魔力が減っていたのに、吐いて底をつき肉体維持すら出来なくなったというのが事の真相だ。

「いくらなんでも自分の体の事くらい、もっとしっかりしてくれ……」
「俺だって知らなかったんだからしょーがねーじゃん! こっちに降りたのだって初めてなんだしよ……」
「あのまま救急車呼んでたらとんでもない事になる所だったぞ……」
「知るかそんなもん」

 あの日弱々しかった姿が夢の様にふてぶてしく、今ではコタツに潜って猫背で砂糖水をちびちびとコップから舐めている。それを隣でコーヒー片手に注意するが、知ったことでは無いと言わんばかりの態度で返すのだから可愛くない。

「おい、行儀悪いだろうが……。ちゃんと飲め」
「うっせー、これが一番効率がいいんだよ」

 魔力補給とやらには水がいいらしく、色々試したが現在の所では砂糖水が一番効率が良いと言う。どういう理屈なのかは知らないが、本人がそう言うならばユーリも口出しは出来ない。というか口出ししても聞かないのだから、言っても意味が無かった。

 ユーリはもういちいちツッコミを入れたり魔法だとか幸運の妖精だとか、理解を手放すことにした。下手に足を入れて泥沼も面倒だし、無駄に慌てて疲れる。今更だが、もう少し足掻きたいというのが正直な所。取り敢えずルークは人間ではなく、文句が多くて可愛い気の無い面倒くさい精霊サン、保険証無し。それだけ分かれば十分だ、自棄気味に黄昏れる。



 そろそろ出なければならない時間で、ユーリは皿を片付けて戸締りをチェックし玄関へ向かう。靴を履いているとコタツから抜けだしたルークがやってきて、後ろに立っていた。不思議に思いもしやまた願いを言えだとか言い出すのかと顔を上げれば、予想外の言葉が耳に入ってくる。

「いってらっしゃい!」

 ニカッと笑って生意気そうに、そう言われた。ユーリはポカンと間の抜けた顔を晒して、呆然とルークを見上げる。今までそんな挨拶言った事も無いのに、何を急に。一応言葉は出たが、混乱に引き摺られるように音が間抜けだった。

「……なんだよ、急に」
「テレビでやってたんだよ、出掛ける時はこう言うモンなんだろ? んで帰ってくると、えーとおかえりなさいアナタ! だっけ?」
「アナタ、は言わないかな……」
「そなのか、んじゃおかえりなさい! これでいいのか?」
「……まぁ、そう、……だけど」
「ユーリが願いを言うまではここに世話になるから、礼儀ってヤツだ。俺はそーいうのうるさく言われてるからな、例え人間相手だろうがちゃんとやるぜ」
「だろうが、ってのは余計だろ……」

 胸を張って妙に自慢気なその姿に、呆れるやら脱力するやら。そしてじわじわと、足元から何か訳の分からない感覚が這い上がってくる。どことなく体中がソワソワして、気分が落ち着かない。しかし携帯を見れば時間が迫っていた、鞄を掴んで玄関を開け、一瞬考えて口にした。

「……それじゃ、行ってくる」
「おー、早く帰って来て俺の相手しろよー」

 そんな自分勝手な言葉を背に、ユーリはパタンとドアを閉めガチャリと鍵を掛ける。鍵穴から抜いて、その手の中の鍵をじっと見つめた。……いってらっしゃい、おかえりなさい。そんな言葉を聞いたのは久しぶりな気がして、正直に戸惑う。一人が長いので当然といえば当然なのだが、しかし……。すぐに時間を思い出して、ユーリは慌てて走りだした。



 程々に面倒くさくて手間がかかって食費要らず、一人身に優しい精霊さん。なんてこった、こう言っちゃなんだがペットみたいじゃないか。ユーリは笑って、今まで自分では手に取った事の無い、売っている水を買って帰ってやろうと決めた。







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