ベイビーレイン








 しかし2日後、世話の甲斐なく花は枯れてしまった。2日間付きっきりで見ていたのに、ついぞ蕾は開ききる事もなく、朝目覚めてカーテンを開けると萎れて茶色になった頭がぺたりと落ちているのを発見したのだ。
 どうして、なぜ? エステリーゼの頭の中は混乱でいっぱいになり涙がじわりと押し上がってくる。そっと指先で触れても、昨日まで生命を感じた瑞々しさはどこにも無く、カサリと抜け殻の音がした。薄ぼけた花びらの色は完全に侵食されており、生きている色はどこも見えない。茎は根本からぐんにゃり曲がっており、先端の重みで垂れている感じがする。
 エステリーゼは動揺する自分を叱りつけ、植木鉢を持って庭師の元へ走った。同じ道を進んだ以前はあんなにも軽かったのに、今は鉛のような重さ。どうしようどうしよう。頭の中はあの子が悲しむ顔ばかりで、廊下ですら迷いそうだ。

「やっぱり、枯れてしまいましたか」
「やっぱりって、分かってたんです?」
「言い難かったのですが……おそらくエステリーゼ様がお持ちになる前から相当弱っていたんでしょう、株を乱暴に引きぬき根を傷付けてしまったせいで、修復する余力も無く枯れたんだと思いますよ」
「……そんな」

 土を掘り返したのは男の子だが、携わった事の無い子供にそんな知識も経験もある訳が無い。それに植え替えを提案したのはエステリーゼだ。あの時別の方法を取っていれば、もしかしたらこの花は枯れる事は無かったのかもしれない、そう思えば足元が震える。

 目の前がどんより、曇空よりも暗く覆われている気分だった。窓辺を見れば空になった受け皿がぽつんと寂しそう。あれからどんな会話をしてどうやって部屋に戻ったのかあまり覚えていない。気が付けばエステリーゼはひとり、ベッドに座って窓を見ている。
 渦巻くのは後悔。折角自分の知識が役に立つと思っていたのに、枯らしてしまったのはその知識の無さ。2日前に膨らんだ欲が、傲慢だと咎められたのかもしれない。もしかして本当は花なんてどうでもよく、知識を使える場面に歓喜していただけなのかも。少し考えれば弱った花の移し替えなんて慎重に行わなければいけなくて当然なのに、あの時は頭の端にも浮かばなかった。自分の行動を思い返せば、どれもこれもが酷い自分勝手に見えてくる。
 まさか、そんな。城に閉じこもり人に言われるがまま大人しく本だけを読んでいた鬱憤を、優越感として晴らそうとしていた? そんな考えに辿り着きエステリーゼは自分でショックを受ける。そんな事はない、そんな訳……。否定しても心は晴れない。まるで枯れてしまった花のように、垂れる頭が後悔と懺悔に重くのしかかる。

 こんな結果、とてもじゃないがあの子に言えやしない。エステリーゼはあれ程心待ちにしていたはずの再会を恐れ、部屋に閉じこもってしまった。枯らしたと知られては罵られるだろうか、嘘つきと言われるのだろうか。それよりもあの子の顔が悲しそうに歪むのが、想像するだけで胸が痛む。
 客人の紹介で父に呼ばれるたびにドキリとして、子供が居なければほっと胸を撫で下ろす。そんな自分がますます嫌になり、大好きな物語を読んでも入り込めない。
 ちらりと窓辺を見れば、ホコリもない窓辺に水受け皿だけが名残として残っている。メイドが片付けようとするのを何度も引き止めて、これだけはここに置いておいて欲しいと頼んだのだ。
 苦くくるしい後悔はずっと胸に残ったまま。だが、もう決して同じあやまちを起こすまいと、エステリーゼはますます勉強を熱心に励んだ。あと一歩足りなかった為にあの花を枯らしてしまった、だから次は足りるように。医学、料理、建築、ジャンルを広げてどんなものでも積極的に知識を貪っていれば、周囲は感心だと褒めてくれる。しかしそれが逆に、自分勝手な迂闊さで花を枯らし逃げたくせに、と責めているように聞こえてしまう。またそこから逃げようと本を読み続ける。その積み重ねがやっと自信に結びついたのは、本当にずっと後の事だった。

 だがそれ以来雨の日は気分をどんより、重い雨雲のように鈍重にしてしまう。晴れの日が好きだから、とは言えない消極的な理由ゆえに、誰かに言った事もない。そんな選択すら自分の傲慢になりそうで、エステリーゼの胸に太陽が覗く事は稀になっていた。




*****

 キィン、と剣の鳴る音が空気を震わせる。後衛で詠唱するエステルは、その音にすら人柄が出るような気がしていた。素早く連続で聞こえる甲高い音はユーリの動きそのまま。しなやかに駆け怒涛の攻撃を敵に浴びせ反撃を許さない。その合間に少し派手な音が挟まれる。ギィン! と力強い響きは苛烈さを際立たせた。逞しく踏み込んだ足腰から繰り出される術技は、型通りのはずなのにどこか乱暴だ。しかし運なのかテクニックなのか、危なげでも敵に当て攻撃を躱し、追撃を叩き込む。
 危なっかしいけど不思議と強いんだよなあいつ、とユーリが苦笑していたのに思わず同意してしまう。エステルはファーストエイドを唱え、本人は意にも解さないだろう擦り傷を治した。

「やべぇそっち行ったぞ!」

 突然の叫び声にエステルが顔を上げれば、己の血をまき散らして魔物が突進してくる。方向はこちら……ではなく、少し離れて支援していたティアへ。エステルは唱えようとしていた詠唱をすぐにキャンセルし、自分の盾で防ごうと走るが距離が遠い。死に際の力は圧倒的であり、人間の速さで追い付くのは不可能だった。
 ティアは涼やかな普段の瞳をキリリと引き締め、覚悟を決めたのか左腕をあえて目前に差し出し盾にする。だが彼女の細腕ではあっさりと噛みちぎられそうで恐怖を呼ぶ。

「あぶない!」

 最悪の場面を恐れてエステルは瞳を閉じた。耳には肉を喰む音……が聞こえるかと思ったが、届いたのは魔物の断末魔。命を絞った悲鳴が周囲に轟き、力なく倒れている。少しずつ瞼を開ければ、ユーリの刃が魔物を真っ二つにした場面だった。諦めずに駆け、ギリギリ既の所で術技を飛ばしたようだ。珍しく力任せに放った蒼破刃の爪痕が大地に刻まれている。

「間一髪、だったな。大丈夫か?」
「ありがとう……覚悟してた所よ」
「ティア! おいお前ボーッとしてんなよ!」

 危機の状況だったが冷静に受け答えするふたりとは対照的に、慌てふためくルークは剣もしまわず駆け寄って来た。エステルも一息付いて、それから近寄れば戦闘直後なのに喧嘩が始まってしまう。

「ボーッとなんてしていないわ。ルークが敵をこぼすからじゃないかしら?」
「いや、おめーの晶術が弱っちくて削れきれなかったんだろ!」
「あら、どのくらいの威力だったのか直接あなたが受けてみる?」
「マーカーあんだから当たらねーっつの! ケッ、怖かった〜とか言ってしおらしくすりゃ良いのに……。いや、やっぱ気持ちわりーなそれ」
「失礼な人ね本当にっ」
「あ、あの……喧嘩は……」

 なんだか険悪になって、エステルは止めようとしたが横から手が伸びてそれを止められる。見ればユーリが苦笑しながら、放っておけよと小さく言う。仲間同士で喧嘩なんて……眉を顰めるも、指されて喧嘩の現場を見返してみれば何時の間にかそんな雰囲気でなくなっていた。

「ってかお前、腕はやられるつもりだったのかよ!?」
「最小限の被害に抑えようとしてただけよ、その後至近距離から攻撃すれば倒せるもの」
「ばっか野郎腕なんて食われたら最小限もクソもねーだろーが! あーいう時はとにかく逃げとけよな!」
「背中を見せる方が危険でしょう」
「俺がすぐ追い付くから危険でもなんでもねーよ!」
「そういえば、汗びっしょりじゃない。……走ってくれたのね」
「うぐっ、いやちが、……そうだけどよ」
「ごめんなさい。信頼していなかった訳じゃないんだけど、つい普段のクセが出たわ」
「別に、怪我無かったからいーけど。一緒に戦ってる時くれーはもっと周りを見ろってんだ。盾くらいならなってやる。今日はちっと遅れたけどな」
「そうね、……ありがとう」

 結局自分達で喧嘩して、自分達で収めている。置いてきぼりにされて蚊帳の外な空気に、エステルはぽかんと目を丸くした。隣のユーリを見れば呆れた顔で笑っている。どうやら今回が初めてではないらしい。

「あのお坊ちゃんの周りで喧嘩してる時はほっとくのが吉ってね。ああやってじゃれてんだよ、器用なんだか不器用なんだか知らねーが、仲のお宜しい事で」
「そうなんです……」

 げっそりした表情は何度も遭遇しているようだ。災難かもしれないが、エステルは羨ましいと思えた。自分の事も前々からもっと普通に扱って欲しいと思っていたのだ、この船のメンバーは大分砕けているが、エステルの身分を知る者は中々喋り方すら砕けてくれない。それに何より、喧嘩する程仲が良い、と言われる事に憧れている。だって普通喧嘩なんてしてはいけないのにしても良いと言われて、とっても仲が良いとまで思われる。物語に出てくる主人公には口悪い親友がお約束で、喧嘩しながらも絆を感じさせ素晴らしいストーリーを紡ぎ出すではないか。
 主従であるのに対等に見えるふたりを、エステルは無意識に羨ましいです……とぽつりこぼした。

 依頼を終えて近くの街に寄った時、エステルはひとり花屋の前で立ち止まる。消耗品の補給やデザート、休憩として各自好きなようにバラけていた時だ。こんな時フレンやアスベルが一緒ならば必ず隣に付いてきてくれるのだが、今日はひとりきり。それが嬉しいような、寂しいような。我儘な気持ちとはこういう事なのかもしれない。
 ぼうっと色とりどりの花を見ていると、なんだか思考まで散り散りになっていくような感覚。まださっきの戦闘の尾を引いている。店の前を占領して迷惑になるのに、エステルの足はその場に縫い止められて動けない。特に鮮烈な色が視界の真ん中から動いてくれず、どうにも気になってしまう。店の主人は怪訝そうな顔をするが追い返すまではせずありがたい。
 そこに、後ろから肩を叩き呆れた声がかかってエステルの金縛りは解けた。

「花なんか見て、何がおもしれーんだよ」
「ルーク……。何って、見ていて綺麗ですし、心が和みます」
「花なんて青くせーだけじゃねーか」

 花屋の目の前でとんでもない事を言い出すものだ。穏やかだった店主の目はギロリとルークを睨むが、当の本人は全く気にしておらず呑気なもの。こういった態度をティアは窘めたりするが、ガイは自慢気にしたりする。同郷で従者なのに、ふたりバラバラだがそのどちらもルークを大変気にかけている事が分かって微笑ましい。下僕のように、友人のように、仲間のように、家族のように。
 人に花なんて青臭い、と言っておきながらルークは青々と咲く花を面白そうに見ていた。無視してどこか行ってしまうと思っていたのだがその瞳は失礼ながら、想像以上に慈愛に満ちている気がする。
 もしかして、やっぱり……。ずっと以前から気になっていた事を、これがチャンスだとエステルはおそるおそる問い尋ねてみる事にした。

「あの、ルークはお花……嫌いです?」
「花? んなもん好きでも嫌いでもねーって」
「もしかして昔、嫌な事があって嫌いになったとかそんな事はありません?」
「はぁ? なんだよそれ。昔ってどーいう意味だよ」

 振り向いた顔はきょとんとしており、嘘偽りなんてどこにも無さそう。それでもエステルはずずいと迫って問い詰めるものだから、ルークはすぐに嫌そうな表情になり慌てて取り繕う。

「いえその、特に思い当たる事がなければいいんですっ。ごめんなさい変な事言ったりして」
「マジで変な奴だなー。庭師にちょっと話聞いた事あるくらいで、俺はなんとも思ってねーし。ただ母上が花好きだったなってくらいだっつーの」
「ルークのお母様は、どんなお花が好きなんです?」
「へ? なんだっけ、ええとなんか赤い花が好きとか言ってたような気がする。アッシュだったら名前も詳しく覚えてそーだけど、俺は忘れちまった」
「あかい、花」
「もーいいじゃねーか。そろそろ時間だし戻ろーぜ」

 どうやら本当は時間の為に呼びに来てくれたらしい。なのに急かさずに待っていてくれたとは意外だ。こういう事はユーリの方がしそうなのに。だが言うだけ言ってエステルに背中を向け置いていってしまう所は、やっぱりルークなのだった。それにクスリと微笑み、色彩を置いて後を追う。
 赤い花、赤い色、赤い髪……。あの時の、あの子。ルークの背中はどうしても、エステルの心を鉛の海に沈めてしまってたまらない。瞬きをして一瞬消しても、次の瞬間にはすぐに鮮烈な色が飛び込んでくる。思い出のフィルターが様々を誤魔化してくれていても、あの色は忘れようもなかった。

 船に帰りアンジュに報告し、ティアとルークの騒がしい後を見送ってエステルも部屋に戻る。ユーリは食堂に行ってくると言い後にした。街を出る時に限定ケーキだとかなんとか言っていたので、作りたくなってしまったのかも。ユーリのデザートの腕は絶品で、時々気まぐれのおこぼれに預かるのを楽しみにしている。
 パタンと静かな電子音で閉め切れば、部屋にはまだ誰も帰っていなかった。バンエルティア号は大人数が過ごす生活空間でもあるのに、ある時フッと、自分以外誰も居ないんじゃないかと思う静けさを感じる時がある。沢山の仲間が居る空間に慣れてしまい、逆に静けさが苦手になってしまったのかも。リタが聞けば冗談じゃないわ、と言いそうである。
 自分のベッドにすとんと座り、ふぅと息を吐いてみる。なんだか今日は全体的に気落ちしていて浮上できない。どうしてだろう、と己に問うても答えは分かりきっている分出せなかった。
 シャッターの上がる窓を見れば、外の天気は随分とどんよりした曇り空。実の所朝から雲行きが怪しく、夕方から降るのではと言われていた。降ってくる前に依頼を終え船に戻れて良かった。それは濡れるからとか、戻れなくなるからではない。
 雨が降るとエステルは沈んでしまう。そうなると注意力は散漫になるし、何をやっても上手くいかなくなる。戦闘なんて大事な場面に不注意は許されないのだ。
 考えている間にもぽつりぽつり、雨粒が窓を叩き始めた。円の波紋が広がって思い出の奥底をぐちゅりと引きずり出す。いや、やめてください。そう思っているのに呆気無く呼ばれる記憶。それは自虐なのだろうか。答えが出ないまま、今日もあの時の後悔にゆったりと浸かる。

 だが最近はその後悔にさざ波が立っているのだ。それは赤色の記憶、赤髪のルーク。やっぱりあの時の子供はルークだったんじゃ……という疑惑がエステルの心を占めていた。
 赤髪ならば船内にも数名居るし今までも沢山出会ってきた。ガルバンゾとライマでは離れ過ぎている。だが同じ王族ならば客人として城の奥まで入れる可能性は否めない。アッシュと双子であるが、過去の口調からしてルークのような気がしている。それにアッシュとは先にパーティで数回会っており、その時は何も言われなかった。
 挙げていけばいく程、あの時の子供はルークではないかという疑いが確信になっていく。だがもし、ルークだとして自分はどうしたいのだろう。エステルは何時もそこで立ち止まってしまう。
 あの時の事を謝りたい? どうして謝らなければならない所まで説明するには、自分でですら整頓出来ない部分で上手くいかない。子供だったから、優越感に浸りたかったから? そんな風に過去を口にするには、未だあれは片付けられていないのだ。
 ルークの性格ならばそんな事気にすんなよ、とあっさり許してしまいそうで……むしろ自分はその許しをずっと欲しがっていたのだと、そう考えるとますます卑劣な気がして言い出せない。
 どうしたらいいんだろう。エステルは花を枯らしたあの時から、ずっとそんな事ばかりを考えている。誰にも口にできない事だ、いつまでも胸にしこりが残り続けて苦しい。だがこの船でルークを見て、もしかしたら許しを得る事が出来るならばと、想像するのだがそんな自分を想像出来なくて。エステルを苦しめる後悔は随分と長い付き合いなものであり、無くなってしまうとどんな気持ちになるのか分からなくなっている。
 強くなっていく雨と同様に深く沈んでいきそうになっていると、ブザーの音がした。ハッとして振り向けば扉は何時の間にか開いており、おい入るぞ、と言葉と同時に鮮やかな色が飛び込んでくる。

「ルーク?」
「何度も読んだのに返事しねーから、勝手に入ったぞ!」
「ご、ごめんなさい気が付かなくて。どうしたんです?」

 ムッと眉を顰めて面倒くさそうな表情、胸をはってやたらと偉そうなポーズだが妙に子供っぽく見える。ついさっきエントランスで別れたばかりなのに一体何の用だろう。エステルは今までルークの事で頭をいっぱいにしていた分、もしかして思い出したのでは、と恐怖や緊張でドキドキ心臓が鳴りだした。
 しかし予想外に、ほらよとぶっきらぼうに差し出されたもの。ラッピングも何もしていない、簡素な透明の袋にちょこんと何かが入っている。戸惑ってじっと見ていると、焦れたのかルークはズイッと持ち手の部分を押し付けてきた。

「え? なんです?」
「お前なんか気にしてたから」
「……サボテン?」

 受け取って袋の中を覗き見れば、手の平に収まりそうなサイズのサボテンが入っていた。陶器焼きで小さな植木鉢に、細く白い刺がツンツン生えている。よくある観賞用というよりポイントインテリア、机の上に飾る類の物だろう。
 何故こんな物を差し出されるのか意味が分からなくて、エステルは困惑でいっぱいの瞳で顔を上げる。当の本人は興味無さそうに目を逸らしているが、その横顔は少し照れていた。

「切り花ってなんか見舞いって感じがするからよ。一応店の奴に聞いて世話が簡単そーなの選んでやったんだぞ」
「あ、ありがとう、ございます」
「用件はそれだけだっ!」

 恥ずかしくなったのかプイッと背を向け、ルークはさっさと出て行ってしまう。ぷしゅうと閉まった後の部屋は、シーンと静まり返りエステルは少々呆然とした。ガサガサと袋から取り出し、手の平に乗せてみれば紛うこと無くただのサボテン。先程ルークが言っていた、お前気にしてたから……。花屋の前で立ち止まっていた時の事だろう。
 それは確かに、花屋の前でじっとしていれば店内の花を見ていたと思われるだろう。けれどそこで何故サボテンを選ぶのか。女性に贈るならばもっとこう、華やかで色鮮やかな花をチョイスすると思うのだが。店員も店員でどんな相談を受けてサボテンを? もしや意地悪されたのだろうか。
 ぼんやりと浮かぶ様々な言葉。エステルはそれを口には出さず、ベッド傍のテーブルに置いた。ちょこんと小さくて可愛らしい。それからサボテンの飼育方法をふわふわ浮かべて、ただじっと見つめる。

「……わたし、くるしいのにうれしい」

 正直な気持ちを吐いた。花を貰ったから嬉しい、ではないもっとこう、複雑なもの。不思議だ、仲間から貰った花でこんな気持ちになる自分自身が一番。嬉しい? それは何故。苦しい? それはどうして。
 嬉しいのは花を貰ったからじゃない、ルークに貰ったから。苦しいのは花を貰ったからじゃない、過去をなぞったから。罪悪感に囚われた中の奥底で、もっと強烈な温度が燃え上がる。
 悩んでいた今までがあるのだから、本来ルークに対する感情は黙っている苦しみだけのはず。けれど否定できない、したくない喜びが確かに存在した。これはなんだろう、恋愛小説で読んだふわふわして綺麗な世界とは到底呼べないもの。だが、過去も現在も、エステルの心を締め付けて離さない。
 枯れた花の絵がずっと心にあったのに、今はちんまりと佇むサボテンが隣に置かれて、色付いていく。
 駄目なのに、わたしルークに謝らないといけないのに。どんどん口に出来なくなっていき泥沼に嵌ってどうしても声に出せない、思い出されて嫌われるのが怖くなる。嫌われるのが怖いから。言葉だけならばまるで可愛らしい恋のよう。いっそ恋ならば良かった、それなら誰かに相談できる。けれど出来る訳がない、理由の根幹が汚いものだと自覚しているから。
 だがルークから貰ったサボテンを見ていると、今まで感じなかった気持ちが心に広がって、どこか甘い。黒く濁った深海に沈んでいたのに、そこから地上の光が差したような暖かさ。嬉しいの苦しいの悲しいの痛いの暖かいの、そのどれもがエステルを締め付けて混乱させる。
 こんなものは恋じゃない、恋じゃないけれど……どう呼べばいいのか。今まで蓄えた知識は何も教えてくれなかった。枯らした悲しさからあれ程本を読んで勉強もしたのに、何ひとつ役に立たないではないか。

「戻ったぜ。ん、そのサボテン。もしかしてお坊ちゃんが買ったやつか」
「おかえりなさいユーリ。どうして分かるんです?」

 どのくらい時間が経ったのか、ユーリが部屋に戻ってくると直ぐ様サボテンの贈り主を当ててエステルは驚く。手にはチョコレートの欠片を持ち、それを幾つかエステルの手の平にころんと渡す。デザートの余り分を溶かし固めて紙で巻いた簡易なおやつだ。だがチョコよりもエステルは何故ユーリが言い当てたのかが気になる。

「エステル呼びに行ったくせに自分が現れないで、なーにやってんだって探しに行ったらあいつ花屋の前でうんうん唸ってたからな。ティアにやるのかと思ってたんだが、エステルにやったのか……」
「お花屋さんの前で?」
「ああ、店員に邪魔そうに扱われてたけどよ。にしても花を買ったかと思ったらサボテンとは、あいつ本当に王族のお坊ちゃんかよ?」

 クク、と笑っているがサボテンを見つめるユーリの瞳はどこか熱い。貴族嫌いだと言って出会った当初は船内で噂になるくらい険悪だったのに。何時の間にか刺は取れて、弟を世話するように構っている姿を何度か見ている。ルークは迷惑そうに、でも割合イキイキと怒鳴っていた。傍から見れば微笑ましい関係、まるで家族や兄弟みたいな。エステルは気安く喧嘩出来る関係に憧れて見ていたのだが、今ユーリの横顔はそんな生優しい温度ではないような気がした。
 燃えるような紫黒。じっと見つめて、今にもサボテンの天辺から火があがりそう。エステルは直感的に、こういう眼差しが恋なんじゃないかと察した。きっとユーリはルークを好きだ。家族や仲間では収まらない熱を腹の奥にしまって丁寧に隠している。エステルのように罪悪感とまぜこぜになっている不確かなものではない、それを羨ましく思った。
 ついぽつり、とその通り口にしてしまう。

「私、ユーリが羨ましいです」
「そうか? まぁ無い物ねだりってやつかもな、オレはエステルの方が羨ましいからよ」
「え?」

 無意識で呟いた言葉が届いて、おまけに返事まで来るとは全く思っていなかった。エステルはきょとんと瞳を丸く視線を追う。だがユーリはすぐに背中を向け、パイの焼き加減見てくるわと言い出て行ってしまった。またも部屋にひとりきり、エステルはぱちくり瞬きをする。
 窓を見れば雨は本格的な降りになっており、そろそろ窓のシャッターを閉めなければいけないかも。しかしエステルの体は縫い止められて動けない。正確には視線がサボテンから離れなくて、強制的に強く意識させるのだ。
 城の外に出るようになり様々な事を知ったと思う。本だけでは知り得ない匂いや経験、前に進む勇気。改めて思えば、時間を重ねても簡単には解かれない鎖は自分からしがみついていたと言える。でもそれを愛しく想ってしまう事は罪なのだろうか。恋ではない愛かもしれない、いいやそんな。決められなくてフラフラする。
 他人から見た自分ははたしてユーリのような視線でルークを見ているのか? そんな事は無いだろう。でも四六時中離れない想いは、一般的にどう言うものなのだ。エステルの視線を射止めるサボテンは当然ながら何も教えてはくれないが、じわじわ胸に広がる温度が指先まで伝わってくる。この優しさがルークなのだろう。

 雨の日はなんだか気分が重たくなる。過去からの呼び声に後ろ髪を惹かれ振り向いてしまうのだ。その間ボーッとして何も手につかなくなる。この船に来てからは特に、フレンやユーリ達にも何度どうした? と心配されただろうか。その度に何でもないんです、と笑えば相手は納得のいかなさそうな顔で切り上げてくれる。これではいけないのに、どうしても。
 現実の雨は止む時が何時か来る。けれどエステルが抱える幼い日の雨は晴れる事は無いだろうと、なんとなく予感した。太陽が見えて隠されたものが白日の下に晒されるくらいならば……雨のままで良いと思ったから。

 瞳を閉じて思い出す、それはエステルに苦い記憶と甘酸っぱい想いを知らしめるもの、ベイビーレイン。






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