ベイビーレイン








 ざぁざぁ降る大きな雨粒。バンエルティア号の窓を容赦なく叩き、広がる波紋で外を見えなくしてしまう。突然の嵐に船は一時停止し、羽根を休めている最中だった。少し前まで晴れていたのに、最近の天気はコロコロと変わり暇ない。これも大地に突き立つラザリスの牙の影響だろうか。それとも元々この地域特有のものかもしれない。エステルは今の位置を確認し、過去に読んだ本から知識を引っ張り上げようとした。
 だが不意に、視界の端で映る色に目を奪われてしまう。濃い緑色で、小さな刺を目一杯広げているサボテン。ちんまりと小鉢に入っておりその刺々しさとは逆に可愛らしい風貌だった。外の嵐なんてどこ吹く風、と青々としている。
 サボテンを見ると頭の中では地域の天気なんてあっという間にどこか飛んで行ってしまい、サボテンの飼育方法が次々と出てきた。乾燥に強いが水加減に注意、日当たり良く雨の当たらない場所に置く。買ってきたばかりなので後で植え替えをし、用土と水を足してあげよう。今は小さいが大きくなれば春か秋に花を咲かせるかもしれない。そうしたらこれをくれた彼は喜ぶだろうか、今度こそ……。
 今度こそ。そこでエステルの思考は固まってしまった。今度こそ、といっても彼は覚えていないのかもしれない、いいや単純に気にしていないのかも。だが覚えているならばそれこそ大袈裟に言ってきそうな性格をしている、何も言わないとは考え難い。考える事が溢れてきて、まとまりなくモヤモヤが膨らむだけになるのが何時もの事だった。
 雨が近くなるとこんな風に毎回、取り留めのない考えに支配されてしまう。過去からの呼び声に後ろ髪を惹かれ振り向いてしまうのだ。その間ボーッとして何も手につかなくなる。この船に来てからは特に、フレンやユーリ達に何度どうした? と心配されただろうか。その度に何でもないんです、と笑えば相手は納得のいかなさそうな顔で切り上げてくれる。これではいけないのに、どうしても。
 しょんぼりと俯くが、どうしても視線は窓辺のサボテンへ行ってしまう。小さな鉢植えに入った緑色。簡素にラッピングすらされていないとはいえ汚れていない鉢植えはあの時と到底違うのに。彼が手にしてこの部屋を訪れた時から、過去と繋がって離れられない。胸の奥を締め付ける苦しみは、雨音が強くなる度にどんどん痛くなっていくのだった。




*****

 それは昔の、エステルがまだ幼い頃。今朝他国からの客人が来ているので、呼ばれるまでは大人しく待っているように言われていた。元々外ではしゃぎ回るよりも室内で本を読む方を好んでいた事もあり、言われずともその日は自室で本を読んでいたのだ。最近は知識を吸収する事が楽しく、図鑑や歴史書、料理のレシピなど種類を問わずあれもこれもと読んでおり、図書室と部屋の往復ばかりの日々。
 しかし蓄えれば蓄える程、その知識を試したいという欲求も膨らんでいた。子供心ながら凄いと言われたい気持ちもあるし褒められたいという気持ちもある。だがはたして一体どこでどう役立たせるというのか。魔法の事ならば城の賢者が居るし、勉学ならば家庭教師の方が知っている、料理のレシピはコックの方が美味しく作るだろうし、花の世話は庭師の経験に勝てそうにない。
 幼い体に目一杯の知識を詰め込んでも、それを発揮出来る場所がどこにも無かった。姫という立場だから。姫という立場だから沢山の本を読めて、姫という立場だからそれを披露する事さえ出来ない。
 少しだけ溜め息をして、図鑑ではなく物語を読む。本を読む事は好きなのに、なんだか逃避する為に読んでいるような気になってしまい、楽しいはずの結末が終わりを迎える度に憂鬱になっていく。
 以前はこんな気持ちになる事は無かった、こんな風に考えるようになったのは最近から。乳母にこっそりと相談してみると、それはエステリーゼ様が成長した証ですよ、と微笑まれた。成長したから欲が出てくる、それ自体は悪い事じゃない。欲張りは悪い事だと思うのだが大人はそうじゃないと言った。不思議でたまらない。
 まだまだ自分の知らない事がいっぱいなんだな、そう締めくくり少しだけ溜飲を下げる。本を閉じて別の本を取ろうとした時、ポツポツと窓を叩く音が耳に触れた。振り向いてみればどんより天気で雲が張り、窓に雨粒が少しずつ張り付いてく。今はまだ雨よりも風が強そうだが、すぐにでも嵐になりそうな具合だ。それを見てエステリーゼは、どうして雨は発生するんだったかと知識を引っ張りだす。窓際で考えていると、ふと……鮮やかな色彩が目の端に映った。
 重い雲のせいで天気が暗い中、その色は随分と目立って視線を奪う。窓を開けて下を見れば、丁度真下の花壇に赤い色した誰かが座り込んでいた。庭師ではないし、遠くからでも大人ではないと分かる。赤髪の子供なんて城内に居ただろうか? どこかの貴族の子供かもしれないが、城の奥までひとり入ってくるとは考え難い。何よりこんな曇空の下、すぐにでもどしゃ降りになりそうな天気なのに今だじっとして座り込んでいる。何をしているんだろう、もしかしてどこか具合が悪くなって立てなくなったのかも。その考えに至り、エステリーゼは慌てて部屋を飛び出した。

「エステリーゼ様。走ったりなさって、どうされましたか?」
「あ、あの……そのっ」

 途中衛兵に呼び止められ、自分の足が走っていた事に気が付く。ハァハァと息が切れて落ち着かず、言葉が上手く出てこなかった。あの子供の事を言わなくちゃ、そう思っているのにエステリーゼの唇は中々言葉が出てこない。それを見た衛兵は思いついたのか、勝手に納得した顔で微笑んだ。

「また本を取りに行かれるのですか、そんなに焦らなくても本は逃げませんよ」
「あ、そうですよね……わたし、なんだか慌ててしまって」
「良ければ私が本を部屋までお持ちいたしましょうか。重いでしょう」
「いえ、大丈夫ですっ。あの、じっくり選びたいので時間がかかってしまうかもしれませんし……」

 思わずこう言ってしまった。走ったせいなのか頬が少し赤くなる。それを相手は羞恥と思ったのかもしれない、気を使ってあまり踏み込まずそうでしたか、とにっこり笑い去っていく。後ろ姿を見送り、エステリーゼは唇を噛み締めた。
 自分から嘘をついた訳じゃない、けれどなんだか嘘を言ったような罪悪感がちくりと胸を刺す。ドキドキと心臓が鳴りどうして正直に言わなかったんだろう、と自分でも疑問を抱えてしまう。もし本当に体の具合が悪く蹲っているならば人を呼ぶべきなのに。
 エステリーゼは悩みながらも足を動かし、ポツポツと雫が落ちてきた庭に入った。分厚い雲は重く暗く、今にも嵐になりそうだ。キョロキョロと広い庭を見渡し、自分の部屋の位置を思い出す。びゅう、ときつい風がスカートを揺らして足元をふらつかせた。確か、こっちの方……奥まで行けば上からでも見えた鮮やかな色が見える。子供は花壇の奥、廊下からちょっと出た程度では見えない隅で、小さく座り込んでいた。こんなに奥では巡回している兵士やメイドも気が付かないだろう、エステリーゼはなんだか宝物を見つけたような気になってしまう。
 しかし上から見た時から動いていない様子、やはり体調が悪くて動けない? 心配になって近付き見れば、短く切り揃えられた鮮やかな赤髪が、白い上着によく映えている男の子だった。見る者が見れば質の良い生地とデザインから貴族王族の生まれ高い者だと察するだろうが、この時のエステリーゼは城を出た事が無く服装の違いなんて鎧やメイド服を着ているか、程度しか分からない。
 声をかけようと近付くが、その時あまりにも変化が無い事に気が付く。具合が悪そうに固まっている様子ではなく、ただじっと花壇を見つめているだけのような感じがした。何をしているんだろう、この花壇に植えられている花はそこまで珍しいものはなかったと思うのだが……エステリーゼは途端に気になり、肩を叩く。

「あの、どうしたんです? もしかしてどこか痛いとか」
「わっ!? な、なんだよ驚かすな!」
「ごめんなさい、部屋の窓から貴方が見えて気になったんです。もし体の具合が悪いのなら、お医者さまを呼びます?」
「ちげーよ、別にいいだろ!」
「でも、雨も降りだしてきましたし。中に入らないと濡れて風邪ひいちゃいます」
「分かってる、けどよ……」

 驚いて顔を上げた男の子の顔にエステリーゼは見覚えは無い。一体どうやってこんな奥まで入り込んで来たのだろう。不思議に思うが、それよりも甘さの残る頬が悲しそうに膨らんでいるのを見て、どうしたんだろうという気持ちの方が強くなる。
 男の子が俯き花壇の花を見るので視線を追いかければ、きちんと整列されている花達の中、丁度彼の前の隅っこに一輪が。周囲の花と違い茎が細く背丈も低い、どこか弱々しい花だった。花弁は半分だけ咲かせているがそのまま萎れてしまいそう。ギリギリ見える花びらは薄ぼけた赤色で、中心に向かって黄色になっているが境目があやふやだ。他の花達は色鮮やかに大きく咲いている分、か弱さがより際立つ。庭師ではないエステリーゼが見てもどこか元気がなく、これを立て直すくらいならば剪定として切ってしまった方が良いと判断できた。
 小さな子供の指先が、そっと労るように淡い花びらを撫でさする。だが弱々しい花はそんな接触でさえもペタンと萎れてしまいそうだ。

「なんかこいつだけ弱っちくて、雨に打たれたら折れそうだなって思ってさ」
「だからずっとここに?」

 そう言ってポツポツ粒の大きくなった雨を男の子は背中で受け、花に当たらないようにしていた。この花を見つけて降りそうな雨の攻撃を心配し、ずっと座り込んでいたのか。誰か人を呼べばいい、もしくは自分の庭ではないのだから放っておけばいいのに、なんだか不器用だけど優しい。
 勝手にこんな奥まで入り込んで来て……他に誰か居ればそんな事を言われそうだが、この場には子供ふたりしかいないのだ、エステリーゼは隣にしゃがみ込み守られている花をじっくりと見た。
 植えている花は確か図鑑で見た事がある。一般的によく出回っておりそれ程繊細な育成は必要としないはず。種類によって寒さに弱かったり強かったり様々だが、ここに植えられている花は寒い季節以外の雨風程度ならば大丈夫だったはず。エステリーゼの頭に過去しまっておいた知識が引っ張りだされ、勝手に唇から出て行く。こういう時の大体は、それを聞いた周囲の大人達は感心したり褒めてくれたりするのだが、男の子はあまり聞いていないようだ。
 確かに今口にしたのは本に乗っていた、ただの解説。目の前で揺れているチビでひ弱な花は、だからどうしたと言わんばかりにふらふらしている。この花は本や図鑑通りに太い茎でも生命力に溢れた花弁も無い。
 他の花を見ればどれもしっかりと根を張り、多少の雨風ではびくともしなさそうで、たった一本だけこんなにひ弱そうなのは逆に違和感を覚える。もしかして種からして弱っており、根が栄養を上手く吸い上げられず他の花達に押されて成長出来なかったのかもしれない。小さな背丈のせいで影に隠れ、庭師の鋭い目からも逃げ延びてきたのだろう。しかしそれも運の尽き、今日の嵐で深刻なダメージを受ければ、もう二度と立ち上がれない予感しかしない。
 隣の顔をそっと窺えば心配そうな翠色の横顔が胸を締め付けて離さず、なんとかしてあげたいと強く思わせる。エステリーゼは知識を必死で思い出し、こんな時の処置はどうすれば良いのかを探し出す。花の図鑑を思い出しては、それよりも今は処置の方法を……何度も頭の中でページをめくり、雨が急かす中それらしい方法を口にした。

「そうです、植え替えです!」
「植え替え?」
「はい、他の花と一緒で栄養が足りなくなってしまったんですから、一本だけにするんです。別の鉢植えに植え替えれば雨の時は移動させられますし、用土もたっぷりあげられますよ」
「それ、やったらこいつ元気になるかな」
「きっとなります。他の花に負けないくらい」
「そっか、良かった」

 男の子はやっと安堵の微笑みを見せてくれて、エステリーゼの胸は嬉しくなる。まろく幼そうな顔立ちだがおそらくあまり歳は離れていない、乱暴な言葉使いではあるが先に花を心配する姿を見たので、むしろ取り繕わない優しさを感じた。鮮やかな赤髪は白い額に雨で張り付き、顔色は寒さで少しだけ青くなってしまっていた。もしエステリーゼが窓からこの子供を見つけなければ、ずっとここに座り込んで守っていたのだろうか。そんな事になったら風邪をひいて、花だけでなくこの子も弱ってしまう。あの時見つけて良かった、そして今、自分の知識でこの子を喜ばせ、守れて良かった。
 誰かの助けになれた事がエステリーゼの自信になり、次は花も救いたいという願望になる。以前に植物図鑑と一緒に読んだガーデニングの本を思い出し、植え替えの仕方は……と道具を探してキョロキョロ周囲を見渡す。

「ええっと、スコップを探してきます」
「雨も強くなってきたし、いーよそんなの」

 そう言って男の子は素手で花壇の土を掘り返し、どろどろの手で一輪分を取り出した。雨を吸って泥がはね、高そうな生地の白い服や靴が汚れるなんてお構いなし。艶々しい赤髪も、あっという間に曇り空のようにくすんでいく。足元に飛んでくる泥すら呆然と見ているエステリーゼは、その突飛な行動にぽかんとしてしまう。

「こいつどこに入れるんだ? 早くしろよ」
「あ、ごめんなさいえっと」

 エステリーゼの周囲の人間は皆礼儀正しく優雅で、客人の子供でも貴族らしく整っている者ばかり。こんな風に花の為に服を汚したりしないし、ましてやエステリーゼに命令するなんてもっての外。だがそんな無作法ともいえる態度がどこか新鮮で、少しだけドキドキする。
 ちょっと怒り気味の声に急かされ、キョロキョロと周囲を見渡せば庭用の水道の傍に鉢が置かれているのを発見した。トコトコ走り中身を見れば空、どうやらしまい忘れた分らしい。丁度良いのでこれを持って行こうとするが、持ち上げようとするとずしりと重く、エステリーゼのか弱い腕ではよろけてしまう。だがのろのろしていると雨は強くなるばかりだし、これ以上男の子を雨に打たせてはいけないと、息を止め真っ赤な顔でよたよた歩き出す。

「別に持って来なくていーって。どうせ部屋に入れるんだから」
「あ、そうですね」

 花の方からやって来て、男の子は少々乱暴な手付きで植木鉢に入れた。花はすっぽりと、むしろ大きすぎる程のサイズで背丈が軽く隠れてしまう。だがひとまず救出成功、となりふたりは同時に笑った。
 ざぁざぁ降ってきた雨ですでにびしょ濡れ、エステリーゼのスカートは随分重くなっている。それでも先に外にいた男の子の方が重度であるのは間違いないが。
 ふたりで植木鉢を廊下に運び、ふぅと一息。足元を見れば雫と泥でぐちゃぐちゃになっており、メイド達が見れば悲鳴を上げるだろう。

「んじゃあ俺戻るから」
「待ってください、体を乾かしていってください。そのままじゃ風邪をひいてしまいます」
「いいって、黙って出てきちまったからさ。それよりも花、頼んだぞ!」
「あ、はい!」
「絶対だからな、枯らしたりしたら承知しねーぞ!」

 花を運ぶと男の子は今までと真逆に、慌てた表情ですぐに雨の中を駆けて行く。風も強くなってきて大変なのに、たったひとりで本当に大丈夫なのだろうか。だが声をかけようにもずぶ濡れの背中はもう見えなくなってしまった。後に残ったのは雨の音と、泥だらけの鉢植えと、ぽかんとしたエステリーゼ。
 彼の方がまるで嵐のように騒がしい。なんだか不思議な体験をした気分になって、どこかフワフワと夢の中にいるみたいな感覚が残る。だが鉢植えは足元にちゃんとあるし、中の花はひょろりと揺れているのに間違いない。しゃがんで、はねた泥で汚れた花弁を丁寧に拭きとってやる。だが普段汚れる事なんて滅多に無いエステリーゼの指は証拠のように泥が付いており、あまり綺麗にならない。
 ――枯らさないように、あの子と約束をした。綺麗に通る高い声を思い返し、エステリーゼの唇はむにゃむにゃと歪む。自分の知識が役に立って、自分の知識を頼りに託されたんだ。なんだか認められたような気がしてとても嬉しい。服が汚れるのも構わず、植木鉢にぎゅっと抱き付く。

 それからえっちらおっちら、部屋まで運んでいる途中でメイドに見つかり、こんなにずぶ濡れで一体どうなさったんですか!? と金切り声を上げさせてしまった。今まであった事を説明するのもなんだか勿体無くて、簡素にこの花が弱っていたもので……そう言うがメイド達は着替えに走ったりしてあまり聞いてくれない。大きくふわふわのタオルで全身を優しく拭かれるが、植木鉢を持って行かれそうになり慌てて引き止める。
 泥だらけでひょろっちい花を守ろうと、エステリーゼは滅多になく大声を出して拒否した。メイド達は怪訝そうな顔をするが、どうしても駄目なんです、そう言って奪いひとり部屋に走って戻る。非力なのでスピードは出ないが、背中からかかる声を無視して走った。
 こんな風に強く主張したりメイドの手を振りきったのは初めてで、エステリーゼの小さな心臓はバクバクと大音量だ。罪悪感がちくりと刺すが、あの子と約束したのだからこの花は自分の手で助けたい。こんな我儘な気持ちになったのも初めて。
 部屋に帰って扉をパタリ、誰も入ってはならぬと閉めてやっと一息。頭に被されたタオルを丁寧にたたみ机の上に。それからいっぱいに詰まった本棚の中から植物に関係する本を片っ端から選び出し、この花を調べる。種類と特性、生息域からどのくらい栄養をあげればいいのか、水はどの程度あげるべきか、適した育成環境は……。目的があって知識を使うという体験は、胸踊る心地だった。

 ざぁざぁと強く降る雨音だが、室内で集中するエステリーゼの耳にはまったく届かない。顔を上げた頃の外は真っ暗で、時刻は夕方というよりも夜のよう。何時の間にこんなに熱中していたのだろう、パタリと本を閉じればぶるりと肩が震え少し寒い。椅子から降りて植木鉢の傍へ。元気にする方法は分かったので、今からこれを庭師の元へ持っていかなくては。サイズの合った植木鉢をもらい、用土を入れて水をあげるのだ。お日様のよく当たる窓辺に置いておけば、きっと元気になる。
 そうすれば花びらをのびのびと咲かせ、他の花に負けないくらい綺麗になるに違いない。それを見たあの子はどんな顔をするだろう。ちょっと乱暴な口調で、でも真っ直ぐな言葉で褒めてくれそうだ。赤い前髪を揺らし、お前すげーな! と言ってくれるかも。今日は雨みたいに曇り模様の瞳しか見れなかったが、キラキラした翠色、尊敬をいっぱいにして嬉しそうに。想像するだけでエステリーゼはどきどきと胸が高鳴り、興奮を抑えられない。
 じっとしていられなくなり、時間も構わず今から庭師の所へ行こうと張り切った。重さは変わらないはずなのに、なんだか最初よりも植木鉢が軽くなって楽々持ち上がるような気がする。そんな訳もなくずっしりと腕に重いが、でも気持ち的に浮かれているので、そのままふわふわと歩いていけそうだ。

 途中驚いた声で引き止められても、それを笑顔でかわし庭師を訪ねる。珍妙な訪問者に相手の方が驚くが、エステリーゼが植木鉢の中の花を見せれば途端にその顔は曇りだす。この花を元気にしてあげたいので、サイズの合う植木鉢と用土を分けてくださいますか。そうお願いすれば、さっと表情を笑顔で隠してしまった。
 男の子の事は隠し、弱っていた所を見つけたのだと言えば庭師はにこにこと頷いて、奥から手頃な植木鉢を持ってくる。自分でやります、と言おうとしたが流石プロの手は素早く、石や土をざかざか入れてあっという間に花を移してしまった。せっかく勉強してきたのに……少しだけ残念だが、綺麗に整えられた表面を差し出されてやっぱり嬉しくなる。

「窓辺に置いて、日光をたっぷり当ててやってください。水は葉っぱにかけないよう、たっぷり目にお願いします」
「どれぐらいで元気になります?」
「それはこの花の生命力次第でしょうなぁ」

 言葉を濁して庭師ははっきりと言わない。エステリーゼは不思議に思ったが、目の前でふらふら揺れている花に目を奪われる。軽い入れ物になった分、ひとりで持っても体がふらつかなくなったのでそのまま部屋に持って帰る事にした。庭師は自分が預かりますよ、と言ってくれるのだがそれを今度こそ笑顔で断った。
 部屋に戻り、窓際に受け皿を置いて植木鉢をコトリと置く。窓の外は冷たい風と雨が容赦なく降っており、あのまま外にいればこの花はきっと潰れて明日の朝日は拝めなかっただろう。ちらりと下を見ても、暗くて花壇は見えなくなっている。
 花が元気になったら、あの子はまた来るのだろうか? 考えてみれば名前もどこから来たのかも言わずに去ってしまい、次に何時来るかすら聞いていない。うっかりしていた、どうしよう……。途端に落ち込むが、視界の端に映る弱々しい花弁がエステリーゼの溜め息で揺れている。いけない、それでも約束は約束だ。きちんと世話をしてこの花を元気にしよう。
 タイミング悪くあの子が現れなくても、花が元気になりきちんと枯れて一生を終えれば、きっと胸を張って報告出来る。贅沢を言えば見て欲しい、綺麗に咲いたこの花を。エステリーゼは思わず笑顔になってしまう未来を思い描き、まるで新しいお話を読んだ時のような気持ちだと、止まらない頬の緩みを手で支えた。






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