貴方を呼んで辿り着く場所を教えて








1

 仕立ての良いつるりとした皮の靴、ワックスで丁寧に磨かれた爪先はキラキラと陽の光を反射する。几帳面に編み上げた靴紐はきっちりと結ばれて、持ち主とは対照的な硬さを見せつけていた。誰が見てもひと目で高級品だと分かるその靴は、今や縁が泥に汚れている。しかしそんな事を気にするのは執事長とメイドくらいで、その両方が居ない今では泥水が飛んでも気にしない。
 気になっているのはそんな事ではなく、目の前の黒い物体。子供の両手を広げた大きさで、影と葉っぱに隠れて一瞬落とし穴かと思った。場所は屋敷の裏庭、秘密の隠れ場所がある所。今日もうるさい家庭教師から逃げ出し、簡単には見つからないここへやって来た。2・3日続いていた嵐で土が泥濘み木の根が緩んでいるかもしれませんので、行ってはいけませんよと言われたばかり。だがそんな事言われれば余計に行きたくなるに決まっている。10歳の子供の好奇心は大人の教えなんて簡単に覆してしまうものだ。
 今日もここでアッシュが探しに来るまで遊んでいよう、そう思っていたのだが……自分の場所にこんな目立つ、真っ黒いもの。木の葉が上手く重なり濃く、少し先の壁には小さな穴が空いて外の風景が見える所も気に入っている。なのに主を差し置いてどーんと目立つようにあるそれに憤慨した。ここは俺の秘密の隠れ場所なのに! 
 昨日の嵐でゴミが飛んできたのだろうか、そう考えてそーっと、黒いものに触れる。小さな指先でちょん、と突付けば予想外に温かい。どうやらこれは黒いゴミではなく、真っ黒い毛皮。おそるおそる、毛に埋まる指をもっと直接的に触れれば……ぬるりとした感触。びくりと驚きさっと手を引けば、指の腹に掠れた赤茶色が付いて目を見開いた。

「お、おい……お前、怪我してるのか……?」

 そっと声をかけるが、反応は無い。泥濘みでも構わず膝を突けば真白い靴下と靴、ズボンにまでばちゃんと泥が付く。手を伸ばしてそっと、やさしく輪郭を撫でれば頼りない温度が。下の土ごと掬い抱き、重さに苦労してよろよろ胸に抱えると薄く苦しそうな呼吸が聞こえてくる。前足の辺りを手の平で撫でればやはりそこから、薄汚れた赤色があった。
 潰さぬように抱けば、生きたいと必死で呼吸している生き物の鼓動が伝わる。あたたかくてやわい感触は今にも腕から零れてしまいそうで怖い。今この生き物を助けられるのは自分しかいない、そう思ったら突如湧いた使命感が爆発し、駆け出した。


「なあ、本当に大丈夫なのか? もう起きる?」
「前足に酷い切り傷がありましたが、生命力が強いので大丈夫ですよ。でもまだ眠らせてあげてくださいね、ルーク様」
「子供なんだな、こいつ……」
「1年経ってはいないようですが子供と言っても立派な狼ですから、噛まれてしまえばルーク様の手なんて穴が空いてしまいますよ? 近寄ってはいけません」
「狼……犬じゃないんだ」
「ええはい。近くの森に住んでいるのかもしれませんね」

 偶然居合わせたシュザンヌの医師に無理を言って、傷付いた生き物を診てもらえばやはり瀕死の状態だったらしい。ゴミかと思うほど汚れていた訳ではなく、元々黒い毛皮が丸まっていたそれは、狼。白い包帯を体に巻きつけて、やっと手足が判別できるくらいには黒かった。まん丸まなこのルークが興味深く、じっと傍で見つめる。最初メイドに見つかった時は泥だらけの姿に悲鳴を上げさせたが、本人はそんな事よりも死にそうな生き物の為になんとかしろ! と屋敷中を混乱に陥れた。
 今では綺麗さっぱり着替え、近くでメイド達がお下がりください、と必死で頼み込んでいる声を無視している最中。そっと犬……いや狼を撫でるだけで後ろから悲壮な悲鳴が上がって少々うっとおしい。
 狼の子供は目を瞑ればどこが顔なのか判別出来ない程黒く、じっと頑なに丸まって身を守るように眠っている。くるんと円を描く少し長い尻尾を、そーっと触れるか触れないかの具合で撫でても起きてこない。早く元気になれよ、眠りを邪魔せぬように囁き、ルークはにこにこと笑顔を綻ばせた。

 それから1週間もしない内に、狼は食事を受け入れるくらいには元気になった。メイド達が交代で世話をしており、ルークは暇があれば常に狼の元へ通い続け、その甲斐があったのか4本足で立つ頃には指先を差し出せばペロペロと舐めるくらいには慣れてくれた。当然、執事長のラムダスは近寄ってはいけません触ってはいけませんと小煩い。しかしこの狼の命はルークが見つけたのだから、他の誰かに制限される言われは無いというものだ。
 狼を置いている部屋には必ずメイドがひとり一緒に付いて、ルークが噛まれないように見張っている。そんな事しなくともこの狼は随分賢いし大人しいのに。子供から若い間はやんちゃだから危ない、と一般的に言われているのが拍子抜けする程大人しかった。

「ルーク様、家庭教師の先生からずっとお勉強が止まっていると聞きましたよ? この子も随分元気になりましたし……そろそろお戻りください」
「うるさいなーあんなの今しなくってもいいだろ」

 メイドの困った顔を無視して、ルークは黒い狼に構いきりだ。寝転びながら撫でたり、ボールを投げてみたりと。しかしこの狼、対してあまり付き合ってくれない。大人しく撫でられているが抱き締められるのは嫌なようで抵抗したり、遠くのボールをつーんと澄まし顔で見ているだけだったり。想像していた犬と全く違う行動にルークは眉を曲げっぱなしだ。

「ねえ、ちょっと手を貸してくれる?」
「あ、はーい! ルーク様、少し離れますけどこの部屋から出ないでくださいね?」
「わかってるって!」

 どうせなら庭に出て思いっきり駆け回れば、この狼ともっと楽しく遊べるんじゃないだろうか……そう考えているのだが、中々監視の目は厳しい。メイドが呼ばれて出て行けば、部屋にはルークと狼だけ。抱き締めようとしても逃げられるわ止められるわで、未だ最初の時以外この腕に抱いていない。なので今日こそ、ぎゅっとするのである。ルークは闘士を燃やして狼の前で這いつくばった。

「おい、いいかぎゅーっとするからな? じっとしてろよ?」
「……ワフッ」

 呆れた、馬鹿にしたような溜め息に聞こえた。ムムッとルークは口をへの字にして、そーっと手を広げる。左右から囲いゆっくり狭めれば、狼はさっさとやってくれ、みたいな感じで自らルークの懐に飛び込んでくる。それに驚きわっ、と小さく声を上げたが爪をしっかり服に引っ掛けて狼は留まっていた。

「わー……、あったけぇ」
「ワンッ」
「あ、おい待てよ!?」

 しかし狼はもういいだろ、とすぐに懐から飛び降り寝床にくるんと収まる。あまりにも早いじゃないか、ほんの数秒っきりしか腕の中に居なかったぞ、もっとぎゅーっとさせろ! そう怒るが子供の加減ない力に付き合ってられないと狼はくあぁとあくびを。
 生意気な、俺が助けてやったのに……。ルークはジト目で見つめ、またも近くで狼と一緒に寝転ぶ。メイド達が居る前でやるとすぐにみっともないのでおやめください、と止められてしまう。今の内にもっとこの見たことのない生き物と遊びたいのに、肝心の相手が遊んでくれない。ぷー、と頬を膨らませても黒い狼はそっぽを向きっぱなしだった。つれないけれど、でもやっぱり興味は尽きない。そしてルークはこの狼に名前が無い事を今更ながら思い出す。

「なーお前名前何? 俺ルークだぞ、ルーク!」
「……」
「って野良じゃある訳ないよな……よし、俺が付けてやるぞ光栄に思え」
「……ワフ」
「んーそうだな、格好良くって渋い感じの……ブラックサンダー号ってのはどうだ!」
「グルルゥ」

 ルークが懇親のネーミングを上げた途端、狼は唸り声を上げて立ち上がる。こんな反応は今まで見たことが無く、すぐに怒っているのだと分かった。つまり、ブラックサンダー号はお気に召さない止めろ、と言っているのだろう。

「えー? なんだよ黒くてピッタリじゃん」
「ワンワンワン!」
「そ、そんな吠える程嫌なのかっ!?」

 思ったよりもはっきり吠えられて、ルークはびくりと肩を驚かせる。そしてそんなに嫌がらなくてもいいのに……としょんぼりした。狼はキョロキョロと周囲を見渡し、机の上のペンを見つけチャカチャカ爪の音を立てて歩く。ワフ、とルークを振り返ってから呼び付け、器用にペンを口に咥えて机にガリガリと書き始めたではないか。ルークは驚きながらもそれを見ていると、狼は机にいびつだが確かに文字を書いていく。

「Y・U・L・I……ユーリ? お前ユーリって言うのか!」
「ワフッ」
「なんだよ名前あんなら最初から言えよな。よしユーリ、ユーリな! 俺はルークだぞ、分かるか?」
「ワフ、ワンッ」
「お前犬のくせにかっしこいなー!」
「ワンワンッ!」
「あれ、なんだよ何怒ってんだ? ワンワン言われてもわっかんねーよ」
「……クゥン」

 吠えられても分からない。名前が書けたのだから他に何かもっと書いてみろ、とインクを付けてペンを渡すがユーリはぷいっと拒否して椅子の上から飛び降りてしまう。名前を教えたんだからもういいだろと、寝床にしゃがんで瞳を閉じてしまった。ルークの頬はまたもぷくーっと膨らみ追いかけるが、気が済んだのかちっとも構ってくれそうな気配が無い。
 ゆーり、ゆーりー! そう乱暴に叫んで黒い体を揺らしても思いっきり無視だ。狼の体は子供とはいえ大きくなり始めた頃で手足がぷくぷくと太く、将来立派な大きさになるだろう予想が容易に出来るサイズ。ルークは無理矢理ユーリを抱え、暴れる手足を押さえつけてぎゅーっと抱き締めた。

「へへ、大人しくしろっての」
「グルル……ワウ、ワンッ!」 

 ユーリは手足をバタつかせるが、爪でルークを引っ掛けるなんてしない。それに調子付いてもっと強く抱き締めようとした時、部屋の扉が開いてメイドが戻って来てしまった。それに気を取られて顔を上げれば、緩んだ腕からするりと黒い体は抜け出てしまう。あーっ、と声を上げて悲しみ追いかけようとする前に、メイドが目を尖らせてルークの腕を掴んだ。

「ルーク様、机に落書きするなんて……紙ならすぐ傍にありましたでしょう?」
「え、違うってそれはユーリが書いたんだよ!」
「ユーリ……誰の事ですか? この部屋にはルーク様しか居ませんよ」
「この犬の名前だよ、こいつユーリって言うんだ! 凄いんだぜ自分で名前を書いたんだよ!」
「まあ、ルーク様……そんな風に誤魔化そうとするなんて」
「誤魔化してない! ユーリがやったんだって!」
「アッシュ様はお勉強に励んでいらっしゃるのに……ルーク様は悪戯ばかりで何時まで野良犬と遊んでいらっしゃるんですか?」
「だ、だから……俺じゃなくってぇ……!」

 言っても信じてもらえない悲しさに、ルークの瞳からは瞬間じわりと涙が零れそうになる。本当にユーリが自分の名前を机に書いたのに、頭っから信じてもらえないなんて。しかも双子の弟の名前まで持ちだして、最近聞きっぱなしのお小言に突入だ。アッシュ様は素晴らしいのにルーク様は……アッシュ様は頑張ってらしてるのにルーク様は……そんな声を聞くたびに、ルークは腹の底でグラグラと湧き立つ苛つきが温度を上げる。確かに勉強から逃げているのはルークだ、だって家庭教師ですらアッシュと比べて比較するのだから嫌になってもしょうがないじゃないか。だがそれを理由に怒っても、何時までも子供のままで嘆かわしい、なんて言われてしまう。
 経験上これ以上弁明しては余計に呆れられてしまう事が分かっていた。しかし悔しくて言い返したい、子供の精神では大人しくなんてとてもじゃないが出来ないのだ。だが言い募る言葉が見つからなくて、への字口にひん曲げたまま動けない。
 またこのまま、メイドの溜め息で切り上げられるのか。そう思っていたらユーリが突然駆け出し、少し開いていた扉から部屋を出て行ってしまった。メイドがきゃあ! と高い悲鳴を上げて驚く。ルークはすぐに追い駆けて部屋を出た。背後から自分の名前を叱るように呼ぶ声が飛んでくるがそれを振りきって。

「ユーリ、ユーリ待てよこら!」
「クゥン……」
「お前、なんで急に走りだしたの、怪我もういいのか?」

 廊下を2回程曲がってしまえばユーリは途端に足を止め、くるりと振り返ってルークを待つ。はぁはぁと息切れを整えながら追いつくがユーリはケロリと平気そうにつぶらな瞳で見上げていた。前々から賢い犬だと思っていたが、もしかして今のは……。

「もしかしてお前、俺を助けてくれたのか?」
「ワウ?」
「……そんな訳ないかぁ」

 包帯を巻く前足に気を付けて、ルークは少し重い体を抱き上げる。今度は抵抗されなかった。巻いたしっぽが腕に触れるこそばゆさを我慢して、やさしく包めばペロリと頬を舐めてくれる。やっぱり慰めてくれているみたいで、少しだけ嬉しい。
 偶然とは言え折角ユーリを部屋から連れ出せたのだ、メイドや騎士に見つかる前にこのまま庭に出てしまえ。そう考えてルークは忍び足で廊下から庭に出た。昼過ぎ頃、花壇には水が滴る跡が幾つも見受けられるが庭師の姿は無い。今の内、と突っ切って走り、ルークは離れにある自分の部屋に駆け込んだ。しかし部屋に入る直前、ちらりと視線が隣に行ってしまう。
 離れにはルークとアッシュの部屋が並んでおり、今の時間ならば片割れは自主的に勉強している頃だろう。少し前まではふたりで同じ部屋、同じベッドで眠っていたのに……。またもじんわり嫌な気持ちになりそうなのを我慢して、ルークは自室ではなくアッシュの部屋の扉を押した。メイドは信じてくれなかったが、双子の弟ならば絶対に信じてくれるはずだ、そう信じて。

「犬が自分の名前を書く訳が無いだろ、常識で考えろよ」
「だって、ユーリは俺の目の前で書いたんだぞ!?」
「じゃあ今、ここで書いてみろ」
「ユーリ、ほら書け! お前の名前だぞ、さっきみたいに書けよー!」
「ワァフ……」
「犬にすら呆れられてるじゃないか、馬鹿だな」
「なんでだよ! もー!」

 あの時ユーリは自ら名前を知らせて書いたのに、今はあれが夢だったと言わんばかりにペンすら咥えようとしない。黒い体ごとゆさゆさ揺らすがうんともすんとも返事してくれないなんて、酷い裏切りだ。それを一瞥して、アッシュはまたすぐに机に向かってしまう。もうルークなんてちっとも見てくれない、深紅の髪がさらりと揺れるだけ。
 ルークは悔して信じて欲しくて、背中からがばりと抱き付く。以前はこうやれば、すぐに何どうしたんだよ、と聞いてくれたのに……。今はツンと冷たく無視されるばかり。

「お前も、そんな汚い犬にばっかり構ってないでちゃんと勉強しろ。将来民の前でみっともない姿を晒す気か?」
「なんだよ、どいつもこいつも勉強しろ勉強しろって、うっせーんだよばか! アッシュのばーか! 頭でっかちデコっぱち! 一生机に齧り付いてやがれ!」

 子供の声で怒鳴り、ルークは勢い良く部屋を出た。ユーリを置いて裏庭へ、ガサゴソと茂みを掻き分けて奥まで逃げるように。秘密の場所はルークとアッシュしか知らない、ここで待てば以前は探しに来てくれたのに最近では迎えにも来てくれなくなった。ひどい、アッシュは俺よりも勉強が好きなんだ。ぐしぐしと零してしまった水滴を腕で拭いながら、ルークはしゃがみ込む。丁度木の根本には穴が空き子供ひとり分がすっぽり収まる洞になっている、少し前はここにユーリが倒れていた。乾いて赤茶になっている葉っぱを追い出しルークは膝を抱える。
 どうしてだろう、去年の誕生日まではアッシュは一緒に遊んでくれたのに、今ではああやって勉強ばかりしている。なんでも剣術の勉強もするらしく、今度剣の先生も呼ぶんだと言っていた。あの時の父親は自慢げな、我が子の成長を鼻高々にして語っていた記憶を引っ張りだす。ルークの事をそんな風に自慢してくれた覚えは無く、ただ将来お前は王になるんだからな、と言い聞かせるような言葉だけ。
 父親に褒められないならば、アッシュが離れていってしまうならば、ルークは王なんていらない。なりたくもない。どうしてみんな離れていってしまうんだろう。考えてもルークはさっぱり分からなかった。
 ざわざわうるさい木の葉の音にも腹が立ち始め、顔も膝に埋めてしまう。もう誰の声も嫌だ、うるさい声は頭に響く正体不明の囁きだけで十分だというのに。そうやってぎゅっと自分を抱き締めていると、腕にぺろりと触れる湿った感触が。
 驚いて顔を上げれば、そこには黒い毛皮と黒い瞳で、クゥンとユーリが立っていた。上げたルークの鼻をペロペロと舐め、涙の跡だって誤魔化してくれる。自分から身を寄せて懐に入り込んできた。

「お前、やっぱ慰めてくれてんだ?」
「クゥン」
「ありがと……。でも、元はといえばユーリが原因だと思うんだけど」
「……ワフゥ」

 そんな事は知りません、なんて顔してユーリは顎を乗せてくる。ちょこんと乗った鼻先はフンフン動いて可愛く誤魔化していた。それにくすりと笑い、ルークはそっと背中を撫でてやる。艷やかで黒い毛皮は綺麗でさらさらと気持ち良い。最初見た時そりゃあゴミかと思ったけれど、きちんと手入れしてやればこんなにも立派だ。大きくなればそれはそれは強く格好良い狼になるのだろうな。
 ささくれだった棘は動物の暖かさでゆっくり仕舞われ、ルークの心も落ち着いてくる。ここで待っていてもどうせアッシュは来てくれないのなら、そろそろ戻った方が良いだろう。でももしかしたら探しに来てくれるかも、そんな薄い期待をどうしても捨てきれない。
 いい加減屋敷の方でも、飛び出したルークを探している頃だろう。どうしようかな……と迷っていると、ガサガサ掻き分ける音が近付いて来る。裏庭とはいえ小動物は生息しているので、何かまたユーリのような犬が……狼が現れるのか? そう緊張して体を硬くしていれば現れたのは、金髪碧眼の見知った顔だった。

「ルーク様、こんな所に居た」
「あ、ガイだ!」

 ガイは最近ファブレ家に、父親が近い年の方が良いだろうという事で入ったルークとは4つ年上の従者だ。まだ幼いながらも案外テキパキと動き、メイド達からの覚えも良いらしい。ルークとしても遠すぎない年上の存在が新鮮で、何かあればよくガイを呼びつけている。
 彼は腕まくりをして髪に葉っぱを幾つも付けていた。どうやらメイド達の頼みでルークを探しに来たらしく、やっと見つけましたよ、と疲れで溜め息を。探しに来て見つけてくれた嬉しさにルークは爆発してわーっと飛び付こうとした。だが背中をクイッと引っ張られ振り返れば、ユーリが呻きながら服を噛み締めているではないか。

「わ、わっ……なんだ、離せよな」
「ルーク様、ひとりで屋敷から出てはいけないってあれ程言われてたでしょう」
「いいじゃんユーリも一緒だし! それよりもガイ、その言い方止めろって何度も言ってるだろ!」
「そんな事言われましてもね……うわっ!?」
「ウゥ〜……」

 何故かユーリは鼻に皺を刻み牙を剥き出しにして、ガイへ唸り声を上げていた。今まで大人しく利口にしていたのに、こんな敵意は見たことが無く驚く。

「どーしたんだ? ガイはガイだぞ、怖い奴じゃないって!」
「ウウウゥ……」
「お前の包帯替えてやったの俺なんだけどな……」
「ユーリ駄目、怒るなよ!」

 ルークはユーリをぎゅっと抱き締め自分の体で包み込んでしまう。めっ、と叱るように口を掴めばキュウンと妙に可愛らしい声で鳴いた。しかしガイが近付こうとすればまた牙を剥き出して唸るものだから、ルークはふさふさのしっぽをぎゅーっと力強く握る。

「まぁ、若い内は血気盛んだから好戦的なのかもしれませんね」
「いいかユーリ、誰かを噛んだりなんかしたらお前ポイッてされちまうんだからな? 駄目だぞ!」
「クゥン」

 言い聞かせるように、目を見てビシリと言えばユーリは黒い瞳を悲しそうに瞬く。子供心にその仕草は可愛く、許してしまいそうになるがルークは心を鬼にした。しかし声だけは立派に可哀想にして、ユーリはそっぽを向きながらもきっちり自分の体を垣根にして距離を取らせようとしている。
 どうしてこんな態度をガイにするのか、さっぱり分からない。怪我をして包帯を巻いていた時は大人しかったと聞いていたのに、ルークが間に居ると機嫌を悪くするのだろうか?
 結局口調も直さなかったガイに連れられて、ルークは渋々と屋敷に戻る事にした。帰ればアッシュが頭から角を生やし目を尖らせ、全くお前はどうしてそう……ガミガミと叱ってくるのだが、自室から出て待っていてくれたという都合の良い事実にルークは喜んで吹き飛ばしてしまう。足元のユーリはクゥンと呆れたように、自分から部屋に帰って行ってしまった。




*****

 それからユーリの傷が治るまでは屋敷で飼うのだと、強い希望でルークの自室でユーリを寝かせている。反対されるかと思ったが、情操教育のひとつだ、と父親から許可を貰い可愛がっている日々。食事の世話は器に盛るくらいだが、包帯を替えたり散歩をしたり、基本的な世話はルークが率先して行なっていた。
 しかし世話という程ユーリは世話をかけるような行動は殆ど取らないのだから不思議なものだ。食事や水はこぼさないし、はしゃいで誰かを傷付ける事はしない、散歩として庭に離しても決してルークから見えなくなる距離には行ったりしない。そして何故かトイレだけは人前ではしない、とメイド達からも噂に上っている。まるで本当に人間の言葉や対応が分かっているくらいに賢い、と他の皆からも可愛がられるようになっていた。

 しかしユーリを拾ってから傷が治るまでという制限。それは思っていた以上に早く、ルークの我儘でずっと先延ばしにしていた頃。時間としてあれから半年、執事長であるラムダスから遂に森へ帰すべきだと直接言われてしまった。

「いやだ絶対やだ! こいつは俺が飼うの! もう俺のなんだからな!」
「ですが野生の狼を人間の勝手で飼育していいものでしょうか? もしかしたら彼の親が探しているかもしれませんよ」
「ユーリの父上と母上が……」
「自然に生きる動物は自然で暮らすのが幸せなのです。ルーク様も家族と離れ離れはお嫌でしょう」
「……でもっ」

 半年でもユーリは結構に成長して、今ではルークの力では抱いて持ち上げる事は出来ない。産まれて1年と言えば人間ならばまだ赤ちゃんだが、動物では若者の域に入り始める頃だろう。ユーリはクゥン、と指先を舐めて慰めてくる。

「ユーリ、お前家に帰りたいのか?」
「……ワンッ」
「大丈夫なのかよ、ひとりで帰れる?」
「ワンワンッ!」
「ほ、本当に? お前ん家ってどこなんだ」
「バウワウッ、ワンッ」
「ライマの近くの森か? 俺が遊びに行ける場所だったりする?」

 ユーリは今の状況と言葉を完全に理解するように返事をして、最後の問いだけはフルフルと首を振った。ルークはしゃがんで目線を合わせじっと見つめるが、相手はピシリと凛々しく座ったまま。何時ものように顔をすり寄せてくれない。

「……遠いのか」
「ワン!」
「やっぱ父上と母上の居る森が……いいのか? 俺の屋敷じゃ駄目?」
「ワンワンッ!」

 はっきりと間違えようのない返事をして、ユーリは尻尾を振った。どう考えても帰りたそうな様子、ルークも家族と一緒が良いと言われたら強く引き止める事は出来なくなってしまう。けれどやはり、半年ずっと一緒に居たユーリと別れるのは悲し過ぎて素直に頷けない。ますます距離の離れていくアッシュとの溝を代わりに埋めてもらっていたのだから余計。

「ううう、なんだよお、お前も俺から離れてっちまうのかよおっ!」
「キュウウン……」

 悲しくて嫌で、でも家族の元が良いのも分かる。けれど離れたくない気持ちは溢れて、ルークの瞳からはぼろぼろ大粒の涙がこぼれた。ユーリは体を押し付けて擦り寄せ、その水分をペロペロと舐め取る。半年の間何度もしてくれた慰め、しかし今はそれも意味を成さない。だってユーリは帰らないとは言わないのだ、その口は人の言葉を持たないのだから。
 ぐすぐすと鼻を啜り、濡れた手と頬で精一杯ふわふわの体を抱き締める。眠る時も一緒の毛布に潜り込ませて、朝見つかってよく怒られた。日差しに暑そうな時は水浴びをさせて、体を洗ったりしたのに。アッシュや父親に相手にされない寂しさを、これからどうやって誤魔化せばいいんだろうか。恨み眼を見上げてもクゥンと申し訳なさそうな声。賢くて強くて大好きだが、それでもやはりユーリとお別れしなければならない。家族と離れるのは、やっぱり悲しいから。
 こくんと言葉無く頷いて、渋々と了承する。ユーリはそれを見てますます、これが最後だと言わんばかりに尻尾ごと体を擦り寄せてきた。






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