SOSロマンス








4

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 翌朝、ふああとあくびを思い切りしてユーリは目覚める。気持ちの良い朝だ、とは窓が無いので言えないのだが、一先ず無事に一日は始まってなにより。だが少し前からお馴染みになってしまった、慣れたくない感覚が突如背中を冷やす。ぞくりと、猛烈に嫌な予感。
 数々の戦闘をくぐり抜けてきたユーリのカンが、これはまずいぞと叫んでいる。だがそれが一体何なのか、きょろりと周囲を見回し確認するが特に何も変化は無い。フレンはきちんと隣で眠っている、サイドテーブルに例の剣が存在を主張していたが。

 ベッド横に立て掛けている刀にそっと触れる。これは以前例の町で買ったせいで100ガルド足りなくなり、ルークから借りなくてはならなくなった事態を引き起こした、あの刀だ。優秀なポッポは数日で研ぎ終え補修も済ませ、あの時買った何倍もの価値の仕事をしている。今の自分が置かれている状況を考えると複雑な気分になるが、まあ。
 少し待ってみても、何もやって来ない。けれどどこか、居座りが悪いと言うかなんと言うか。ユーリはそっと立ち上がり、部屋を出て洗い場に立ち、顔を洗い歯を磨いて身支度を整える。その間でも肩に乗る嫌な気配は離れない、むしろどんどん強くなっていく。

 落ち着かなくなり部屋に戻る。時間としてはやや早朝、もうそろそろフレンが起きてくる時間だ。ベッドに座り両手を組んでそわそわと、落ち着きなく何度も組み直す。
 何となく覚える予感、……これは絶対ルーク関係だ。そう確信してユーリは立ち上がり、本人が何かやっていないか確認する為に部屋を出ようとする。まさか昨日あれだけ駄目出しをしておいて、早速爆弾を投げるだなんてしないだろうけれど、ルークを侮ってはいけないと考えた。
 早足で扉の前に立ち部屋から出ようとしたが、その直前に目の前で開き少しぎょっとする。ぱちくり瞬いて扉を開けた人物を直視した。すると、彼は見覚えのある笑顔で挨拶してきたのだ。

「……ガイ」
「やあ、ユーリ」

 びゅん、とガイは間髪入れず剣を振るった。痛いくらいの殺気で体が敏感になっていたので、ユーリは寸前で躱す。嫌な予感はばっちり当たっていた、この純粋に邪というか、目的を持った殺気。以前に展望室で受けたあの感覚よりも強烈で、ガイの中で堪忍袋の緒という緒が燃え尽くされている状態を知る。
 ユーリは直ぐ様退き、立て掛けておいた刀を手に取った。どうせ今回も説得は無理なのだろうな、と諦め気味だ。口で分かってくれるのならばわざわざ部屋まで赴いたりしないだろう。

「おはようさん、随分と物騒な朝の挨拶だな?」
「そうだな、何せユーリを地獄に送るんだから、これくらはな?」
「またか……。あいつ一体、今度は何を言ったんだ?」
「……これは、どうしたと言うんだい?」

 尋ねる前にガイの殺気でフレンが起きてきた。ユーリは舌打ちを打つ、この件に関してフレンが自分の味方になるかどうか、正直半々と言った所だろう。……経験上、半々だと負ける。
 直ぐ様部屋から出ようとしたが、ジュディスも殺気に反応し起きてくる。これはまずい気がしている、色んな意味で。

「おいガイ、朝っぱらから部屋はまずい。場所を移そうぜ」
「今すぐ終わらせれば済む話だろ? 気にせずその首を差し出してくれ」
「……痴話喧嘩かしら?」
「ええ!? ユーリ、どういう事なんだい!」
「どこをどう見て痴情のもつれに見えるんだよ!」

 ちらりと部屋の隅を見て、なんとかエステルは起きてない事を確認する。だが武器を合わせれば目覚めてしまうだろう、とにかくガイを部屋の外に叩きださなくては。それくらいはフレンでも協力してくれるはず、そう思って振り向くがガイの言葉で一気に状況は変わった。

「ルークを誑かして子供を孕ませて捨てるつもりだったんだって? ユーリ、いいからとにかく死んでくれ」
「ぶっ!」
「あら、非道ねユーリ」
「……ユーリ、本当かい」
「本当な訳あるか! 第一ルークは男だろうが!」
「ルークはユーリの為に女になる工事を受けると言ったんだ……王位すら諦めて……。その先に捨てられる事を分かってても、愛しあった証が欲しいと言っていた!!」
「あのお坊ちゃんは一体何を考えて生きてやがる!?」

 男が女に、そんな簡単になれる訳がないしおまけに子供だとか。一瞬昨日ルークがナイスアイデアだと提案した件を思い返す。まさかあれを言ったのか、一秒も満たず却下したと言うのに!
 途端、ぞくりと右側から強烈なプレッシャー。体が勝手に動いて飛び退けば、バンエルティア号鉄板の床がめこりとへこんでいた。それは昨日フレンの給料が空になってしまったと言う剣。突き刺したり刃で切り刻むタイプではなく、重みと筋力で肉と骨を叩き断つ重量系の西洋剣。
 顔を上げてみれば、フレンの背後で正義の炎が揺れている幻が見えた。メラメラと燃え盛る中に、何か苦渋を垣間見える。それはきっと親友が外道に堕ちた悲しみを表しているに違いない、勘違いだが。

「ユーリ、やっぱり昨日僕が切腹させれば良かったんだね……」
「待て、落ち着け! エステルが起きるだろ!?」
「そうだね、エステリーゼ様にこんな悲しい事実を伝えなければならないなんて……僕の身は千切れそうだよ。でもこれも、君の親友である僕が責任を持たなければいけない事なんだ」
「待て、ユーリの首は俺が刎ねる!」
「ユーリってば、大人気ね」
「この猪突猛進馬鹿野郎共が!」

 少し考えれば分かる事なのに、ガイはともかくフレンまで。こんなにも親友にとって自分の信用は低かったとは、甚だ心外だ。世話焼き母親のように言う小言を無視し続けていた事が、そんなにも気に入らなかったのか。

 フレンとガイが同時に襲ってくるので、ユーリはとにかく逃げを打つ。二人は頭に血が昇っているのであまり冷静さは無く、連携が無いのでその隙を突いて部屋を出た。
 しかし立ち止まっている暇はない、ガイの剣技が風を起こし矢継ぎ早に襲い掛かってくる。廊下でちょこまか避けていると、着地地点を予測されてフレンの重い一撃が。ガヅン! と鉄板の壁に穴を空けていく。
 とにかく狭い場所では逃げ場が無い、エントランスに出ればアンジュが止めてくれるかもしれないので一縷の望みを託してユーリは走った。

「……あっ!」
「お前、ルークこの野郎!」

 が、出た途端に入ってきた光景に驚く。自分の状況とあまり差異が無さそうに、ルークがアッシュに追い掛け回されている。アッシュの額には血管が走り、口元は歪んでいるのに目が笑っていない。剣を両手で握り、剣撃と魔法を所構わず放っていた。
 アッシュがここまでブチ切れている様子は初めて見る、一体この馬鹿王子は何を言ったのか。まあガイの言葉からある程度の予想は付いたが、ユーリは罵倒の勢いでルークに噛み付いた。

「何言った何言った何言いやがったお前は!」
「ユ、ユーリが女になるの嫌そうだったから、俺が女になって子供産むって言った!」
「ラザリス頼む、この馬鹿に付ける薬をくれ! 今すぐくれたらオレはジルディアの民になっていい!!」

 いっその事移民しよう、そう世界逃亡を視野に入れてユーリは叫ぶ。ルークは最早目的の為に手段を選ばなくなっており、それはいいのだが逐一ユーリが巻き込まれている。あのお茶会からまだ2日でこんな事を言い出せば、自分は無関係じゃありませんなんて誰も信用してくれない。
 頼みの綱であったアッシュが沸騰しており、アンジュが常駐しているエントランスで追いかけっこしていてまだ秘奥義が飛んでこないという事は……。ちらりとカウンターを見れば天の助けは居なかった、そう言えばまだ時間として早朝、早すぎたのだ。神は死んだ! そう心の中で嘆きユーリは十字を切る。

 廊下からガイとフレンが合流し、不自然無く連携して追い詰めてきた。一体何時の間にそんな通じ合ったのか、波長のように隙を詰めて刃が飛んでくる。ユーリはとにかく避ける事に必死で、トン、と背中同士で当たるルークに気が付く。
 視線をちらりと交わし合い、甲板への扉へやれば少し下の朱色の旋毛が頷く。人はやはりピンチの中ならばどんな相手とも通じ合うらしい、嫌なものだなとユーリは思う。
 剣紐を握り、まだ鞘は抜かない。目の前のガイとフレンはブチ切れているが、ユーリの背後にルークが居る事に気が付き隙を窺っている。対してアッシュは全く気にせず、魔法を放ってきた。

「アイシクルレイン!」

 声が聞こえてユーリとルークは同時に反対方向へ飛び出す。二人という目標物が消えて、氷の魔法はユーリと対峙していたガイとフレンを襲った。
 ざまあみろ、と笑う隙も無い。ユーリとルークは足を止めずに甲板へ出る。背後からの殺気は全く途切れてくれず、青空がゴールだなんて温い事は許さないようだ。

 広い甲板へ舞台を移す。目に映る光景は雲一つ無い空に、天高くそびえ立つジルディアの牙。残念な事に現在海上を走行中であり、陸地はまだ少しだけ遠い。海に飛び込み泳いで逃げるかとも思いつくが、気温がまだ低く正直厳しいと言わざるをえない。あともう少しだけ近付ければ多少無茶でもやってやれない事は無いだろうが、その僅かな時間を待ってくれる追っ手ではないだろう。

 ルークが甲板の踊り場を越えてどんどん前方先端部へ走る。それにユーリは舌打ちし、追い駆けた。自分から袋小路に行ってどうするのだ、あの考えなしは。かと言って他に逃げ場も無いのは事実か、背後から声と殺気が飛んできている。
 巨大飛空艇バンエルティア号の前方最先端部。床には緊急時の浮き輪やロープ、重りの錨が転がっていた。ごちゃごちゃした足元を飛び越えていると、光の矢がユーリの足元へ飛んでくる。フレンのホーリーランスが錨を破壊し飛び散らせ、一瞬足を止めさせた。
 鉛の破片が頬を横切り、バックステップで飛び退く。着地地点を狙ってガイが十字裂破衝を敷いており、ビリビリと肌から伝わる殺気でユーリはそれを避けた。バク転から進行方向を変え、追い詰められてルークの元へ。
 だが後ろにも下がれない。アッシュが教団詠師剣をルークへ突き付けており、怒りの声で叱責した。

「屑だ屑だとは思っていたが……これ程救いようのない馬鹿だとはな!」
「アッシュガチギレてるじゃねえか!」
「アッシュが切れてるのは何時もの事だろっ!」
「もういい、そこの黒いのも連帯責任だ! まとめて沈めっ」
「オレのどこが協力してたよ!? むしろ被害者だっ!!」
「馬鹿が増えると国が傾くんだよ!」
「誰が馬鹿だお前の兄貴が一番馬鹿だろうが!」
「そんな事言われずとも一番良く知っているわ!!」
「お、お前らなあっ!」

 最大の被害者であるはずなのに、いつの間にか共犯者になっているとは。流石ファブレの血筋は考えを飛ばすのがお得意なようで、もうユーリには手に負えなかった。
 先端部に追い詰められ、背後は空と真下に海。ガイとフレンも加わって、じりじりと足場は無くなっていく。
 刃のように突き刺さる怒りはびしばしと、ユーリただ一人に。隣のルークは焦っているが、実際この場で一番命の危険があるのは何故か一番の部外者であるはずのユーリ。
 ギルドの仲間同士でこんな馬鹿な、とは思うがガイのぶち切れ度とフレンの親友である自分がとどめを刺そうという気配が洒落になっていない。アッシュは昨日の時点で唯一の助けだと信じていたのに、裏切られた気分だ。
 2日前の茶会から、展開が怒涛のように襲い掛かってきており理解出来ない。どの場面ででも、ユーリが自分から積極的に首を突っ込んだはずはないのだが。強いて言うならば、前にルークから100ガルド借りた、ただそれだけ。なのに何故こんな事になっているのか。ユーリは頭を抱えたいが、そんな隙を見せれば自分の頭と胴体はさよならしてしまうだろう。

「おかしい……。オレはたった100ガルド借りただけなのに、何で人生の灯火が消えかかってるんだ!」
「一生恩に着るって言うから! 一生恩に着るって言ったのお前だからな!」
「一生がこの瞬間で終わりを迎えそうだよ!」

 確かにあの時、その言葉を最初に使ったのはユーリから。だが命を助けた訳でもないのに、本気で命を捧げられる訳がない。
 ほんの少しだけ済まなそうなルークな顔を見て、ユーリは直接怒りをぶつける事も躊躇してしまう。こんな事ならば昨日ルークに会って事情を聞くなんて、しなければよかった。
 端から端まで部外者で被害者ならば、全てルークが一人で馬鹿をやっているんだと糾弾できた。けれど昨日、自分は馬鹿な事にほんの少しルークの心を垣間見てしまったのだ。脳天気で自分の事しか考えていない、楽に生きているお坊ちゃまだと勝手に思っていた分、ユーリの中でロケットが上がって墜落するくらいには見直している。しまったこれは褒めていない、だが感情的に言っても事実だ。

 隙あらば降ってきそうな剣と魔法の気配の中、ルークは天辺の朱毛をしょんぼりと、けれど眉を上げながら怒る。今の立場的に、どう言っても火に油を注ぎそうなものなのに我を通そうとする様は、空気が読めないと言うか諦めが悪いと言うか。

「俺はただ、二人が離れるのを見るのが……嫌なだけだったんだ」
「……馬鹿が、その話は散々しただろうが」
「散々しても、アッシュは全然真剣に聞いてくれなかったし答えてくれなかった! ナタリアと好き同士なのに、なんで一緒にならなくてもいいんだよ! それが国の為だって理由、俺は納得いかねぇぞ!」
「貴様が思うよりも高度な政治的取引が働いてるんだよ、お前が首を突っ込む事じゃねえ」
「突っ込むに決まってるだろ、お前らの事なんだぞ!? ナタリアにも同じ事言って納得させてんのか!」
「ナタリアは違う! 多分ナタリアは……俺の願いを、……叶えようと」

 ナタリアの名前を出せば、途端にアッシュの表情は曇る。そしてその言葉にユーリは眉を歪めた。どうやらアッシュとナタリアの方でも、何やら複雑な事情があるらしい。お互いでお互いの事を心配し合っているのに、どちらも一方通行のようで。双子だの幼馴染みだのと、縁が深い分口にしなくとも相手の為だと勝手に思い込んで勝手に動いているのだろうか、そんな気配が濃厚だ。
 なんて身内の痴話喧嘩だろうか。呆れたいが、ユーリの思考はここに来て別の考えに支配され始める。

 アッシュは自分の中の何かを吹き飛ばすように叫ぶが、逆にその言葉でルークに火を点けた。

「いいから……つまんねぇ事で我儘言うんじゃねえ!」
「つまんねぇ事!? お前、ナタリアとの事をつまんねぇ事って言っちまうのか!? 一緒に良い国作るんだって約束したんだろ!?」
「一緒に居なくとも、良い国は作れる。むしろ別々の立場の方が、都合の良い事もあるんだよ!」
「なんだそれ! 都合が良いからって……お前それ、本気で言ってんのか!」
「国に身を置く者が、軽々しく本音を曝け出すもんじゃねえんだよ! お前は黙って大人しく王位に就いてやがれ!」

 双子の込み入った喧嘩に、ガイとフレンは僅かだが足を退く。この場を脱するチャンスだと言うのに、ユーリは逃げようとはもう思わなくなっていた。
 今のアッシュの言葉に正直カチンと来たユーリは、覚悟を決める。どうせここを逃げ出しても、この船にいる間は似たようなもの。ならばもう、毒を食らわば皿まで、だ。
 低い声で挑発的に、足を前に出して文句を付けた。

「へえ、国政者サマは心を隠して民の為に腐心し、身を犠牲にするまで働いてくださってる訳だ。有り難くって涙が出てくるじゃねえか」

 態とらしい態度と声に、アッシュの瞳がギリギリと細まる。怒りと言うよりも苛つきの視線を受けて、ユーリは鼻で笑った。隣のルークが戸惑い、眉を顰めて見てくるのが面白いなと頭の端で思う。

「貴様は部外者だろうが、口を出すんじゃねえ」
「いーや出すね、何しろオレはルークと将来を誓った仲だからな! このままグズグズダラダラやられて、おたくの理想郷設計に付き合ってらんねーんだよ」
「……貴様、国も政治も知らん奴が」
「おお知らないね、だってあんたはルークみたいに言わないからな。言いたくてもやりたくても、ぜーんぶ民の為にならなきゃ我慢しますやりません、都合良いですからってな」
「何が言いたい!」
「何でもかんでも、民を言い訳に使えば良い国政者だと思ってんじゃねーぞ、押し付けがましいんだよ!」
「なっ!?」
「おいこらユーリ、お前言い過ぎだぞっ!?」

 ユーリの言葉に、ルークが反発する。このお坊ちゃんは全く、誰を庇っているのか分かっていないらしい。まあ元々ルークはアッシュの為に動いていたようなものなので、当然と言えば当然だろう。その張本人にこそ、意思疎通が出来ていないというのはどんな笑い話か。

 民の為に心血を注いでくれる貴族や王家達は、ユーリにとって本来喜ぶべき人種だ。けれどそれを理由にして、自分の全てを犠牲にしたのだと言われても正直困る。そんなつもりは無いと言うだろうが、ルークがユーリを巻き込むような行動を起こすくらいには犠牲にしているのだから。
 自分の一番身近である片割れの、心からの願いを知っていて叶えられずに、民の為の国作りだなんてちゃんちゃらおかしい。遠い他人を愛する前に家族を先に愛せよ、と。
 アッシュに言えないくらいに贔屓が入った考えに辿り着いたが、ユーリは訂正する気が無くなった。だってアッシュはルークの願いを無視しているのだから、代わりに自分がアッシュの願いを無視するのだ。それはルークの意図する所ではないかもしれないが、最終的に上手く行けばいいのだ結果論として。

 ユーリはちらりと遠くの景色を見て、陸地までの距離を目算する。浜辺が近くに見えており、すぐ傍に森が広がっていた。足元には浮き輪が転がっていて、何もかも丁度良い。
 ニヤリと嘲笑う空気で大きく表情を作り、アッシュに向かって指を突き付けると同時に隣のルークの肩を引っ掴んだ。

「オレの言いたい事は最初からずっとルークが言ってるだろうが。ナタリアと二人で精々仲良く良い国作りしてくれよ!」
「……っ!?」

 アッシュ・ガイ・フレンの目の前で、ユーリはルークを抱き締めてキスをした。触れた感触は思っていた以上に柔らかく、こんな時でなければもう少しちゃんとゆっくり味わいたいなと思う。唇を合わせながらもあまりの展開に呆然と見開く翡翠を薄っすら見ながら、ユーリは目下で白い上着のボタンを外していく。
 そしてアッシュ達が間抜けにぽかんと口を開けている隙に、抱き締めている腕は離さず床の浮き輪を拾い上げて真横の縁に足を掛ける。誰かの驚く声を背後で聞きながら、ユーリはルークを抱えて船外へ身を投げ出した。

 重力から一瞬開放されるが直ぐ様船体の出っ張りを数回蹴り、剣紐を引っ掛け移動しながら船体の真下に潜り込む。前方部の使われた場面を見た事が無い主砲収納機関、そこに鞘を差し込み背中を詰めて足を止めた。右手に抱いているルークを離さないよう気を付け、脱がした白い上着を軽く浮き輪に絡めて、甲板からは見えないだろう真下へばしゃんと派手に叩き付ける。
 ゆらゆらと波間に揺れて、ゆっくり流れていった。上からガイ達の慌ただしい声が聞こえてきて、大騒ぎになっている。

「ルークは!?」
「くそ、船の真下か!」

 特徴的なルークの白い上着は浮き輪と一緒にぷかぷかと流れ、もう少しすれば彼らの目に留まるだろう。頭に血が昇っている今の彼らならば、こんな子供騙しでも僅かの間くらいは時間稼ぎになってくれるはず。
 陸地はどんどん近付いており既に泳いでも辿り着ける距離。バンエルティア号はその巨大さ故に、着陸出来る場所が限られている。浜辺には直接横付け出来ないので、その間におさらばさせてもらおうと言う訳だ。

 抱き締めているルークは相変わらずぽかんとしており、今回の件が始まってからこちらが振り回されっぱなしだったのでいい気味だなんて思った。背中に回している右手の力を強めて、肩を寄せる。それに気付いたルークは今更ながら戸惑う表情で見返してきた。

「……お前、どうすんだよマジで戻れなくなってんじゃねーか!」
「何、やっぱりルークは王位継ぎたかったのか?」
「馬鹿、俺の王位なんて元々どうでも良かったんだよ! そんな事よりお前が船に戻れなくなるだろ!? すぐに取り消してこい!」

 アッシュはナタリアの事をつまらない事と言い、ルークは王位をそんな事と言うのか。やはり双子だな、何処か根本的に可笑しい。昨日理由を話した時もナタリアの立場ばかり口にし、自分の事を随分軽く扱っていたように感じたが、やはり本当にどうでもいいと思っていたらしい。アッシュやガイ達がルークの立ち位置を考えていると言うのに本人がこれでは、彼らも報われないだろう。良く言えば平等、と言えるのかもしれないが。
 民とルークの事を考えルークの意見を無視したアッシュ、アッシュとナタリアの事を考えアッシュの意見を無視しているルーク。ナタリアは……どうなのだろうか、付き合いが長いだろうしまわり回って上手く行っているパターンのような気がした。
 どちらにせよ一国を背負う予定の王子二人が揃って、そんな狭量でどうするのかと言いたい。それこそナタリアが言ったように広い心で柔軟に受け入れてもいいんじゃないのか、と今更ながら言いたいがどうせもう手遅れだ。その提案はユーリによって却下させている。

 バンエルティア号はもうかなり陸地に近付いていた。恐らく少し先にある高台に一時着陸するだろう。ユーリは上から声が聞こえない事を確認してから鞘を引き抜き、ルークを抱き締めたまま海に落ちた。

「わぷっ!」
「息を大きく吸って、楽にしてろ。ちょっと冷たいけど我慢な」

 波も穏やかで、海は透きとおり大きな魚影も無い。ルークの腕を引きながらユーリは泳ぎ、数分で浜辺に辿り着いた。海で泳いだのは初めてだったらしく、ルークはぜえはあと肩を大きく動かしている。
 少し遠くに見えるバンエルティア号を避けて、街道を突っ切り近くの森へ身を隠す。ふう、と一息吐いてずぶ濡れの服を絞った。くしゅんと小さくくしゃみをするルークを呼び、長い朱金を絞ってやる。
 やはりお坊ちゃまにこの強行策は乱暴だったらしく、表情は不満気に怒っていた。一生分の恩なのだから、これくらいいいではないか。ユーリは既に腹積もりを決めている、ルークとは違う意味で。

「馬鹿、なんで戻らねーんだよ!」
「お前ね、あそこまでやっといてオレがすごすごと戻れると思ってんならそっちの方がすごいぞ。むしろそういう苦行を強いるつもりだったのか?」

 どうやら怒っていたのは、ユーリが船に戻る気配をさらさら感じさせない態度についてのようで。ルークはどうも、色んな意味でポイントが一般人離れしすぎている、そんな所が案外ユーリは好きだな、と唐突に降って湧く。
 自分で自分に苦笑するが、ルークはそれを自分に向けられたように感じたらしくムッとしている。巻き込んだ自覚は一応それなりにあったらしいが、あの巻き込み方で穏便に事後処理が出来ると思っていたのだろうか。そればかりは流石に見通しが甘すぎると言わざるをえない。

「けどお前、エステルとかフレンとかいるじゃねえか」
「エステルはまあ依頼の道連れって感じだし、アドリビトムに任せときゃいいだろ。フレンとはそんな簡単に切れる縁じゃねえから心配すんな」

 親友のトドメを自分がやろうと思ってくれるくらいには、強い繋がりだ。喧嘩した程度で切れる縁じゃない事はお互いよく知っている。エステルにしてもフレンが居れば問題無い、実際依頼としては既に完了している訳で。
 そう説明すればルークは普段見ないくらいに瞳を大きく開けて、まるで幼い子供のようにぽかんとした。

「あれ、……お前ってエステルと付き合ってるんじゃなかったのか?」
「そんな話題が出た事、一度も無かっただろ……。って言うかお前は相手が居る奴を愛憎沙汰に巻き込んでたつもりだったのか?」
「いやその、お前との噂を滅茶苦茶に流しても、エステルと付き合ってるって事実があるなら笑い話で流れるかなって……」
「流れるか! お前それどっちにどう転んでも不幸な奴が出てくるじゃねーか!」
「え? 誰が不幸になるんだよ?」
「……マジかよ、こいつ」

 ユーリは最近から品切れになっている呆れを、はああと消費してストックすら無くしてしまった。ルークがユーリの評判を著しく落としたあの話を、実際は恋人が居るから事実無根だと帳消ししようとしていたとは。そんなもの、火の中に燃料をぶち撒ける結果しか見えないだろうに。
 それ以外にも噂が原因で破局したら、もしくは本当にその理由で収まってもそれではルークだけが悪者で哀れなピエロになってしまう。そんな風にならなくて心底良かったと、ユーリは安心したと同時に苛つく。
 この王子様はたった100ガルドで人の人生を巻き込んでおいて、最終的に放流するつもりだったとは。しかも自分が泥を被る事を全く意に介していない所も気に入らない。本物の泥の飛沫は大騒ぎして嫌がるくせに、弟という餌の為に上だけ見て底なし沼に嵌っているのに気が付いていない。
 馬鹿だ、馬鹿すぎる。あの町のパティシエのように周りが見ていないと自滅してしまうタイプだと評したが、ルークは周りを巻き込んで爆発するくせに本当に自滅するのは自分だけだなんて質が悪すぎるだろう。引きずり込まれて魅了されてしまった者の立つ瀬が無いではないか。ユーリは困った事に、こういう馬鹿は放っておけないし案外嫌いじゃないのだ。
 ニヤッと笑い、頬に張り付く朱糸を払ってやる。ルークはその手に見向きもせず、眉を怒らせてじっとユーリを見つめた。それに気分が良くなり、勝手に口角が上がる。そして自分の中で決定事項を悠々と告げた。

「王位に拘ってないなら、オレと駆け落ちしてもいいじゃねーか」
「駆け落ち? ……駆け落ちぃ!?」

 驚くルークに、今更だなとユーリは大笑いした。一生を一緒に生きるのだから、王位継承者の肩書はお邪魔者だ。そのお邪魔者はルークにとってどうでもいいものだが、周りはそうじゃない。だから駆け落ち、明確に分り易いロマンスじゃないか。手に手をとって二人一緒に、どこまでも。

「頭の固いあの二人にゃ、口で言ったって無駄だって」
「そう、だなぁ。口ではアッシュに勝てそうにないし、俺が消えれば婚約は自動的に移行されるよな?」
「だから行動で見せるんだ、手っ取り早くていいだろ」
「駆け落ち……。ユーリと二人で、かぁ」

 ルークは前々からアッシュに言っていたのにあの始末だ、口だけでは分かってもらえない事はよく知っているはず。思惑通り、ルークの反応は悪くない。ユーリは笑いながら、意味をたっぷり込めて誘う。

「でもよ、いきなり消えたら母上達が心配するだろ……」
「そう言って尻込みしてるから本気と受け取ってもらえないんだろ? まあ……どうしてもってんなら手紙を送ればいいんじゃないのか、出す場所バラバラにしてよ」
「出す場所をバラバラにって……旅するって事か?」
「そ、オレと二人きりでルミナシアを回ろうぜ。アドリビトム支店って事でよ」
「おお、それいいな! なんか楽しそうだ!」

 窮屈な生活をしてきただろうルーク用に、そんな誘い文句で言えば簡単に乗ってくると思いきや案外親思い。可愛がられていたのだろう、ならばと出した妥協案で何とか頷かせる。駆け落ちしながら連絡を入れるとは、と思ったがルーク程の身分ならば仕方がないか。
 そうしてやっとルークは暗かった瞳をキラキラと輝かせてはしゃぎだす。その姿は年齢よりかは若干子供のように見えたが、それを素直に可愛いものだと映した。
 ユーリは二人きりで、という所を強調したつもりだったが、残念ながら気付いてもらえなかったらしい。苦笑しながらも、まあこれからやっていけばいいかな……と楽しみになった。

「とりあえず、どこか近くの町か村に移動するか。このままじゃ風邪ひいちまう」
「そだなー。って言うか俺の上着ぃ!」
「悪い悪い、服買ってやるって」

 以前の失敗を反省して、ユーリの懐は多めに持ち歩いている。それがあれば暫くの間は安泰だろうし、大きめの街か国で依頼を取ればどうとでもなるだろう。贅沢病のお坊ちゃんの躾はまあ、おいおいに。
 まだしっとりと濡れた朱金を尻尾のように揺らして、ルークは先頭を切って歩き出す。方向を分かっているのだろうか、と思ったが任せてユーリも歩く。どうせ目の前には街道が通っているのだから、歩いていればどこか辿り着くはずだ。

 駆け落ちもそうだが、キスした事もルークの中ではそう大した位置付けにないらしい。確かにあれは勢いと言うか、デモンストレーションみたいなものだったが、ここまであっさりと流されると仕掛けた方が虚しいではないか。普段のイメージならばもっと怒ると思っていたが、目の前の本人は気にした様子も無い。
 それは自分の願いが叶えられる可能性を見つけたからなのか、ユーリと一緒だからなのか。自分で考えて、後者は無いなと考え直した。ならばこれから、此方へ天秤が傾くようにしていけばいい事だ。どうせ時間はたっぷりとある、何しろ一生分で、墓だって同じ場所に入る予定なのだし。

 ユーリは浮かれる気分に鼻歌を歌いたくなったが、我慢して目の前の朱金とのこれからを想像して楽しむ。自分が言い出したのだから、きちんと責任は取ってもらわないと。嘘から出た真、瓢箪から駒。今度はこっちがルークを慌てさせる番だ、一体どんな表情を見せてくれるのだろう。
 とりあえずそうだな、将来的に100ガルドでとんでもなく素晴らしい買い物をした、とルークに言わせてみる野望をユーリは胸に秘めた。








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